43話 ヘテオロミア
灼熱の炎のなかに飛び込むような感覚である。立ち昇る火柱の合間に見えるのは赤銅色の鱗に覆われた竜だ。オリファは両手を差し出す。
「ここへ!」
強い反動と共に、目を見開いた。息があがり、背を伝う汗が冷たい。また失敗だ。そう思いながら、オリファはむなしく手元を見つめた。
いくら呼んでも剣が手元に来ない。ということはやはり、この牢馬車には魔法封じの魔法がかけられているのだろう。掴めそうな感覚はあるから、近くにあることは間違いない――つまりオリファと一緒にヘテオロミアに運ばれようとしていることは間違いないのだが。
馬車の進行速度がゆるまり、やがて止まった。昼飯は先ほど取ったばかりなのに、とオリファは思うが、聞こえてくる会話からそうではないことを知る。起き上がり、格子窓のそばに寄った。ヘテオロミアに着いたのだ。分厚いアーチの陰に入り、車内が暗くなる。馬車の振動の調子が変わる。これは驚いた、とオリファは思う。馬車が走るのは土の道路ではなく、石畳の道路である。ヘテオロミアもスィミアと同程度に、経済力がある都市のようだ。
都市特有の熱気と、騒がしさは久しぶりだった。人混みをかき分けてのろのろと進む時間は永遠に続くとも思われたが、ついに馬車が止まった。扉が開いたかと思うと、オリファは手かせの鎖を乱暴に引かれる。転がり出るようにして地に降り立った。
突然の明るみに目がくらむ。慣れてくると、そこが議会のある大広場であることが分かった。金色に輝く風神像をみとめ、いささか悪趣味だと思った。水を汲みに来た人びとや、市場に買い物へ来た人びとが足を止め、牢馬車から降ろされた罪人に好奇の視線を注いでいる。
オリファは胸糞が悪くなる。同じ顔をスィミアで何度も見たことがある。彼らが求めているのは血だ。誰でもいいから、痛めつけられ、苦しむ姿を見たいのだ。たまらずオリファは、地面に向けて唾を吐いた。
視線を戻すと、見慣れた牡鹿の徽章をつけた役人が二人、並んで立っていた。ヘテオロミアに駐在中のスィミア人だと思われる。一人が口を開いた。
「ニケーレ教授の息子のオリファか」
「はい」
大人しく応じると、役人が広げた帳面とオリファを見比べる。きっと記載されているのは、指名手配人物の情報だ。十四歳の少年、黒の巻き毛、菫色の瞳。捜索中であるノイスター家のユマとは学友。情報と一致することを確かめると、彼が言った。
「よろしい。詳しい話は屋内で聞く」
ヘテオロミアの兵士に囲まれながら、オリファは駐在員らの後ろにつづいた。議員としての威風を漂わせるマレタイが、駐在員の横に並んだ。一行は目抜き通りを進み、領事館の敷地へと入っていく。それがスィミアの領事館だと分かったのは、壁面にかけられた牡鹿のタペストリーからだった。
オリファは質問に正直に答えた。だからといって、拷問にかけられない保証はない。彼らはいつも、自分たちが望む通りの回答を要求するから。幸い、今回は望む回答と事実が一致していた。すなわち、ユマの逃亡にオリファが加担したという事実が。
オリファは処遇が決まるまで、領事館の地下牢に入れられることになった。光の届かない空間へ降りていくとき、それまで感じていなかった不安が沸いてきた。心配なのは家族である。スィミアを出るとき、彼らはあと数日でオイスガルドへ出立する様子だった。だが実際に出立したところは見ていないし、出立したとして、無事にオイスガルドに着いたかどうかも分からない。
覚悟していた通り、牢獄は不衛生だった。掲げられた灯火に不穏な影が浮かび上がる。オリファは隅に溜まったものや、溝にこびりついたものが何かを、努めて考えないようにする。腐りかけた死体の匂いがしないだけ、まだましだろう。天井すれすれの窓が二か所、目についた。また、炎の揺れる様子を見て、どこかに通気口があることを知った。他の罪人の息遣いはしなかった。
重々しく扉の閉まる音が響き、あたりが暗くなる。当然だが牢馬車と同様に、ここにも魔法封じの魔法がかけられている。
どれほど長い時間が経ったか分からない。扉の開く音がした。腹のすき具合から、夕食の時間かもしれない、とオリファは思う。しかし、それにしては足音が多すぎた。
掲げられた明かりがまぶしくて、オリファはしばらく来訪者を直視できなかった。伏せた睫毛をあげたとき、衛兵にしては背の低い人物を認める。
「……イルマ?」
従者を引き連れて立っていたのは、ユマと同じ色の瞳を持つ少年だった。彼が口角をあげた。
「お似合いな姿だな、愚鈍な平民め」
彼はユマのことはもちろん、オリファのことも嫌っている。貴族ではない身分の者が、自分と同じ学園に通っていることが不快なのだ。オリファは尋ねた。
「どうしてここにいるんだ?」
「ユマを捕まえに来たんだよ」
べつに、おまえがいてもいなくても変わらないだろう、と思う。手を動かすのはイルマではなく、彼の従者なのだから。そこでオリファは気づいた。
「捕まえるまで帰ってくるなって言われたのか? おまえのお母さまから」
かっとなった彼が、進み出ようとした。それを従者が押さえる。図星だな、とオリファは思う。ヨダイヤが死んで最も悲しむ人物はクリヴェラだ。よってユマを最も恨むのもクリヴェラだ。そしてイルマは母親の言うことには逆らえない。
「勘違いするなよ。おれにはもう一つ目的がある。お父さまの指輪を取り戻すことだ」
「そうか。おまえも大変だな」
スィミアにはノイスター家の分家が数多く存在する。おそらくイルマは、前の当主から受け継いだ指輪がなければ、正式な跡取りとして親戚から認められないのだろう。
「知ったような口をきくな!」
わめき声は無視して、オリファは別の問題について考える。
件の指輪はマレタイが持っている。しかしイルマは、ユマが保持しているものだと思い込んでいる。つまり、マレタイは事実と異なることをイルマに伝えたのだ。没収した品々を自らの財産にする気なのだろう。
それで問題ない、とオリファは考える。マレタイが指輪を持っていることを知れば、イルマはヨダイヤの指輪のみを没収するだろう。そうなると森の祭司さまがかけた、悪霊除けの魔法の効果がなくなってしまう。指輪は三つ揃えて、ユマに返さなければ意味がない。
彼らが出ていくと、静寂に腹の鳴る音だけが響きわたった。地上を通る馬車の音がうるさくて、オリファは窓から遠ざかる。