45話 脱獄
それからオリファは、夜の見張りの数や勤務時間、待機場所などを、ネルの伝達をもとに入念に調べた。脱出するとき、領事館にいる衛兵は基本的に全員眠らせる。そうすれば朝の交代が来るまで、事は明るみに出ない。その間にオリファは着替え、偽装の手紙をつくり、マレタイの館へ向かう。その後、馬を連れ出し、市門へ向かう。馬を二頭連れていることに関しては、不自然ではない。伝令は途中で馬を替えることがあるからだ。門から出た後は、陽が昇るまでに、リマへ向けてできる限り距離をかせぐ。
「今夜の見張りは、室内に二人、正門に二人、裏門に二人の計六人ね」
逃亡を決行する日の日没後、ネルがやってきて伝えた。夕食はすでに支給されたから、牢獄には朝まで誰もやってこない。
「水をかけるわ。服を脱いで」
オリファはスィミアから着てきた、くたびれた服を隅に放った。水があまりにも冷たくて、叫び声をあげる。その後、ネルは印章を奪うために、領事館長の住まいへ飛んでいった。彼の住居は領事館の敷地内にある。
風邪を引かないよう、オリファが入念に髪の水気を拭いていると、ネルが戻ってきた。彼女の手にはたしかに、印章が抱えられていた。オリファは剣を二振り腰に差し、ユマの指輪を首から下げた。
「オリファ、準備はいい?」
「いつでも」
オリファがにやりとすると、彼女も口角をあげた。錠に魔法が放たれる。耳をつんざくような金属音が反響する。格子扉を押すと、簡単に開いた。
先にネルが天井をすり抜け、地上へ行った。オリファは剣を抜いた。階段を昇りきったところで、鍵の回される音がした。念のため応戦の体勢をとる。
「成功よ」
ネルが扉を開ける。オリファは構えを解き、地上に出た。衛兵が一人、やりかけのチェスをそのままにして、眠りこけている。対戦相手は起きているが、布を噛ませられて声を出せない上に、後ろ手で縛られている。オリファの姿を認めると、もがきだした。
まず予定通り、門の衛兵を黙らせる。裏門の二人と正門の二人にネルが入眠の魔法をかけ、オリファが彼らをしげみに隠した。
屋内へ戻ると、拘束された事務員がまた騒ぎだした。オリファは彼の首に、刃を突きつけた。印章を机に置くと、縛めを解いて指示する。
「スィミアの市長宛てに手紙を書け。中身は書かなくていい。開けない状態でそうだと分かるようにしろ」
事務員が生唾を飲み込み、ペン先にインクをつけた。宛名を書き始める。
「おい、死にたいのか? 市長の名前はイレミアだ」
オリファは書きかけの便箋をひったくる。別の名前を書くことによって、手紙が偽物だと門衛に気づかせたかったのだろう。ネルがけたけたと笑っている。男は青ざめ、囚人がセール学園の学生だったことを――つまり文字を読めることを思い出したようだった。
男が震えながら蝋を垂らし、印章を押す。オリファは出来上がった手紙を手に取り、裏表をじっくり眺めた。申し分ない。
「ネル。こいつは用済みだ」
男の顔色が変わり、必死に何かを懇願する。布を噛ませているので何と言っているのかは聞き取れない。ネルが目を細めて、腕を掲げた。白目をむいて、男が机に突っ伏した。
ネルがため息をつく。
「眠らせるだけだなんて、面白味にかけるわ」
「同じだろ。奴は目覚めるまで、自分が殺されたものと思っているんだから」
オリファは眠る衛兵の服をひっぺはがそうとするが、思いとどまる。
「大きすぎるな」
「予備の服から選んだほうがいいわ」
ネルの後につづいて、隣の部屋に移動する。オリファは衣装箪笥のなかから、いちばん小さな服を選んでまとってみる。やはり大きいが、先ほどよりはましだ。ついでに上等な革靴も拝借する。部屋の明かりをつけたまま、領事館を後にした。
