37話 天から滑り落ちたもの
二人が宴会場へ戻ると、そこかしこで会話が盛り上がっていた。タイニールがユマの肩を叩き、温かいお茶を所望した。弟子たちの視線を感じないため、彼らは酔っ払いの介抱に忙しいのだろう。
ユマは炉端に陣取り、やかんが沸騰するのを待った。長旅をしてきたバルトは疲れているようで、外套にくるまると、うとうとしだした。
「バルト。一つ訊きたいんだけど」
彼が薄目を開ける。
ユマはある程度の危険を覚悟して、彼に魔法を使えないことを話した。というのも、彼は柵に魔法がかけられているのを知らないはずで、唯一の見張りであるユマが無力だと知れば、暴挙に出るかもしれなかった。
「どうして、外にいる間に逃げなかったんだ?」
眠そうな眼が見返した。
「生き延びられる確率が低いから」
「……どうしてそう思う?」
「おれには、ずっとこの地で暮らしているおまえたちと違って、寒さをしのぐ知識がない。今の時期に逃げたところで死ぬだけだ」
ユマは納得し、茶箱を開けた。ようするに、今が夏であれば、逃亡を考えたということか。
それにしても、とユマは想像する。アンダロス人にとってノクフォーンは地獄のような場所なのだろう。寒く、暗く、危険な力をもつ魔術師がうろうろしている。ここへ連れて来られた時点で、死を覚悟するのかもしれない。
「物騒な話はおやめなさいな」
驚いた拍子に、ユマは匙ですくった茶葉をこぼしてしまった。見上げると、タイニールが視線を注いでいた。ユマは吐息をつき、こぼれた茶葉を集めた。
「やはり、アンダロス語が分かるのですね。ぼくに通訳を頼む必要などなかったでしょうに」
「いいえ、分からないわ。でも表情を見れば、どんなことを話しているのかくらい分かる」
バルトがふん、と鼻をならした。それはおれも同じだ、とでも言っているようだった。魔術師と少年が睨み合う。ユマは間に入った。
「マグナ。彼は疲れているんです」
「そう? それにしては随分と、ふてぶてしい態度ね。わたしがちょっと杖に力を入れれば……分かるわね、ひよこちゃん?」
脅されていることは気迫で十分伝わるものの、バルトは動じなかった。ユマはひやひやする。賞賛に値する勇気だが、一歩間違えれば命とりである。
やかんの蓋が揺れたことで、険悪な雰囲気が去っていった。タイニールがそばに腰を下ろし、匙を取った。ユマはそれを制する。
「ぼくが淹れます」
「いいのよ」
彼女が懐を探り、香草の入った小瓶をいくつか取り出した。いつでも持ち歩くとは、ずいぶんな味のこだわりようである。
「あなたの分よ」
ユマは面食らった。タイニールが茶碗をバルトに差し出している。
警戒心をむき出しにして、バルトが茶碗を受け取った。この行為はタイニールなりの優しさなのだろう、とユマは思った。しかし彼女はにこりともしないし、先ほどのやりとりを考えると、バルトは安心して中身を飲めるはずがない。
「貸して」
ユマは彼の手から茶碗を取り、中身が安全であることを示すために、一口飲んでみせた。他の器に茶を注いでいたタイニールが、手を止める。
「何をしているの、ユマ?」
非難の目が向けられ、ユマはそっと茶碗を返した。バルトがしぶしぶ、口をつけた。
約束通り、タイニールは宴会の途中で集会所を後にした。ユマは半分夢の世界にいる少年の手を引いて歩く。バルトに用意された寝床は、村はずれの小屋だった。
小屋の内部は掃除されたばかりで、清潔だった。藁布団に横になったバルトが、すぐに動かなくなった。タイニールが薪に火をつけ、煙突から煙が昇るのを待つ。黒い煙が昇ったことを確認すると、彼女は扉を閉め、鍵をかけた。快適な住居ではあるものの、そこが牢獄であることに変わりはなかった。並んで帰路につきながら、ユマはつぶやいた。
「あなたを見ていると、父を思い出します。もちろん、見た目は母ですが」
少し棘を含んだ笑みが、タイニールの顔に浮かぶ。
「それは誉め言葉?」
ユマは足を止めた。誉め言葉ではないかもしれない。なぜなら自分は、父を恨んでいる。しかしタイニールが嫌いなわけではない。考えを振り切るように、首を横に振った。
