41話 最初の本
その夜、高らかに戸を叩く音がして、ユマは本から顔をあげた。
「出てちょうだい」
調理場からタイニールの声が聞こえた。良からぬ訪問者ではないかとユマがまごついていると、付け加えられた。
「アリステルよ」
燭台を持ち、ユマはおそるおそる扉を押す。果たして、言う通りの人物が立っていた。居住まいを正した彼女は、相手がユマだと分かると身構えた。挨拶は交わされなかった。
重量のある何かを押し付けられる。
「これをマグナに」
紙の束かと思ったが、ユマが明かりを掲げると、それは辛うじて形を保つ本だった。表紙が今にも取れそうである。一刻でも早く立ち去ろうとする背中に、タイニールが声をかけた。
「アリステル。用はそれだけではないでしょう」
もしも師匠の前でため息がつけるなら、彼女は盛大についていたことだろう。アリステルがユマを押しのけ、居間へあがる。ユマは毒づきたくなったが、タイニールの手前、大人しくしているほうが無難だと思い直す。
アリステルが外套を外し、戸口に掛ける。ついでに上着も脱ぐ。タイニールが籠を持ち、そこにいくつかの瓶を入れた。壁に立てかけた杖を取りながら、「調理場でやりましょう」と提案する。
「ユマ。勉強のために見ておく?」
傷の治療を今からするのだ、とユマは気づいた。返事をしかけるが、「嫌です!」と声があがった。
声主は顔を赤らめていた。黙り込んだタイニールがしばらくして、「そうね」と言った。ユマも理解した。彼女の傷は上腕にある。治療しやすくするためには上衣を脱がなければなるまい。少女があきれたように、小さくため息をついた。
アリステルから渡された本を脇に置き、ユマは読みかけの本に視線を落とした。やがて、二人が垂れ幕を押し上げ、調理場から出てきた。
「わたしは反対です、マグナ」
「あなたの言い分も分かるけど、敗者は勝者に従わなければ。それに、あなたにはもう必要のないものでしょう」
アリステルがぐっと言葉を呑み込む。タイニールが近づいてきた。
「ユマ。その古びた本はもう確認した? それは昔、ここを出てはじめての手紙と共に、イスファニールが贈ってくれた本よ。最初にあの子が使い、次にわたしが使った。そのあと、年長の弟子から順番に使わせて、年少のアリステルが今まで持っていた」
ユマは、ぼろぼろの表紙を慎重にめくった。そこには日中地面に書いたのと同じ、字母表が記載されていた。ということは、これは文字を学ぶ本である。
あることに思い至り、ユマは部屋にあふれかえる本を見わたした。
「もしかして、ここにある本は全て、あなたの代になって集めたのですか。昔からマグナに受け継がれてきたものではなく」
「その通りよ」
タイニールがユマの隣に腰を下ろす。
「それまでリマには、文字を学ぶ習慣がなかった。でもイスファニールからの手紙を読むために、わたし個人は学ぶことにした。それから試験的に、弟子にも学ばせてみようと思ったのよ」
「信じられません……こんなにたくさんの本を一人で揃えられるなんて」
本は非常に高価なものだ。ディオネットの神殿では神官たちが日々写本に勤しんでいたが、一冊の本を書きあげるには一年弱、へたをすると数年かかる。これほど多くの本を集められるだけの資金が、小さな村にあるだろうか。タイニールが応えた。
「譲り受けたものが多いわ。ヘテオロミアには有権者の顔なじみがたくさんいる。あとは、時折イスファニールが贈ってくれる装身具を資金源にしていた」
その言葉でユマは、母が布にくるんでこっそり、使用していない装身具を行李に詰めている姿を思い出した。今更になって、あれを贈るのはそういう理由だったのかと気づく。本そのものを贈るより軽くて小さく、何より痛まず、送付上での利点が多い。
「今日、あなたがアンダロス人にノクフォーン語を教えていたと聞いた」
タイニールの言葉に、ユマは身構える。予め考えておいた口実を心中で振り返っていると、彼女がつづけた。
「その本。口語を学ぶ本ではないけれど、いくらか役に立つはずよ」
信じられない気持ちで、ユマは見返した。つまり、バルトにノクフォーン語を教えても構わないということか。
「よいのですか」
問いの意図を、彼女はくみ取った。
「口出しはしない。慣れ合った上で、彼を犠牲にする覚悟ができているのなら」
「……そうなる可能性があることは分かっています」
耐えられるかどうかはまた別の問題だ。タイニールが頷き、不満そうに三つ編みをいじっていたアリステルに向き直った。
「この話は終わりよ。ユマに家まで送ってもらいなさい」
少女が勢いよく立ち上がった。
「必要ありません。彼は道に慣れていませんし」
タイニールが逡巡している間に、小ばかにしたように、アリステルの口から赤い舌がのぞいた。今度こそユマは悪態をつくところだったが、空色の瞳が向いたために、言葉を呑み込んだ。
「じゃあ、ユマは夕食の準備をしていて」
情けないが、アリステルの言うことは事実である。月の出ていない晩に、村の地理に不慣れなユマが出歩けば、思わぬ怪我をする恐れがある。タイニールが外套を取り、アリステルと並んで出ていった。
タイニールが夕食に何をつくろうとしていたかは、調理台に並んだ食材を見れば分かった。ユマは水で満たした鍋を火にかけ、村人から譲られた淡水魚のはらわたを取る。水が沸騰してから、魚を入れた。天井から吊るされた香草をちぎり、それも入れる。
鍋を火からあげたところで、戸口から音がした。タイニールが帰ってきたのだろう。
「パンは何切れ食べますか」
返事はなかった。ユマは、軒先にかかる輪飾りが、うるさく鳴っていることに気づいた。
「タイニール?」
垂れ幕を押し上げたとき、ユマは二人分の影をとらえた。すかさず剣を抜いた。
「誰だ!?」
頼りない蝋燭の火では顔を見分けられない。村人かもしれないし、そうでないかもしれない。前者であれば、闘争は避けたかった。躊躇の隙に、剣がはじかれた。魔法である。
逃げ道を考える前に、ユマは掴みかかられた。取り押さえられ、布を口に押し込められる。袋をかぶせられ、視界が暗くなった。抵抗するが、拘束される。身体が宙に浮き、担がれて運ばれる。足音から判断するに、どちらも男である。