3話 あの夏の日
その年の冬、使用人たちは日がな一日、館を温めるために暖炉から暖炉へと奔走していた。空はしんしんと冷たく、星は輝き、多くの貧しい者が死んでいった。神官らは葬儀だの、寒さを鎮める祈祷だのに忙しく、見るも哀れなほどにやせ細っていった。
川の流れる音が聞こえだし、土が見えだし、色が生まれた。晴れ間が多くなり、宝石をそこらじゅうに埋めたように、雪が輝きだした。赤や黄色など、華やかな色の頭巾をかぶった娘たちが、花の初摘みへ出かける。娘たちの長い髪の房は、もはや外套の下にしまわれず、一歩踏み出すたびに楽しげに跳ねている。屋内はいつも光に満ち、一日のうち蝋燭を使うときはほとんどなかった。
十三歳になる年の夏、ユマはついにヨダイヤの許可を得ることに成功した。すなわち、フェルーをオリファに会わせるという許可を。
待ち合わせ場所は、母がよくフェルーを連れ出す湖だった。木漏れ日あふれる針葉樹の森を馬で進みながら、オリファが尋ねた。
「フェルーちゃんには、三歳にしてもう婚約の申し込みが来ているんだって?」
「先週で四歳だよ。言っておくけど、オリファだから会わせてやるんだからな」
ユマは行く手をさえぎる蔦をどかす。呆れたような吐息が聞こえた。
「きみの妹も大変だな。将来、うかつに恋人もつくれやしない」
「こいびと?」
素っとん狂な声がでる。驚いた馬が鼻を鳴らした。悲劇めいた調子でオリファが言う。
「おい、覚悟しておかなきゃだめだよ。かわいいフェルーちゃんも、いつまでもユマだけを好いてくれるとは限らないんだ……」
ユマは視線を漂わせた。
「もしフェルーが恋人を紹介してきたときには、そいつに魔法で決闘を申し込んでやる」
「待てよ。それじゃあ最初から勝負が決まったようなものじゃないか。決闘の歴史は剣術のほうが古いんだ。厳粛な勝負は剣によってだろう」
「そっちこそ、自分の得意分野じゃないか!」
相手がにやりと笑う。
オリファは、スィミアの剣術大会における〈少年の部〉で一位になるほどの腕前を持っていた。アンダロス人がそれを聞いたら、信じられないと言うだろう。なぜなら彼らにとって剣士とは、すぐにそれと分かる身体つきをしている。しかしオリファはどう見てもそこまでの筋力を持たなかった。
ノクフォーン人は――アンダロス人の対照として、テオル山脈以北に住む者たちをそう呼ぶ――決して剣を「鈍器」にはしない。求められるのは力ではなく、速さだ。その独特な剣を生み出す鍛冶職人が常に気にするのは、小回りの効きやすさと、切れ味である。ゆえに剣士に必要なのは敏捷性と、狙った場所を確実にかき斬る正確性だった。その剣身は三日月型に湾曲しており、女性でも必ず一本、腰に下げている。
むっとしたユマは、魔法でちょっと風を起こし、オリファの馬を驚かせた。彼があわてて手綱をひいた。森には赤や青のベリーがあふれ、小鳥が飛び交っていた。少年ふたりの陽気な笑い声が、光のなかにこだました。
木立を抜け、フェリルが一面に咲き乱れる草原にでた。青緑色の湖のほとりに、うねる黒髪を腰まで垂らした貴婦人と、侍女がたたずんでいる。その周りで駆けまわるのは女の子だ。ユマたちに気づいた貴婦人が、微笑んで手を振った。
選択肢がすべての女性といっても過言ではない、ノイスター家の当主が夢中になるほどの女性なのだ。イスファニールは、それは魅力的だった。肌は透き通るように白く、袖からのぞく腕は華奢で、かといって弱々しさは感じられない。頬の血色はよく、瞳は澄みわたっている。美しい人はよく女神の姿でたとえられるが、彼女は月の女神というより、正義の女神だと、オリファはよく思う。おおらかで、どんな事態にも動じない落ち着きがある。
「元気にしていたかしら、オリファ?」
下馬したオリファは、膝をついてイスファニールに挨拶する。ユマは鞍袋から、母のお気に入りである、紅色の肩掛けを取り出した。戸口に置いたままだったから、忘れたのではないかと思って、持ってきたのだ。それを見たイスファニールが笑った。
「今日は暖かいから、わざと置いてきたのに」
侍女のカユラも笑みをこぼす。ユマは恥ずかしくなり、そっぽを向いた。フェルーと目が合った。
「ユマ、ユマ!」
妹が目を輝かせ、駆けよってきた。おさげ髪をゆらす少女の可憐さを見て取り、オリファがしみじみと頷いた。
「かわいいな」
「そうだろう。フェルー、おいで!」
フェルーはユマに、満面の笑みで飛びついた。ユマは妹を持ち上げた。楽しそうな声があがる。オリファがうなった。
「かわいいなあ。おれも婚約者に立候補しようかな」
「オリファならまあ、考えてあげてもいいよ。何にせよ、ぼくに魔法で勝ったらの話だ」
「剣って言えよ」
「やだね、そしたらオリファが勝っちゃうじゃないか」
見知らぬ少年にじっと目を注いだフェルーが、母に尋ねた。
「こんやくってなにー?」
「好きな人と、ずっと一緒にいましょう、って約束することよ」
「でも、フェルーにはお兄さまがついているから必要ないんだよ」
「こら! 余計なことを吹き込むな」
すかさず注意するオリファに、ユマとイルファニールは笑い合った。並んでいると、親子の無邪気な笑顔はそっくりだった。
その日は幸せだった。フェルーの黒髪にはユマとオリファが挿した青い花がたくさんついていて、彼女が野原を転げまわるたびに、花弁が散ってその色の道をつくった。目の回ったフェルーが、笑いながらユマに倒れてきた。
「なつのおうかん!」
言い伝えでは、夏と冬の周期は、季節を司る女神が冠を取り換えることによって巡ってくる。氷を削ってつくられた冬の王冠は、この世の光をすべて集めたようにまばゆく光り輝く。フェリルを編んでつくられた夏の王冠は、数多の種類の蝶をまとう。
「なつのおうかんをつくって、ユマ!」
温かい風が吹き、母のまとう紅色の肩掛けがなびく。その一瞬をとらえたユマは、彼女の豊かな波を描く髪と、背後に広がる爽やかな空と、なだらかな草原の、鮮やかな色彩の情景をいつまでも覚えていた。なにより、子供たちを見守る母の眼差しが、あの夏の日を思い出すたびに優しく向けられているのだった。
フェルーはオリファの吹く笛の音を気に入った。「リ」の音がどうしてもうまく発音できなくて、彼のことを「オーファ」と呼び、何度も吹いてとせがんだ。ユマはその日習った幻想魔法を使って、色とりどりの蝶を飛ばしてあげた。するとオリファが対抗し、さらに精巧なつくりの蝶を飛ばすので、競っているうちに牡鹿だったり、狼だったり、ついには竜の幻想を出すに至った。
幻竜の咆哮に驚いたフェルーが泣くかと思いきや、意外と喜び、乗ってみたいとまで言いだした。すると、イスファニールも乗り気で、「今度テルージアに行ってみましょうか」と、竜が暮らす地方の名を出したのだった。
しかし、幸せな時間は長くは続かなかった。あんなに元気だったフェルーが、体調を崩しがちになったのは、その夏の終わりのことだった。