49話 アリステル
示された道は、道といっても獣道だった。釣り場があるのだからかつては人が行き来していたのだろうが、今は使われていないようだ。ユマは硬い雪上を苦労して進み、倒木のせいで何度か道を見失いそうになった。
歩いているうちに身体が温かくなり、冷たい風もいくらかましになってきた。小鳥のさえずりが聞こえはじめ、霧が晴れてきた。羽音が聞こえたかと思うと、近くの枝にコヨーがとまった。その鳥を見上げたとき、樹冠から差し込む陽光がまぶしくて目を細めた。
ローレインを前にした状況では、警戒心からろくに眠れなかった。ユマはふらついた拍子に、幹にもたれかかる。立ったまま目を閉じ、眠りそうになる。
犬の吠え声がして、ユマは目を開いた。見ると、白の牧羊犬がこちらへ駆けてくるところだった。
「ヴィヴィ?」
犬は尻尾を振りながら、ユマの周りをぐるぐると回った。場所を知らせるように何度か吠える。ユマはしゃがみ、温かい犬をなでまわした。
すぐに、紅色の外套をまとった小さな人影が現れた。携える杖の形で分かった。アリステルである。毛皮のついた温かそうな頭巾をかぶっていた。
近づいてくる彼女はひどい形相をしていた。血色が悪く、一睡もしていないことがうかがえた。肩にはコヨーがとまっている。彼女はユマを上から下まで眺めると、ため息をついた。
「死んでなかった」
「残念か?」
黙ってヴィヴィに褒美をあげる彼女は、軽口に応える気力がないようだった。立ち上がると、やつれた顔で言う。
「一ルニ歩けば村がある。そこまで歩けそう?」
彼女に優しくされたのははじめてだった。戸惑っているうちに、毛布を渡された。ユマは礼を言い、それを巻いて外套代わりとした。
アリステルが紙ばさみから三本のリボンを取り出した。白のリボンを選んで、コヨーの脚に結びつける。リボンは他に、赤と黒があった。おそらく色によってユマの状態を知らせるものだろう。羽を広げたコヨーが、木々の向こうへ消えていった。その行為によってユマは、先ほど遭遇したコヨーが彼女の伝書鳥だったことを知る。
「きみは動物の目を借りられるの?」
「うん。コヨーは夜目がきくから、ずっとあの子を使ってあんたを探していた」
「他に誰が探している?」
「マグナとロクサンが。マティニールは村で待機している」
ユマは心中でため息をついた。
「迷惑をかけてごめん」
「べつに。このまま死なれたら後味が悪かったし」
「なんのこと?」
「気にしていないならいい」
アリステルがふいと横を向いた。だが思い直したのか、青緑色の瞳が遠慮がちに向き直った。
「その、ひどいことを言った」
ユマは驚きに立ち止った。
「きみがいつ、ひどくないことを言ったんだ?」
無言ではたかれた。
相手は肩を怒らせて先へ行ってしまう。女の子の気持ちはどうもよく分からない。事実を言ったまでなのに。
二人が辿り着いた集落はレタという名の、リマの東にある村だった。
広場には大人ひとりが入れる大きさの、天幕が張られていた。アリステルが村人の手を借りて張ったもので、そこに籠って一晩中、コヨーの目を借りていたのだという。ロクサンは西の村へ向かい、タイニールは南の山へ向かった。南、つまりヘテオロミアへ向かう道が最も整備され、襲撃者にとって通りやすいからだ。
天幕の手前には囲炉裏代わりの鉄窯があった。そこで火を焚き、アリステルがスープを作る。手慣れたものだな、とユマは思った。修行の一環として、一人で野宿をすることもあるのだろう。
立ち昇る煙に気づいて、村人たちが集まってきた。だが一定の距離を保ったままで、話しかけてはこない。アリステルが言うに、原因はユマにあるようだった。
「知らない顔だから警戒している。山脈の内部に暮らしているのは五百人くらいだから、知らない顔はそのまま部外者を意味する」
アリステルから、湯気の立ち昇るお椀を差し出される。ユマはそれを両手で頂戴した。ヴィヴィが自分もほしいと言わんばかりに見つめてくるので、肉のかけらをすくって与える。
「よう、アリステル。見つかったみたいだな」
顔をあげると、日焼けした初老の男が立っていた。他の者より凝った刺繍の外套をまとっている。見たことのある顔なので、おそらく以前リマに来た代表の一人である。
「おかげさまで。少し休んだらリマに戻ります」
とアリステルが応える。男が頷き、隠しから嗜好品と思しき葉を取り出す。
「マティニールは元気にやっているか」
「ええ。最近は歌の魔法に興味があるみたい」
アリステルが、「マティニールのお父さんよ」と紹介する。ユマが挨拶をすると、彼はトリオンと名乗った。葉を噛みながら、にやりとする。
「おまえ、アリステルから杖を取り上げたんだって?」
「トリオン!」
ユマが答える前に、抗議の声があがる。魔術師にとって、自分の杖が敵に渡ることはこの上ない屈辱である。村人の一人を手招きで呼びながら、トリオンはつづけた。
「タイニール……マグナが気に入るのも分かる。おまえはロクサンと違って無駄口を叩かなそうだし、魔法を使わせたら強そうだ」
ユマがちらりとアリステルを見ると、彼女は知らん顔でスープをすすっていた。もしかすると、ユマが魔法を使えないことは、弟子の三人にしか知られていないのかもしれない。トリオンが呼んだ村人は、畳まれた外套とナイフ、それに山杖を抱えていた。あまりにも軽装備なユマを見かねたのだろう、それらを貸してくれるとのことだった。
食事を終えたあと、二人は村を出発した。リマまでの距離は道なりに八ルニだという。ユマは、思ったより遠くに来てしまったことに驚いた。アリステルの足跡につづきながら尋ねる。
「マティニールはこの村の出身なの?」
「うん。オストラス山脈の内側には三つの集落がある。西にイラ、中央にリマ、東にレタ。マグナの弟子はそれぞれの村から一人ずつ選ばれる。それからマグナに最も適している者が、次期マグナとしてリマに暮らす。そうでない者は、イラかレタの村長になることが多い」
「きみの出身は?」
「リマ。……あんたとは一応、はとこの関係になる」
「そうなの?」
驚いたが、よく考えればこの小さな社会では、元をたどればみな親戚になりそうだ。
「じゃあ、きみはリマで、両親と一緒に暮らしているのか」
「いや。マグナの弟子は弟子たちだけで暮らす。集会所の近くに、客人用の建屋があるのを知っている? 管理もかねて、あそこで三人一緒に暮らしているの。マグナからの指導もそこで行われる」
それに、と彼女がつづける。
「わたしに両親はいない。母はわたしを生んですぐ死に、父はわたしが六歳のころ、凍った湖に落ちて死んだ。マティニールとロクサンがきょうだい、マグナが母であり父代わりよ」
枯れ枝をどけるアリステルを見ながら、ユマは、自分が今までどれほど安穏と暮らしてきたかを知った。市壁のなかで暮らす者、しかもユマのような上流階級の者となると、日常のなかで死を意識することはほとんどない。だが妖精や精霊がはびこる自然のなかで暮らす者は、常に死と隣り合わせである。