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夏の王冠  作者: sousou
1章
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4話 最後の夜①

 最初は風邪かと思った。乾いた咳を何度も繰り返し、苦しそうにユマの服にしがみつくフェルーは、熱を帯びていた。心配したイスファニールがフェルーの部屋で過ごすようになり、やがて、夜もその部屋で寝るようになった。


 病の原因は分からなかった。調子がいいときには、馬車に乗ってでかけることもできたが、外出した日の夜には、フェルーは必ず熱をぶりかえした。フェルーは慢性的に咳に苦しんだ。血色を帯びた肌が徐々に白くなり、瞳から生気が失われ、腕も脚もやせ細っていった。日の出が遅くなり、日の入りが早くなり、一日の暗い時間帯が長くなるにつれて、彼女の命の灯が小さくなっていくようだった。


 ユマは以前にもましてフェルーにつきっきりになった。イスファニールが部屋にいられないときには、必ず一緒にいた。いつしかフェルーをひとりにさせないことが、二人の間で暗黙の了解となっていた。


 就寝前はよく、寝台に大判の絵本を広げ、フェルーを間に置いて、三人で横になった。蝋燭の炎に浮かび上がる妹の横顔は、まるで精巧なカメオの浮彫だった。死神がいまにも連れ去ってしまうのではないかと思うと恐ろしくて、その横顔を見たくなくて、ユマは妹をできるだけ笑わせるように努めた。数えきれないほど多くの部屋がある館で、三人の親子はたった一つの部屋から出ることはなかった。


 いつのころからか、ユマはイスファニールの姿を見かけないことが多くなった。彼が学園から帰ってくると、母は紅色の肩掛けをまとい、フェルーを任せてどこかへ行ってしまう。そして星々が輝きはじめるころに戻ってきた。


 ユマはふと、母もまた憔悴していることに気づいた。彼は愛する人がみんな、自分の知らないうちにいなくなってしまうような気がして、怖くなった。


「いつもどこへ行っているのですか、お母さま?」


「フェルーが元気になるよう、お祈りをしているのよ」


 彼女の答えはその一点張りだった。しかしユマは信じなかった。成長するにつれ理解したのは、母は信心深い人物ではないということだった。形だけは毎週、ユマを連れて神殿に赴くものの、母の神像に注ぐ視線はいつも無感情だった。だが他者がその澄みわたった瞳から、イスファニールの思考を読み取ることは至難の業だろう。彼女のまとう神秘性は人びとを煙に巻く。だからいつも彼女のそばにいるユマとカユラ――そしてヨダイヤ以外に、気づいている者はいないと思われた。






 そして、あの夜がやってきた。


 その日、三人で眠る時刻になっても、イスファニールが戻ってこなかった。間の悪いことに、フェルーの具合もいつもより悪かった。怪訝に思ったカユラが母を呼びに行ったが、待っている間にも、フェルーの咳はひどくなるばかりだった。


「おかあさまを連れてきて」


 フェルーは何度もせがんだ。


「おかあさまに会いたい、ユマ」


 まるで、いま会わなければ二度と会えないとでも言うようだった。ユマが彼女の背をさする手を止め、立ち上がったのは、徐々に大きくなる不安に耐えられなかったからだ。


 フェルーを置いて母を探しにいくことはできないので、ユマは彼女を毛布ごと抱きあげた。もう何日も歩いていないフェルーは軽かったから、ユマの細腕でも容易に抱き運べた。廊下を進む間、外では雪がふぶいていたが、通り過ぎる窓をぼんやりと眺める彼女は、あの幸せなひと夏から時が止まっているようだった。そっと窓に手を伸ばし、触れた。


「つめたい」


「そうだね。日が落ちたから」


「白く見えるのは雪? 夏はもう終わっちゃったの?」


 魔法は役立たずだ、とユマは思った。彼女に爽やかな空と、緑の原っぱと、青の花畑を見せてあげたいのに、夜の闇はあまりにも無慈悲で、銀の絨毯は血よりも残酷だった。


「終わってないよ」


 そう言って窓がフェルーの視界に入らないようにするしかなかった。そんなことをしても、廊下は吐く息が白くなるほど寒く、手はかじかみ、誤魔化せないことは分かっていた。フェルーは焦点の合わない目を宙に向け、もう何も訊かなかった。


 夢ならばいいのに、とユマは思った。ぜんぶ悪い夢で、目を覚ますと、青緑色の湖のほとりに、元気なフェルーの笑顔があればいいのに。毛布で口元を覆い、フェルーがくぐもった咳をする。それは虚無な空間に何度も、何度も響きわたった。霧のなかを歩いているような感覚だった。立ち並ぶ炎と影があざけるように踊り、どうやってもユマを道に迷わそうとする。


「イスファニール」


 父の声によって、ユマは現実に引き戻された。


 視線をあげると、執務室の扉があった。松明の火のゆらめきが、そこで立ち尽くす人物を浮かび上がらせる。カユラである。二人の姿に気づくと、彼女は唇に人差し指をあてた。フェルーの咳は止んでいた。


「どうしたんだ、明かりもろくにつけないで」


 父の声が聞こえる。カユラが忍び足で近寄ってきて、フェルーを抱き上げた。フェルーはうるんだ空色の瞳を向け、しずかに胸を上下させている。


「近頃はずいぶんと遅いのね、ヨダイヤ。訊きたいことがあって、待っていたの」


 イスファニールの声である。カユラが腕を取り、部屋へ戻りましょう、と手ぶり伝えてくる。ユマは首を横に振った。彼女の焦った様子から、母がただならぬ話をしようとしていることが分かった。ユマは扉に耳を寄せた。


「質問は一つよ、ヨダイヤ」


 衣擦れの音がして、止まった。


「フェルーに呪いをかけたのはだれ?」


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