35話 来客
家へ戻ると、タイニールは外出中だった。ユマの分の食事だろう、卓上には昨晩と同じ献立が並んでいる。心なしか先ほどより部屋が暖かい。薪が足されたばかりで、暖炉の火が勢いよく燃えていた。かじかむ手をこすり合わせながら、ユマは朝食をとる。
「ユマ」
突然の登場に、ユマは居住まいを正す暇もなかった。タイニールは普段使いするにはあまりにも立派な外套を羽織っていた。円を基調とした刺繍が布地をびっしり覆っていて、見るからに重そうだった。
「温まったら、そこに出しておいた服も洗ってちょうだい」
言い終えると、彼女は垂れ幕の外へ消えていった。何も言っていないのに、ユマがこれから洗濯することを見越しているようだった。
衣類を抱えて小川へ行くと、そのときになってやっと牧羊犬が戻ってきた。犬は水がはねるのに喜び夢中で、岸辺で行ったり来たりしていた。水をはじいて遊んでやるうちに、ユマ自身も濡れてしまった。替えたばかりの上着を脱ぎ、他の洗濯物と一緒に、木に渡した縄に掛けた。枝を集めて火を起こし、服が乾くまで待った。
その日の午後に、タイニールが重そうな服をまとっていた理由が分かった。村に来客があったのだ。
村人の関心を買いながら、リマの者とは異なる服装をした数名が集会所へ入っていく。彼らには正装したアリステルと、もう一人、同じ格好をした青年が付き添っていた。ユマが隠した杖をまだ見つけられてないのか、アリステルが携えるのは彼女自身の杖ではなかった。訊けば教えてあげるのに、とユマは一瞬思うが、受けた仕打ちを思うとやはり教えたくない。
しばらくすると、別の団体が到着した。村人は客人とタイニールの会話が気になるようで、いつ見ても誰かしらが集会所をうろついていた。おかげで誰も自分に関心を払わないので、ユマはほっとした。主人不在で暇そうな犬がどこまでもついてきたが、川遊びで満足したのか、それ以降は大人しかった。家にあげるのはタイニールが嫌がりそうなので、ユマは戸口の階段に犬と並んで座る。彼女の本を適当に持ち出し、めくってみた。だが字体がスィミアの本と異なり読みづらく、内容もユマにとっては難解すぎた。
頬をなめる温かい舌の感触によって、ユマは目覚めた。柱に背をもたせかけたまま、いつの間にか眠っていたようだ。あたりはもう薄暗い。ユマは、杖頭に光を灯して、見慣れた人物が立っていることに気づいた。口元をゆるめる。
「お母さま」
途端に、空色の瞳が悲しみに曇った。物も言わずに階段をのぼってくると、肩をそっと抱いた。おとぎ草の香りはしなかった。ユマは気づいた。イスファニールは杖を持たない。魔法の明かりも使わない。顔が熱くなるのを感じた。
犬の一吠えに、幻想が完全にかき消えた。集会所の戸口から顔をのぞかせたアリステルの元へ、ヴィヴィが駆けていく。タイニールが腰をあげ、ぬくもりが離れた。
「これから宴会が始まるわ。祭り好きがもう集まりはじめている」
見ると、角灯を持った村人たちが、そこかしこから集会所へ向かっていくところだった。入口に立つアリステルが、一人一人に杯を渡している。
タイニールが扉を開けると、家じゅうの蝋燭に火が灯った。
「参加したければ参加できるけど、あなたは宴会が好きな質ではなさそうね」
「そうですね」
「じゃあ、家にいなさい。疲れもひどく溜まっているようだし。鍋を火にかけておくわ」
彼女は燭台の一つを取って調理場へ向かう。居間に戻ってくると、上着を放り、自室へ入った。きっと衣装を替えるのだ。ユマはぞんざいに扱われた昼の衣装を拾う。埃を払い、壁の突起に丁寧に掛けた。
耳飾りをつけながらタイニールが出てきた。事務的な手慣れた動作を見るに、装身具に興味があるわけではなさそうだ。壁に掛けられた丸鏡をひとときのぞきこむと、踵を返す。