裏門から出たとき、オリファは咄嗟に身をかがめた。複数の明かりが通りの向こうから近づいてくるところだった。お揃いの制服に身を包んだ男たちが、酔っ払いの一人を捕まえ、家に帰そうとしている。
「ちっ、夜警か!」
「なにそれ?」
「都市議会に雇われた夜の見回りだ」
オリファは身を低くして逆方向へ急いだ。と、足を引っかけて転倒する。木材の散らばる音が響きわたる。夜警の顔がいっせいに向いた。ネルが小声で非難する。
「何しているの!」
妖精と同じ夜目を、人間が持つと思わないでほしい。オリファは鼓動が落ちつかないまま、路地へ駆けこんだ。壁に背をつけ、荒い呼吸を繰り返す。見られただろうか? 「何の音だ?」夜警たちの声が聞こえる。
「領事館のほうからだ」
「おいフリン、寝ぼけているんじゃないだろうな?」
からかいを含んだ声がする。フリンとはたぶん、裏門の衛兵のどちらかの名前だ。オリファは急いで尋ねた。
「ネル! この路地はどこに続いている?」
「正門がある大通りね。マレタイの家からは遠ざかるわ」
「行き止まりじゃないなら上々だ。行こう」
剣に触れ、魔法で小さな明かりをともしてみる。指輪がなくても問題なさそうだと、感覚が告げる。先導して素早く飛ぶネルの後を追う。ぼろ毛布に身をつつんで眠っていた路上民が足音に驚き、何事かと目をこする。夜警たちの声が遠ざかっていく。
「おかしいな。見張りが誰もいない」
「門が開いている。中の奴に訊いてみようぜ」
大股で雑多なものを飛び越えながら、オリファは考える。夜警に出くわすことを想定していなかった。門衛に異常が伝わる前に、馬を連れ出さなくては。
大通りに出る前に、魔法の明かりを消した。人の足によって長年磨かれてきた石畳が、月光を反射して輝いている。「急いで!」ネルにつづいて、オリファは懸命に駆ける。長らく監禁されていたせいで、体力が本調子とは程遠かった。途中で振り返ってみると、正門にまだ人の動きはなかった。梟の鳴き声が空にこだましている。
急な坂道をへとへとになりながら登りきり、貴族の住宅街へと辿りついた。ネルが指さす先には、井戸があった。その横に大きな樫の木が生えている。
「その木にのぼって。あとは屋根伝いに行けるわ」
オリファは井戸のへりに立ち、枝を掴んだ。力を振り絞り、身体を持ち上げた。暗くて枝の見分けがつきにくいが、だてに森で遊んでいなかったので、手さぐりで何とかなった。屋根に降り立ったとき、瓦がずれたような気がして、ひやりとする。
「嘘だろ、ネル」
月に煌々と照らされた一面の瓦屋根を見て、オリファは唖然とした。
「どう見ても屋根伝いに行けない!」
それぞれの屋根は、人が跳んで渡れるほど狭い間隔では設置されていなかった。ここは貴族の邸宅が並ぶ地区なのだ、庭が広いことに、先に気づくべきだった。けろりとして彼女が言う。
「これくらい大丈夫よ。ぴょんぴょん跳び歩いている盗賊をよく見かけるわ」
「専門家と比べないでくれ……」
いや待てよ、とオリファは思い直す。盗賊は魔法を使っているのか?
「つべこべ言わないでよ。マレタイの家はあれね」
指をさすと、その方向へネルが飛んでいく。頭を回転させながら、オリファも走りだした。盗賊が使っているのはきっと、市民がお得意の風神の魔法だ。踏切足に力を込めて……。妖精の羽がきらきらと輝く。振り返った顔は楽しげだ。
「大丈夫よ、落ちそうになったら助けてあげる!」
せーの、と掛け声が降ってくる。からかっているな! オリファは助走の速度をあげる。呪文を唱えながら、思いきり踏み切った。魔法の風が渦巻く。
がしゃん、と瓦の割れる音が響きわたった。オリファは隣の屋根に、尻から着地していた。ネルが拍手喝采し、「さあ、次よ。跳び上手になってね」と言った。