38話 妖精の加護
翌朝、鎖の音が響き渡り、鳥かごが地面に着地した。間近で見ると、ネルが憔悴しているのがよく分かった。うるんだ瞳の輝きは失せ、羽が外套のように垂れ下がっている。扉の鍵が開けられても、すぐには羽が動かず、彼女はふらつきながら出てきた。
檻から出ると、ネルの顔にみるみる生気が戻ってきた。全身が輝き、姿が消えたかと思うと、また現れる。調子を試すように、それが何度か繰り返された。
「ユマに感謝することね」
言い終えると、タイニールが踵を返した。ネルは彼女の背が見えなくなるまで、頑なに黙っていた。やがて小刻みに震えだし、「二度と魔女には捕まらないわ」と言う。深々と息を吐くと、ユマの肩の高さまで浮遊する。
「オトモダチの件は任せて。人間に貸しをつくるなんて気持ち悪いし」
「うん。気をつけて」
ユマの思考は一瞬、停止した。ネルが頬にキスしたのだ。
「一つ教えてあげる。〈悪霊〉も精霊の一種なのよ。そのことをよく考えてみることね」
口角をあげた妖精は、幻が消えるようにいなくなった。
昼になって、ネルの奇妙な行為の意味が分かった。タイニールがユマを見るや眉をひそめ、こう言ったのだ。
「ずいぶん気に入られたのね」
「何の話です?」
「妖精の加護がついている」
ユマは驚いて頬を押さえる。人間と妖精が仲良く助け合っていたのは、ずっと昔の話である。そのため「妖精の加護」という単語は、おとぎ話の代名詞にすらなっていた。
それはともかく、なぜ彼女は不満そうなのだ? そう思ったとき、ユマは気づいたことがあった。
「あなたとネルは、昔から知り合いなのですか」
おや、という様子でタイニールが片眉をあげる。
「なぜそう思うの?」
「ここに来る途中の洞窟で、あなたと母の幼い頃の出来事を垣間見ました。奇妙なことに、ぼくが見たのは母が泣いている場面ばかりでした。涙の妖精は人の涙に惹かれてやってきます。あれはネルの記憶だったのではないかと思って」
「そう……あなたの仮説が正しいかどうかは分からないけれど」
タイニールが指で顎をはさむ。
「妖精との関係については、正解よ。わたしは昔からあの妖精が気に入らない。イスファニールはあれが見えなかったけど、あれはいつもイスファニールのそばをうろついていた。あの子のことを気に入っていたのよ」
ふむ、と思いながら、ユマは柱にもたれかかった。
「なぜネルが嫌いなのですか」
「涙の妖精は縁起の悪い妖精だから」
「え?」
あわてて口をつむぐが、ちらりと向いた視線を見るに、遅かったようだ。理知的な彼女が、そのような迷信を信じていることが意外だった。
「他の多くの子供たちと同じように、当時はそう信じていたの。ミスティルーが現れると不幸が起きるって。実際には逆で、涙を流す人の元にミスティルーは現れる。でも、どちらにせよ同じことでしょう。イスファニールはここに暮らしていたとき、悲しい思いばかりをしたということだから」
タイニールは杖を持ち直し、家の敷居をまたぐ。
「あの妖精に非がないのは分かっている。彼女に気に入られているかといって、あなたに不幸が起きるわけではないことも」
つまり、彼女は幼い頃の印象に支配され、ネルと仲良くすることができないのだ。理解と感情は別物である。その気持ちは分かる気がした。ユマはそっと、腕に残る火傷のような、掴み跡を見つめた。
数日経つと、他村の者がリマを去り、村に日常が戻ってきた。次に彼らと会うのは儀式の当日となる。そのときには村の代表だけではなく、老人も赤子も含めて、環状山脈内に暮らすすべての者が集まるという。
ユマはオリファに対する心配を振り払い、空いた時間のすべてを儀式に関する調査にあてた。うまくいかなければ、また一人――つまりバルトを――リマとヘテオロミアのために、犠牲にすることになる。それを想像すると居ても立っても居られなくなり、元から寝つけない夜が、さらに長くなった。
そのときになってはじめて気づいたが、タイニールの家にある本のほとんどは、儀式に関連するものだった。一つの主題が分かった途端、無秩序だった本の山が意味のあるものに変わった。ユマはまず、本から情報を集めた。読み進めるにつれて、スィミアのものとは異なる、風変わりな字体にも慣れていく。
タイニールの言う〈山の主〉は、絵を見る限り蛇のような姿をしていた。裂けた口に鋭い牙が並び、全身が黒の鱗で覆われている。精霊はふだん湖底で眠っているが、儀式が始まり、太鼓の音が鳴りだすと、目覚めて姿を現す。
〈山の主〉は魔法を使う人間を食べない。それがなぜだか分からないが、慣習として毎年、魔法を使えない者が生贄として捧げられる。タイニールの話によると、むかし儀式の途中に誤って湖に落ちた者がいたが、精霊はその者に見向きもしなかったという。
湖には人間の他にも、供物としてさまざまな食べ物が投げ込まれる。精霊はそれらを食べつくすと水底へ潜り、一年後まで姿を見せない。
ユマは本で調査を進めることに平行して、人から話を聞いてみることにした。だが問題は、よそ者であるユマの相手を、村人がしてくれそうにないことだった。信頼を得るには時間がかかる。手短なのは、交換条件を提示することか。真っ先に思い浮かんだ顔の元へ、ユマは足を運んだ。