「寝るときには火を消してね」
そのまま戸口へ向かおうとして、思い直したように立ち止まった。
彼女のさまよう視線から、ユマに何と声をかけようか、悩んでいることが分かった。ユマはまた顔が熱くなるのを感じた。母と間違えたことは忘れてほしい。
「今日はゆっくりお休みなさい」
聞き逃してしまいそうなささやき声だった。外套が広がり、彼女は出ていった。
タイニールの言いつけ通り、その夜、ユマはこんこんと眠った。彼女の家はいわば、ディオネットの神殿と同じだった。悪霊の幻影を見ることもなければ、悪夢を見ることもない。代わりに夢にはオリファが出てきた。
ユマはオリファと、時計台の螺旋階段をどちらが先にのぼりきれるか、競争していた。幼い頃によくやった遊びだが、ユマが勝てたことは数えるほどしかない。たいていはオリファが先に露台に出ていて、息をきらしながら、得意顔でユマを待っている。その日見た夢でも、オリファが先に螺旋階段を抜けた。しかしユマが露台に出たとき、そこには誰もいなかった。高所特有の強い風が吹き抜け、ユマの外套をたなびかせるのみだった。
次の日、昼近くに目覚めたユマは、オリファのことが心配になった。オリファはまだ、温泉の村に監禁されたままだろうか。それともヘテオロミアに連れて行かれただろうか。彼を助けるために、何か対策を講じなければならない。そう思った。
その日は前日に引き続いて、村に来客があった。昨日から滞在している隣村の者たちと並んで、正装したタイニールが彼らを出迎える。ユマは昨夜、彼女の衣装を吊るしておいてよかったと思った。宴会から帰ってきた彼女はきっと、脱ぎ捨てた衣の存在など忘れて、そのまま寝台に直行したことだろう。
ロバに乗ってやってきたのは、派手な身なりをした小太りの男だった。小間使いらしき少年が徒歩で付き添っている。旅の労をねぎらい、タイニールが一言二言、声をかける。彼女の弟子たち――そのころにはユマは、三人全員の顔を覚えていた――がロバや荷物を預かった。
ロバから降りた男が、タイニールに少年を紹介した。小間使いという見立ては間違っていたようで、どうやら主役は少年のようだ。背丈から判断するに、ユマと同じくらいの歳だろうか。
少年が顔の向きを変えたとき、深くかぶった頭巾の陰から、その眼がのぞいた。ユマは違和感がして、ラグの埃をはたく手を止めた。しばらくしてその理由が分かった。彼の顔立ちはヘテオロミア人とも、スィミア人とも違った。アンドレアと同じ顔立ちだった。
その晩、嫌な予感が的中した。帰宅したタイニールが開口一番、こう言ったのだ。
「アンダロス語は分かる?」
ユマはできることなら、聞こえないふりをしたかった。
「ある程度なら。ですがあくまで文面上での話です」
彼女が片眉をあげる。
「まだ何も言っていないけど」
「あのアンダロス人と会話ができるかという話でしょう? 気乗りしません。目立ちたくないので」
「目立ちたくない? その言葉ほどあなたから遠いものはないでしょう」
彼女は杖を立てかけ、外套の留め具を外す。そのときはじめて、部屋の物が整頓されていることに気づいたようだ。日中、特にやることもなかったので、ユマが掃除しておいたのだ。
「あなたは否応なしに注目される。人間からも、そうでないものからも」
ユマはうなった。腰をあげると、彼女がにっこりとして、衣装箪笥から服を取り出す。
「掃除をありがとう。一人は気楽だけど、あなたみたいな子が同居人なら大歓迎ね」
ユマが受け取ったのは、アリステルたちが着ているものと同じ、青地に白糸の刺繍が施された長衣だった。織目が細かく、普段着より上質である。
「タイニール。この仕事が終わったら、相談したいことがあるのですが」
「いいわ。今日は早めにきりあげましょう」