44話 地下牢
「あれがユマの異母兄弟?」
「うわ!?」
オリファは仰天して飛び上がった。見ると、小さな顔がにっこりとした。
「あたしはネル。ユマに頼まれてきたのよ」
妖精である。オリファは戸惑った。妖精は基本的に、人間との接触を避けて生きている。森で見かけることはあるにせよ、人間の住処である都市に姿を現すなど、聞いたことがない。
「ユマだって?」
「そう。知りたいなら、ユマが今どんな状況にいるか、教えてあげるけど」
オリファはうるんだ灰色の瞳を見返した。これは都合の良い幻想か? そう思って目をこする。いや、何度見ても妖精はそこにいる。落ちつけ。本物ならば、早計に応じてはならない。そわそわと動いているオリファを見て、妖精が意地悪く笑いだした。
「警戒不要よ」
「……どうやって信用しろというんだ」
「知りたくないってこと?」
口をへの字に曲げて、妖精が格子の外へすり抜ける。「そうじゃない!」オリファはあわてて格子にしがみついた。
「そうじゃないけど……分かった、教えておくれ」
手を差し出す。
「オリファだ」
彼女の小さな手が、人差し指を握った。
頻繁に通る馬車の音が、そのつど話を中断させる。ときに、何者かの叫び声とか、物が壊れるような音も聞こえた。都市の喧騒のなかで、オリファはユマが無事にリマに到着し、叔母と概ねうまくやっていることを知った。そしてこの妖精が、ユマの逃亡に協力したことを知った。
話を聞き終えるころには、とっぷりと日が暮れていた。唯一の明かりはネル自身が放つ光だった。
「で、いつこの肥溜めみたいな場所から抜け出すの?」
暴れたくて仕方がない、という様子で、ネルが手中で霊気をもてあそぶ。それを見てオリファは気づいた。牢獄にかけられた魔法封じの魔法は、対人間用であり、妖精に対しては効果がないらしい。
「待って。きみが自由に魔法を使えるのなら……逃亡する前に、盗られた剣と指輪を取り返したい」
「なによ、モノなんてくれてやればいいじゃない。それがなければ死ぬわけでもないし」
「そういうわけにはいかないさ。おれにとっても、ユマにとっても、この世で唯一の大切なものだ。きみにも誰にもあげたくない、大切なものくらいあるだろう?」
彼女の睫毛が蝶のようにばさばさと動いた。
「ユマのものを取り戻して、どうするつもり? あなたはオイスガルドへ行くんでしょ」
オリファはひととき、言葉を失った。ユマが妖精に、そう指示したということか。壁から背を離した。
「ユマには指輪が必要だ。というのも、指輪には悪霊除けの魔法がかけられているんだ。何より、おれはオイスガルドへ行くためにスィミアを出たわけじゃない」
「じゃあ、指輪を取り戻したら、リマへ向かうつもり?」
「そうだ」
ネルは宙に留まり、腕を組む。
「分かったわ。また明日ここに来るから、作戦を考えておいて」
銀の軌跡を残して、ネルが窓から去っていった。
オリファは冷たい床に横になる。角灯が落ちたのか、道路からガラスの割れる音が聞こえた。それから、従者が叱責される声。酔っ払いのうたう音痴な歌。ついで鎧戸の開く音。「あんたら、何時だと思ってんの!」笑い声。半分夢のなかに入ったとき、「捕まえろ!」との叫び声に、オリファはびくりと目覚める。ばたばたと走る音。
うるさくて眠れたものではない、と思うと同時に、どこかオリファは安堵した。慣れ親しんだ、都市の音である。きっと大丈夫だ、とオリファは自身を励ます。父さんも母さんも姉さんも、無事にオイスガルドへ着いたはずだ。
作戦は二段階に分けることにした。まず、マレタイに盗られたものをとり返すこと。次に、ヘテオロミアから脱出することだ。
幸い、通気口には剣の鍔が通るほどの広さがあった。だから物品については、ネルに取ってきてもらうことにした。というのもオリファが牢屋から抜け出し、危険を冒して物を奪い、また牢屋に戻ってくることは現実的ではない。周囲への影響を考えると、牢屋から抜け出す機会は一度しか得られない。それは都市から抜け出すときのために、とっておく必要がある。
ネルであれば、姿を消すことができるため、見張りに存在を気づかれる可能性は限りなく低い。警備が薄く、人目につかない時間帯を狙って、物を奪えばそれでおしまいだ。
