40話 太陽
バルトは宴会の夜以来、小屋に閉じ込められたままだった。ユマは今から、彼を外出させようと思っていた。その目的は二つあった。
まず、村人に罪悪感を抱かせることである。村を囲む柵には魔法がかけられているから、彼が敷地内をうろついても、物理的には問題ない。それなのに彼を小屋に閉じ込める理由は、いずれ殺さなければならない人間に、人びとが情を持ちたくないからだ。バルトを救うためには、村人の人間らしい感情を引き出しておくに越したことはなかった。
もう一つの目的は、バルトが早計な行動にでるのを防ぐことである。彼が安全に逃亡できるというなら放っておこう。しかし、仮に彼が逃亡を試みて失敗した場合、村人から痛めつけられる可能性がある。儀式に使うためには、息さえしていればいいのだ。そのような事態に陥った場合、ユマの努力が無駄になる。それを防ぐには、頻繁に様子をうかがうことが必要だった。
ユマは鍵を回し、そっと扉を開けた。金髪の少年は小窓に向かって膝をつき、祈祷をしているところだった。それを見てユマは思い出した。アンダロス人は、太陽神を信仰しているのだったか。戸を叩く音は聞こえただろうに、彼の目は閉じられたままだった。きっとここへの来訪者は、用を済ませてすぐに出て行くものなのだろう。
祈祷が終わり、瞼があがった。ユマの姿を認めると、バルトはくつろいだ様子で立ち上がった。
「ノクフォーンの冬は長いけれど、ひと月前と比べると、日が伸びてきた」
「……ああ、夏は忘れかけたころにやってくるんだ」
朝の来ない夜はないし、夏の来ない冬もない。人びとはそう信じており、その期待を裏切られたことは一度もない。だが今までそうだったからといって、今後も冬の次に夏が来ると、どうして言い切れるだろう?
彼の困惑した顔を見てユマは、ノクフォーン語でぼやいたのだと気づいた。言い直さずに、背を預けた壁から離れた。
「もっと日に当たったほうがいい。きみは南の人なんだから」
村人たちの視線が注がれるなか、ユマはバルトを連れて広場へ向かった。長椅子代わりの倒木に腰かけたとき、タイニールの弟子であるロクサンが、そのたくましい腕で集会所へ水瓶を運ぶところだった。彼の呼びかけに応じて、もう一人の弟子であるマティニールが、集会所の扉を開ける。
最初にバルトの姿に気づいたのは、マティニールだった。その視線をたどって、ロクサンも振り向く。二人の視線が痛かった。ユマは彼らに背を向ける形で、座り直した。
溶けかけた雪からは、枯草がみすぼらしく飛び出ていた。ユマは棒切れで適当に雪をかいて、土を露わにした。
「ノクフォーン語をきちんと学んだことは?」
「ないよ」
バルトが隣に腰を下ろした。
「何度も使われる単語を聞いて、こんな意味だろうと予想をつけるだけだ。最初に覚えたのは『歩け』」
ユマは頷き、土に字母を書きはじめた。うろつく鶏が邪魔だったので、手を振って追い払う。
「マグナもきっと、必要な単語だけ覚えればいいと言う。でもせっかく時間があるんだから、きちんと学んだほうがいい。知らない言葉が飛び交うのは不快だろう」
疑念に満ちた瞳が見返した。いったん手を止めたユマは、最後まで字母を書ききり、顔をあげた。
「ぼくには妹がいる……いた」
言い直したとき、胸のえぐられるような思いがした。
「冬至の少し前に、父親に殺された。イレネの祭典の貢物とするためだ。そうやって人が死ぬのを、もう見たくない」
それ以上、話を続ける気にはなれなかった。バルトが雪原に視線を戻す。家々を吹き抜ける風が冷たい。長い間、家畜の鳴き声だけが響きわたっていた。
気づくとバルトは、山並みを眺めていた。まるで山の向こうの、さらに向こうにある、故郷に思いをはせているようだった。
「きみには家族がいるのか」
思わず訊いてしまったあとに、ユマは後悔した。踏み込みすぎた質問だったかもしれない。しかしバルトは気を悪くした様子もなく、「姉が一人」と答えた。
「いろいろあって、四年前に生き別れた。その後すぐに、おれは奴隷商人に捕まった。姉さんが今どこで何をしているのかは知らない。でもさすがに、アンダロスの外には出ていないと思う」
地面に書かれた字母をちらりと見ると、バルトは苦笑いした。
「先に言っておくけど、おれは勉強が得意なほうじゃない。それに今となっては、アンダロス語の字母すら怪しい。でもおまえの言う通り、他にやることもないし、できる限り努力するよ」
それを聞いてユマは、バルトに一程度の学があることを理解した。アンダロス語の文字を学んだことがあるなら、学んでいないよりは、ノクフォーン語の習得も速いだろう。ユマは立ち上がり、ノクフォーン語の字母の横に、対応するアンダロス語の字母を書きはじめた。