34話 リマ
からからと銀の輪が鳴っている。ユマはそれらが反射する光に目を細め、毛布を引き上げた。染みついた香木の匂いは煩わしいものではない。手足は自由で、触れる布地がやわらかかった。
「おはよう、坊や」
瞼をあげると、そこは色とりどりの物にあふれた居間だった。
「……おはようございます」
ユマは半身を起こした。彼は館の客間にあるような、立派な長椅子の上にいた。ただ、タイニールの客がここに座ることはないと思われた。積上げられていた雑多な物は、いまや床にそのまま落とされていた。
「スィミア人にあなたを引き渡しても、リマにとっては特段利益にはならない」
昨夜、彼女はこう言った。
「被るかもしれない不利益については、どうとでも出来る範囲内よ。ここはスィミアの管轄下ではなく、ヘテオロミアの管轄下にある。そしてウリト山以北の意見に、議員が口出しすることはめったにない。あの都市はわたしたちに助けられているから」
「助けられている?」
「そのうち分かるわ」
この話は終わり、とばかりに彼女が立ち上がった。
「あなたはこの家で寝起きしたほうがよさそうね。ここは代々マグナの住まいとなっているから、蓄積された魔力が強力な悪霊除けになる。物置を片付ければ、一人くらい横になれるかも」
垂れ幕をあげる彼女を見ながら、ユマは正直、あっけない反応だと思った。話を聞いた後には、もっと動揺すると思っていた。だが後から振り返ると、その瞳には悲しみと後悔が宿っていたようにも思う。
「悪霊対策はひとまず、それでいいとして」タイニールがつぶやく。
「あなたが再び魔法を使えるようになる方法は、現時点ではわたしにも分からないわ。個人的に興味もあるし、おいおい一緒に考えていきましょう」
そううまくいくはずがない、と分かってはいたが、ユマは落胆の色を隠せなかった。魔法はユマにとって、自信の源となる能力だった。だが何より重要なのは、ユマが魔法を生み出すことに喜びを感じていたこと、魔法に関わるすべてを愛していたということだった。それは彼が、魔法を失ってからはじめて気づいた感情だった。
「あの子の名前はアリステル」
「え?」
寝起きでぼうっとしていたユマは、聞き返した。タイニールはすでに一仕事終えたようで、絨毯の上で本の山を漁っていた。足を組み直し、その中の一冊を開く。目当てのものではないと分かると、横に積み上げ、また別の本を開く。
「アリステル。あなたが木に縛りつけた彼女よ」
「……すみません、乱暴をしてしまって」
彼女が本を閉じ、山に重ねる。また別の本を開く。
「べつに。これを機会にもっと精進してもらいたいわ。あの子はわたしの弟子の一人よ」
「弟子?」
「マグナには次のマグナを育てる義務がある。わたしが魔法の指南をする三人の弟子は、未来のマグナ候補よ。マグナは女性名だから、男の子だったらマギという名になる」
タイニールの手が、何かを探して空をさまよっている。その先にあるものは羽根ペンだった。なかなか手繰り寄せられないので、彼女は仕方なく視線をあげ、目当てのものを取る。
ユマは思った。では、おさげ髪の少女は村で一目置かれている存在なのだ。偉そうな口ぶりだったのは、そのためだろうか。振り向いたタイニールに、心を読まれたのかと思ってどきりとした。だが言われたのはまったく別のことだった。
「ここへ来る途中に湖があったでしょう? そこへ行って、沐浴してらっしゃい」
彼女が指さした先に、畳まれた服と、手ぬぐいがあった。ユマは唖然として見返した。この気温のなか、冷水をかぶれというのか?