作戦を伝えた日の夜中に、通気口から音がした。やっと眠れたところだったのに、とオリファが眠気まなこで見やると、得意げな笑みを浮かべて、ネルが布袋を引きずってくるところだった。オリファは飛び起きた。
「さあ、確認して」
ネルが格子の内へ入る。
「剣が二振りに、指輪が四つ。三つはユマので、一つはあなたのね」
魔法の明かりが灯される。自身の剣を握ったとき、オリファは柄から温かみを感じた。ユマの剣を取り出し、袋のなかをのぞく。思わず声をたてて笑った。ネルは空から星を集めてきたのだろうか。
「この大量の宝石はなに?」
「ただ働きは御免よ。これはあたしの持ち分」
「ちゃっかり屋の妖精め!」
「なによ、あなたからは何も取ってないでしょ!」
きらりと光った鎖を引くと、四つの指輪が通されていた。
「間違いない。おれとユマの指輪だ」
オリファは剣と指輪をまとめて、寝藁の下に隠した。
ネルの報告によると、マレタイは翌日、宝物がなくなったことに気づいた。だが泥棒の入った形跡がないため、館内の使用人を疑っているらしい。監禁されているオリファが盗めるはずがないから、獄中にあるとはつゆにも思わないだろう。
オリファは二段階目の作戦の準備に入った。ネルに紙きれとペンをくすねてきてもらい、書きながら考えを整理する。
「きみはミスティルーだから、水の魔法はお手の物?」
「もちろん。何がしたいの?」
オリファは肩を鼻に寄せた。鼻が麻痺していて分からないが、ひどい匂いに違いない。
「ここを脱出する直前に、身体を洗いたい。このままの身なりじゃ、囚人です、と言っているようなものだろう。身分を偽装する必要がある」
「誰になりきるの?」
「スィミアの伝令だ」
分かった、とネルが頷く。
「水は簡単につくれるから、身体を拭く布切れを用意するわ」
オリファはそれを紙に書き加えた。
「で、脱出した後に何をするかだ。やることの一つは、領事館に務める衛兵の服を奪うこと。それより重要なのは、偽装の手紙をつくること。本物に見せかけるには、領事館長の印章がいる」
「館長をとっちめるってこと? 印章はいつも指にはまっているものなんじゃない?」
「そんな厄介なことはしたくない。寝ている間は外すだろうから、それをネルがくすねてくればいいさ」
「夜に脱出するの?」
「そう」
ネルが首をかしげた。
「人間の決まりでは、夜は門が閉まるから、町から出られないんじゃない?」
「そのための伝令の変装だ。伝令っていうのは、時に一刻の猶予も許さない使命を授かっている。だから例外的に夜でも門を開けてくれる」
「ならいいけど。馬はどうするの?」
オリファは頭をかいた。外から子供たちの笑い声がする。
「それなんだけど、どの馬でもいいというわけじゃなくて……。おれとユマの馬を連れていきたいんだ」
ネルがため息をついた。
「諦めたほうがいいわ。もう二頭とも売られるか何かして、他の人間に管理されているでしょうよ。どうやって探そうっていうの?」
「きっとマレタイの厩にいるはずだ。奴は強欲だから、馬も自分のものにするだろう」
馬鹿みたい、とネルが言う。
「その議員の厩にいなかったらどうするの? うろちょろしていたら追手がきて、牢屋に逆戻りよ。最悪その場で処刑ね」
オリファはうなった。ネルの言い分は最もだが、馬は家族も同然である。寝藁をさぐり、指輪が通された鎖を取り出した。そこから一つ、菫石のはまった指輪を取った。オリファ自身の指輪である。
「協力してくれるなら、これを渡す」
ネルがぎょっとする。
「それがないと、うまく魔法を使えないでしょ」
「使える。剣をよく見て。指輪よりも、おれとの親和性が高くなっている」
オリファが柄を握ると、かすかに光るものが霧散する。
「剣が杖代わりになるってこと?」
「試したことはないけどね」
指輪の周りを旋回しながら、ネルが考え込む。
さあ、欲しいだろう? とオリファは思う。ただの装身具とは価値が雲泥の差だ。第三の瞳は、持ち主が最も長く身に着ける物品であるから、自然と魔力が蓄積されている。ネルが手を伸ばし、指輪を受け取る。
「協力するわ」