「あなたには人を惹きつけ、従える魅力があります。そして、多数の民の幸福のためなら、少数の犠牲をいとわない。その点が、母の考えとは合わなかった」
彼女は何も言わなかった。階段をのぼり、家の扉を開ける。蝋燭の火がいっせいに灯った。
「相談したいことって?」
「友人であるオリファのことです。彼はぼくより遅れて、ヘテオロミアの役人に引き渡される手筈になっていました。ヘテオロミアに着けば、スィミアの役人がいます。ぼくの逃亡に加担したので、彼も罰を受けるでしょう」
「そうでしょうね。どうしたいの?」
「オリファを逃がしたい。彼の家族はオイスガルドにいます。そこまで逃げ切れば、彼は自由です。彼の逃亡を援助するために、獄中にいる妖精を逃がしていただけませんか」
まさか、そのような要望は予期していなかったのだろう。タイニールが正気を疑うような目つきになる。彼女にとって妖精は信用に欠けるものだ。
「だめ。あの妖精は研究に必要よ」
「その研究は、彼女の命に引き替えてもしなければならないのですか」
「そうよ」
彼女が手荒く外套を放る。
「イスファニールは情が深かった。だから友人を犠牲にすることに耐えられなかった。でも、毎年出さなければならない生贄に、思うことはわたしも同じよ。生贄を出さないで済む方法を、ずっと探している……」
再び視線が交わったとき、彼女が息を呑んだ。遠い過去を映した瞳がゆらいでいた。その瞳はユマを見ながら、見ていなかった。
「いつからすれ違うようになってしまったの?」
声が震えていた。彼女は顔をそむけると、居間を横切り、寝室の扉を閉める。「イスファニール……」中からすすり泣く声が聞こえた。
ユマは衝撃で動けなかった。
なんと悲しいことだろう。イスファニールとタイニールは同じ気持ちでいたが、そこから取った行動が違ったのだ。イスファニールは問題が解決しないものと諦め、故郷に見切りをつけた。一方タイニールは村に留まり、問題に対面してきた。ユマは力なく、長椅子に腰を落とした。
どれくらい長い時間が経っただろうか。窓が開けられたのだろう、鍵を閉めていない寝室の扉が、壁からゆっくりと離れだした。ユマは立ち上がり、月明かりの漏れる扉に近づいた。もう泣き声は聞こえなかった。
「タイニール?」
返事はなかった。そっと部屋に足を踏み入れると、彼女は寝台に頬杖をつき、瞳に月を映していた。身に着けていた装身具が、敷布のあちこちに散らばっている。宴会の騒がしい笑い声が、はるか遠くから聞こえてくる。彼女が視線をユマに移した。
「イスファニールがここを出ていったとき、いずれ戻ってきてくれると思っていた。だけどそれははかない期待だった。あの子にとってリマは呪われた村だったのよ」
ユマは同意しなかった。村を愛していないのなら、母はどうして故郷の歌をうたったり、遠い山並みを眺めたりしたのだろうか。
「呪われていたのは村ではなく、魔法だったのだと思います」
「神々と魔法が呪いだと?」
タイニールが散らばった装身具を集め、引き出しへしまう。背を向けたときに、鼻をすする音が聞こえた。
「あの子はわたしと正反対だった。わたしが西ならあの子は東で、わたしが海ならあの子は空で、わたしが月ならあの子は太陽だった。うすうす感じていた予感が、あの子がいなくなってから確信に変わった。イスファニールがいなくなることは、わたしの世界の半分がなくなることと同じだって」
ああ、ここはなんて寒いのだろう、とユマは思った。タイニールは自分と同じだった。明かりという明かりが全て、天から滑り落ちてしまったのだ。
「ぼくはイスファニールの代わりにはなれませんが、一緒に考えることはできます。イスファニールとあなたが……ぼくとヨダイヤができなかったことを、もう一度やりませんか。離れ離れになる姉妹が、恨み合う親子がいなくなるように。守りたい子が幸せに暮らせるように。絶望にさいなまれる人がいなくなるように」
じっと聞き入っていたタイニールが、やがて口元をゆるめた。寒さが少し、やわらいだような気がした。