「さあ」
空色の瞳が動いた。ユマはあわてて靴を履き、衣類を抱えて出ていった。
風は冷たいものの、陽は以前より力を増したように思えた。昨日は気づかなかったが、村にあるどの家の軒先にも、タイニールの家にあるものと同様の、銀の輪飾りがかかっている。からから、とそれらが鳴らす音は、鐘のないこの村が奏でる唯一の音楽のようだった。
人びとはすでに起き出し、井戸から水を汲んだり、家畜の世話をしたりしていた。ユマが広場を横切っていくと、彼らは手を止め、値踏みするような視線を向けた。
おさげ髪の少女が、牧羊犬に指示を残して近づいてきた。噂をすればご登場というわけだ。広い額にかすかな皺が寄っている。
「どこへ行く?」
「ついてきたいの?」
問いに問いで返された彼女は、ユマが抱える衣類に視線をやり、顔を赤くした。
「ヴィヴィ!」
牧羊犬が尻尾を振りながら、猛烈な勢いで駆けてきた。
「逃げないように、こいつを監視して」
犬は明らかに、彼女と離れることを嫌がっていた。しきりに鼻を鳴らしていたが、冷たくあしらわれ、とぼとぼとユマの後に続いた。
遊び盛りの牧羊犬も、さすがに冬の湖に飛び込む気はないらしい。澄んだ青緑の湖は、眺める分には深い尊崇の念がわく。しかし入るとなると途端に忌々しく思えてくる。部屋の様子とはあべこべだが、タイニールは案外、綺麗好きなのだろう。マレタイに拘束されていた期間も考えると、ユマは二週間以上、身を清めるという行為をしていなかった。
足首をつけるだけで飛び上がるほど冷たかったが、歯を食いしばってゆっくりと腰を落とした。牧羊犬は岸辺に座り、舌をだして呼吸しながら利口に待っている。変わった犬だ、とユマは思った。悪霊の気配がする自分を怖がらないのだろうか。それとも単に、鈍感なのだろうか。ユマは可能な限り素早く頭を洗い、顔を洗う。
枝の折れる音がして、ユマは顔をあげた。リスが幹を伝い、急いで駆けていくところだった。興味をそそられた犬が吠え、そのままリスを追いはじめた。ユマは震えながら手ぬぐいを取り、水気を取るのもそこそこに服をまとった。あらかじめ焚いておいた火にあたる。
「戻っておいで」
犬は指示に従わなかった。外気に触れる髪が冷たく、ユマはたまらず頭巾をかぶった。
正面から戻ると彼女――アリステルとやらが待ち構えている気がしたので、迂回して柵を乗り越えた。なんだ、簡単に入れるのだ、とユマは思った。昨日は魔法のせいか、どうやっても入れない気がしていたが。
周りに誰もいないことを確認し、ユマは地下牢へ降りていった。日々の仕事で多忙な村人たちは、たいした罪人もいない牢獄を見張る気はないらしい。足音に気づいたのだろう、妖精の動く気配がした。
「おはよう、ネル」
そこには、鉄格子にしがみつき、顔をゆがめるネルがいた。ユマは内心、大発見をしたと思った。妖精がこんなひどい顔をするとは知らなかった。
「あなた、〈リマの魔女〉の仲間だったのね」
その通り名が誰を指すのか、という疑問は尋ねずとも解消された。タイニールほど「魔女」という呼称が似合う人はそうそういないだろう。
「タイニールはぼくの叔母にあたる人だ」
ユマは隠しを探った。
「食べ物を持ってきたよ。お腹がすいたんじゃないかと思って」
「腹ペコよ! この身体を維持するだけでお腹がすくわ」
「手を出して」
放られたものを、ネルが反射的に掴まえる。手に収まったものを見て、頬をふくらませた。それはリスが見つけ損ねたどんぐりだった。
「豚のえさじゃないの」
「リスも食べる。人間もときには。ほら、手を出して」
計四個のどんぐりを渡したあと、ユマは紐の結び目を投げた。水を入れた小瓶をくくりつけ、ネルに引き上げさせる。彼女はそれをおいしそうに飲んだ。しばらくすると、どんぐりを咀嚼する音が響きわたる。腹が満たされるにつれて、ネルの機嫌も直っていった。
ユマは本題に入った。このまま檻に囚われ続けた場合の、彼女の未来についてだ。タイニールによると、捕らえた妖精は研究の実験台に使われる。そのためにわざわざ、妖精を掴まえることもあるらしい。この牢獄の天井近くに、埃のつもった鳥かごがいくつもあるのはそういうわけである。「なにそれ!」叫んだネルがどんくりを落とす。
「ここの村人たち、気でも狂っているの?」
「狂ってなんかいない。きみたちだって――」
待て、感情的になったら、堂々巡りである。ユマは一呼吸置き、気持ちを落ち着かせた。
「つまり、きみが人を殺すのを何とも思わないのと同じだ。妖精の領域に入った人間が不幸なら、人間の領域に入った妖精も不幸というわけだ」
「ふん、ユマはどう思うの? 人間にとって妖精は有害だから、殺すのが正解?」
「分からないよ。でも少なくともネルは――たとえ気まぐれであっても、ぼくを助けてくれた。恩人を死なせたりしない。もしきみたちに『死ぬ』という概念があるなら」
ネルは応えず、どんぐりを咀嚼するのみだった。