42話 襲撃
襲撃者は闇夜を静かに移動した。途中でユマを担ぐ者が交代された。地面に降ろされている間に、木のきしむ音が聞こえた。柵を乗り越えたのだろう。それからまた担がれ、今度は高さがあるものの上に、不格好に降ろされた。息遣いからすぐに分かった。馬である。男が背後にまたがり、片手でユマを抱えたまま、馬の横腹を蹴った。
ユマは、襲撃者が村人である可能性を排除する。というのも、リマで馬に乗る者は限られていた。タイニールやその付き添いなど、都市へ行く必要がある数人だけだ。そして男たちの声は、その数人とは異なる声をしていた。
馬は木立のなかを慎重に進んでいく。ここで暴れて馬から飛び降りるほど、ユマも愚かではない。降りたところで縛めは解けないし、へたに怪我をしたくない。それより、襲撃者が何者であるかを考えるべきだ。手際の良さと周到な準備から、はなからユマを拉致する予定だったと考えられる。問題は心当たりが多すぎることだ。
村が山に囲まれていることを考えれば、襲撃者がそれを越えようとすることは明らかだった。とはいえ、視覚に頼れない夜の山越えには危険が多すぎる。予想通り、しばらくすると男が馬を下りた。陽が昇るまで身を隠すつもりだ。足音が周囲に、かすかに反響する。洞穴に入ったのだろう。身体を持ち上げられ、ユマはごつごつとした岩場に降ろされた。いまいましい布袋と轡を取ってほしいが、そのまま放置される。
荷を下ろす音がし、火を焚くか焚かないかの相談が交わされる。用心深い彼らは、村人に見つかることを恐れ、毛布で我慢することにしたようだ。着の身着のままかどかわされたユマは、外套すら羽織っていなかったから、耐え難い寒さだった。へたをすると凍死するかもしれない。訴えようともがいていると、気づいた男が毛布か外套をかけた。ということは、ユマに死なれては困るらしい。
「いちおう顔を確認しておくか」
やっと布袋から解放されそうである。袋が取られると、小さな明かりさえまぶしく、ユマは目を細めた。口の詰め物も取られ、深く息を吐き出す。ユマばかりが煌々と照らされ、相手の顔はよく見えなかった。
「おい、おまえはノイスター家のユマだな?」
「ああ」
否定したところで誤魔化せないだろう。ユマを何度か見たことがあるかのような口ぶりだった。よって襲撃者はスィミアの者――さらにいえば、役人配下の市兵といったところか。おそらく、以前リマを訪れたというスィミア人もこいつらである。役人はクリヴェラと通じており、ユマを引き渡した暁には、莫大な富が授けられることになっているのだろう。
すぐに殺さないのはクリヴェラの命令に違いない。死ぬよりもっと苦しい思いをさせるためだ。
「分かっていると思うが、いくら暴れようとその縛めは解けない。無駄な体力は使わずに、大人しくしていることだ」
それきり男たちは黙った。ユマがあまりにも静かなので、再び口を塞ごうという考えは浮かばないようだった。荷物の整理を終えると、一人が洞穴の入口に立ち、一人が仮眠をとるために横になった。洞穴の奥からかすかな流水音が聞こえてくる。
雲が流れ、星が輝きはじめた。ユマは眠気を払うために星を数えはじめた。鹿座の角が見え、狼座の鼻が見える。雲が形を変え、羽衣のように薄く星々を隠す。地面に書いた字母が動きだし……。
ユマは書庫をのぞいていた。淡い光が差し込む昼下がり、窓際の椅子に腰かける男がいた。風のない穏やかな日で、窓の向こうの木々が色づいた葉を冠のように誇らしく戴いていた。本に視線を落としていた男が、おもむろに視線をあげた。
「そこで何をしているんだ、ユマ?」
幼いユマは肩を揺らし、扉の陰に隠れた。床に落ちた影が立ち上がり、近づいてきた。
「どうして隠れる?」
ユマは自分と同じ色の瞳を見上げる。彼の側近が怖い顔をして立っていないかと、不安になってあたりを見回す。ああ、と男が納得する。
「ウォリスか。ここへの出入りを禁止しているんだな」
廊下の先を見やる男は、深紅の壮麗な本を携えている。その金装飾の縁取りが、きらりと光を放った。ユマが本を見つめていることに気づくと、男は微笑んだ。
「本が気になるのか」
ユマが頷くと、男が手を差し出した。
「おいで、ユマ。文字を教えてあげよう」
ユマは頼りがいのある、温かい手を掴んだ。かと思うと、男はいつの間にかユマと同年代の少年になり、ユマも幼い子供ではなかった。ユマはおののき、手を払った。
力が急速に集まり、弾けた。そう思ったときには、ユマは覚醒していた。一歩引いた男たちの唖然とする顔が目に入る。待て、なぜ顔が見える? 光源を探すと、自分の身体が炎のような明るい光に包まれていた。ユマは両手を見やるが、焼けていないし熱くもない。それどころか縛めが解けている。
逃げるなら今である。
瞬時に身をひるがえし、ユマは洞穴の奥へと駆けだした。数呼吸遅れて、罵声とともに、男たちの乱れた足音が聞こえてきた。
なぜ外へ逃げなかったのか、と後悔したがもう遅い。幸い、道は奥へと続いていた。この道が行き止まりでないことを、ユマは祈った。身体が温かく、羽根のように軽い。明かりもないのに、直感で形状を見分けることができた。
「ユマ」
耳元で聞こえた声に仰天し、ユマはつまずいた。そのまま転がり、水溜まりのなかへ落ちる。次に目を開けたときには、周囲に暗闇が広がっていた。男たちの声はもはや、かすかにしか聞こえない。ユマは恐怖に水の冷たささえ忘れる。重くなった衣服を無理やり水面から引きはがし、触覚だけを頼りに逃げ道を探す。
脚の合間を流れる水は速い。うかつに進むのは危険である。ややあって登れそうな岩場を見つけた。安定した窪みに手をかけ、身体を持ち上げる。
「ユマ」
息を呑んだ拍子に、手を滑らせた。しまった、と思ったときには盛大な水しぶきの音があがっていた。押し寄せる水が口に入り込む。ユマは掴むものを求めて手を伸ばすが、何もなかった。地に脚がつかず、そのまま流される。
胃が引っ張られる感覚がして、轟音が聞こえた。落下する感覚。水中に引き戻され、くぐもった音に変わる。どちらが天でどちらが地か分からなくなる。
悪霊の腕が、水壁の向こうで揺らめいている気がした。まるでこの手を取れ、と言っているようだった。ユマは声なき声で叫んだ。おまえの助けを借りるくらいなら、死んだほうがましだ。寒いはずだが、もはや何も感じられなかった。
いつも評価やブックマークなどいただき、ありがとうございます。とても励みになります。感想などもお待ちしております。
次から6章がはじまります。