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夏の王冠  作者: sousou
7章
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48話 約束

 ローレインが岩に肘をついた。


「ダルタロスに用があるのかと思ったが」


「なんだい、それ」


「ダルタロスはダルタロスじゃ。ずっと昔からここに暮らしている」


 鱗の乾燥を気にして、彼女が半身を水に浸けた。ふとした予感が、ユマの頭をもたげた。


「〈山の主〉のこと?」


「さあ、分からぬ。人間とはもう半世紀以上、口を聞いていないからな」


 顔を出したまま、彼女がすいと泳ぎはじめた。ユマは岩場に手をつき、身をのりだした。


「〈山の主〉は蛇の姿をした精霊だ。一年に一度、人間が供物を与えている」


 ローレインの尾びれが星明りに反射する。彼女は水中で一回転し、顔を出した。


「興味があるのか」


 しめた、とユマは思った。鼓動が速まる。彼女は人間よりずっと長い時を生きる。つまり、今を生きる人間が知らないことも知っている。


「取引をしよう」


「どんな?」


「きみはぼくに、〈山の主〉の情報を渡す。ぼくはきみに、その対価となりそうなものを渡す」


「ふん、対価か」


 考え込んだローレインが、口角をあげる。


「他の妖精との契約を破棄して、わたしに血肉を捧げよ」


「やだよ」


 信頼できる情報とも限らないのに、ずいぶんなぼったくりである。ユマは考えた。だいたい契約とは、何のことだ?


 口を曲げたローレインが寄ってきた。ネルもそうだが、妖精はときおり無垢な少女に見える。白い肌はみずみずしく、瞳は澄みわたっている。


「〈ディゲンの首飾り〉。これならよいだろう。ずっと昔、それはわたしの持ち物だった。が、欲深い人間どもがわたしを騙し、奪ったのじゃ」


「それは魔法具なの?」


「さあ。わたしにとっては普通の首飾りじゃ。だが人間にとっては何らかの効果があるのかもしれん。なにせ、わたしが二百年以上身に着けていたものじゃ」


 ユマは頷き、食べかけの魚を置いた。人間の持ち物ですら、長く身に着けていれば魔力が蓄積されるのだ。妖精の持ち物にも当然、魔力がこもっていると考えていいだろう。


「ディゲンとはなんだ? きみの名前か」


「ちがう。わたしの名はイディア。首飾りの名前は人間が勝手につけた」


 彼女が黙り込んだ。串を拾い、くるくると回してもてあそぶ。


「持ち主には検討がついている。このあたりでいちばん頼りにされている魔法使いじゃ」


「マグナ?」


「そう、そんな名前だった。わたしが最後に見かけたマグナは年寄りだったから、もう次の代になっているかもしれん」


 険しい目つきで、串をユマに向ける。


「首飾りを取られて、わたしも黙っていたわけではない。取り返そうとしたことは何度かあった。だが、相手があれでは質が悪い。一度、大怪我をして死にかけた。もちろん、わたしもそれ相応の仕返しをしたがな……。とにかく、それ以降はあの魔法使いに、うかつに近づかないようにしているのじゃ」


 ユマはイディアから串を取り上げた。彼女が持つと何でも凶器に見える。


「分かった、こうしよう。ぼくがまず、きみの大切な首飾りを取り戻す。その後、きみは〈山の主〉について知っていることをすべて話す。これで良いか」


 妖精と口約束したと話せば、タイニールは呆れるだろう。魔法に縛られない約束を、妖精がどうして守る? 彼らには名誉も体裁も関係ない。しかし他にどうしろと言うのだ。もしこの取引がうまくいけば、ユマは魔法の脅威をちらつかせずに、妖精との約束を果たした、はじめての人間になるかもしれない。


「良いだろう」


 そう言ったイディアの瞳には、かがり火の明かりが映り込んでいた。その瞳はユマにとって、十分信頼に足るものに見えた。





 あたりが明るくなり、湖中を泳ぐ魚の影が見えるようになった。


 イディアがユマのために、舟を運んできた。それはむかし河原で「拾った」もので、水に濡らしたくない持ち物を入れるために使っているらしい。積まれた袋の口からは貴金属が見えた。水辺でこれだけ保存状態が良いのだから、錆び防止の魔法がかけられているのかもしれない。ユマがしげしげと眺めていると、彼女は言った。


「物を盗もうなどと考えるなよ」


「盗まないよ。きみは恩人だ」


 くすぶる火元から名残惜しく離れ、ユマは舟に乗った。イディアが首をかしげる。


「寒そうだな」


「日が昇れば耐えられる」


 応えながらユマは内心、この妖精の人間臭いところが気になった。人間が寒く感じる気温など、妖精には分からないはずだ。表情や仕草で分かるとしたら、なぜだろうか。


 舳先に結びつけた縄を、イディアが丁寧に引いていく。銀の鱗が水面下にゆらぐさまを、ユマはぼうっと眺める。彼女は静かに歌を口ずさんでいた。それは古い言葉で、ユマには意味が理解できなかった。誰に聞かせるわけでもなく、自分自身の慰みに歌っているようだった。


 岩壁の間を抜けたとき、空が朝焼けの紅色に染まっていた。霧がたちこめ、岸辺の木々がかすんで見える。空気が変わり、弱々しい風が肌をかすめていく。ユマは外套がないことを忘れて、前合わせを重ねようとしてしまう。


 薄明りのなかで、ふと、イディアが振り返った。ユマは、彼女の美貌により、破滅に追いやられる人間の気持ちが分かる気がした。その瞳は湖と同じ深い青で、肌は石像のように白く滑らかである。彼女の視線はユマの頭よりやや上をさまよっていた。流れる霧がその表情を隠した。次に見たときには、彼女は前へ向き直っていた。


 丸太を並べた釣り場に当たり、舟がきしんだ。しなやかな手が縄を杭に結びつける。ユマが陸へあがると、舟が大きく揺れ、波が立った。それをイディアが押さえつける。布袋から、何かを取り出した。


「これをやろう」


 それは陶製のオカリナだった。彼女の瞳と同じ、群青色をしている。


「首飾りを手に入れたら、ここへ来て笛を吹け」


 あの洞窟はとてもよく音が響く。彼女が日々歌をうたったり、笛を吹いたりしている姿が目に浮かんだ。ユマはオカリナを受け取る。


「送ってくれてありがとう。それにごちそうも」


 縄をほどいたイディアが尾びれをゆったりと動かし、遠ざかる。ユマの背後を指さした。


「その道を進めば集落がある。また会おう、ユマ」


 霧に包まれ、彼女が見えなくなった。


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