33話 食事
目を開けたときには、ユマは冷たい地下牢にいた。
白い息を吐き、外套をきつく巻きつけた。すべての生き物が死んでしまったかのような、静かな夜だった。あの銀の輪が立てる音が、そよ風にのって届いていた。鳥かごの中の妖精が、あおむけになって眠っている。それは通常では見ることのない、奇妙な光景だった。
ユマは低く、歌を口ずさんだ。誰かが、歌にも魔力がこもると言っていた。かわいそうなネル。せめて魔法が使えたなら、助け出せたかもしれないのに。妖精には家族がいるのだろうか、とぼんやり思った。
「その歌はイスファニールが?」
顔をあげると、暗闇の中から、毛皮の外套をまとったタイニールが現れた。
「……母はこの歌を、ぼくがほとんど夢のなかにいるときにしか歌いませんでした。ノイスター家の人間が、リマの歌を覚えるのはよくないと考えたのでしょう」
彼女が牢の鍵を外した。
「出なさい。妹が大切にしていた子を、罰したりはしないわ」
ユマは腰をあげなかった。しばらく格子扉を押さえていたタイニールが、それを離した。重々しい音とともに、扉が閉まる。
「お腹がすいたらうちへおいで」
鍵束をくるりと回して、彼女が鳥かごを持ち上げた。びくりと身体を揺らして、ネルが目覚めた。
「ここから出してよ!」
抗議を無視し、タイニールが手を振った。じゃらじゃらと音を立てて、鎖が降りてきた。よく見ると、天井には埃のかぶった鎖と、大小さまざまな鉄かごがいくつもぶら下がっていた。彼女が持ち手をかけると、鳥かごが勢いよく上昇する。ネルの声が遠ざかっていく。
ユマは視線をタイニールに戻した。
「あの子を逃がしてくださいませんか」
「それはだめ。妖精は口が軽いから、あの場所を言いふらす。坊やに教えたようにね」
「ネルをどうするつもりですか」
「あなたには関係のないことよ」
そう言い終えるや、タイニールは外套を翻して歩きだす。が、格子扉の閉まる音に、振り向いた。牢獄から出たユマは、黙って彼女を見返した。
「いいわ、ついていらっしゃい」
うねる黒髪が跳ねる。その後ろ姿はイスファニールそのものだったが、おとぎ草の香りはしなかった。
タイニールの家の煙突からは煙が昇っていた。階段をのぼり、中へ入ると、室内は温かい光にあふれ、煮物の匂いが立ち込めていた。調理場からことことと鍋の音がする。彼女は散らかった雑多な道具をどかし、絨毯の上にクッションを置いた。
「ここに座っていなさい」
髪をくくりながら、彼女が部屋を横切る。ユマが膨大な量の本や瓶を眺めていると、「机の書類をいじってはだめ」と付け加えた。
「同居人はいないのですか」
「ええ」
調理場から声が聞こえた。
「使用人でもいると思った?」
ユマは歯切れの悪い返事をした。夫がいる可能性を考えたのだが、タイニールにはそのような発想がないようだった。彼女はつづける。
「あなたが何人の使用人に囲まれていたのか知らないけど、こういう小さな村では、自分のことは自分でできないと生きていけない。たとえマグナであってもね」
皿を取り出す音が聞こえる。ユマは積みあがった本が気になり、題目を眺めてみる。『水魔の歴史』『蛇の食性』『薬草百科』『音楽と魔術』『信仰神と魔術の得手不得手』……。
「ユマ」
顔をあげる。
「机を用意して。そのへんに立てかけてあるはずだから。あるいは何かの下に埋まっているか」
「探してみます」
部屋が汚すぎることについては触れなかった。ラグをどかすと低い腰かけが二脚、見つかった。だが彼女は座椅子を好むようだから使わないだろう。これは箪笥、これは長椅子……。何度目かに本をどかしたとき、やっと低い机が見つかった。ユマは言った。
「机を拭くものをいただけますか」
垂れ幕が一瞬だけあがり、ふきんが投げられた。ユマはそれで天板をぬぐう。埃は取れたが、何年も前のものと思われるしみは落ちなかった。
タイニールが両手に皿を持ってやってきた。当然のように、足元のクッションを蹴ってどかす。女性らしからぬ振る舞いにユマは目を見張るが、急いで表情を戻した。ここは壁に囲まれた都市ではないのだ、何が起きてもおかしくない。
食欲を刺激する匂いにつられて視線を落とすと、数種類のキノコと、大ぶりの肉が入ったシチューが置かれていた。見た感じ鹿肉である。そこにパンが二切れ突っ込まれている。タイニールがまた調理場に消える。今度は水差しと杯を持ってきた。彼女がくつろいだ様子で腰を下ろす。
「夕餉というより夜食ね。村のみんなはとっくに寝てしまったわ。果実酒は飲める?」
料理を見つめながら、ユマは上の空で返事をする。杯に赤黒い液体が注がれた。満たされた気持ちで食前の祈りを捧げた後に、ユマははっとした。
「ぼくはネルをどうするのか聞きに来たのですが」
「食事が先よ、ひよこちゃん」
「……いただきます」
見た目は野性的だったが、口に入れるとシチューは驚くほどおいしかった。「優れた魔術師が料理もうまいとは限らない」という諺があるが、彼女の場合、それは当てはまらないようだ。そのへんに転がる瓶をいくつか取ると、彼女は杯にも香草を入れた。
「試してみる? 身体にいいわ」
果実酒は渋かったが、草の香りとよく合い、飲みやすかった。料理よりも先に水差しが空になり、同じ味の果実酒が出された。皿が空になると、一皿目と同じ量のシチューが盛られ、同量のパンが突っ込まれた。
「以前、あなたを探すスィミア人がここに来た」
腹が満たされてきたころ、タイニールが口を開いた。
「いないと言っているのに、無理やり村に入ろうとするから、少し懲らしめてやった。ヘテオロミアの役人なら、あんな向こう見ずなことはしないはずよ。ともかくその時、あなたが行方不明で、役人の癇に障るようなことをしたのだと知った。同時に、わたしの嫌な予感もほぼ確信に変わった――もっとも、あなたが何をしでかしたのかは、尋ねなかったけれど」
ユマは、彼女が杯に果実酒を注ぐ様子を眺める。
「スィミア人は、今でもあたりをうろついていますか」
「聞いた話では、ヘテオロミアを拠点にして、周辺を捜査しているとか。積雪量も少なくなったし、またここへやってくるはずよ」
彼女はさまざまなことを疑問に思っているはずだった。ユマの存在を知っているなら、イスファニールに幼い娘がいたことも知っているはずだ。なぜユマだけが、自分の元を訪ねてきたのか。またなぜ、イスファニールが死なねばならなかったのか。
「マグナ……とお呼びしたほうがいいですか」
「タイニールでいいわ。二人のときは」
ユマは姿勢を正した。
「タイニール。ここへ来た目的も含めて、すべて話します。それから、ぼくを奴らに売るか売らないか決めてください」
*
一睡もできなかった明け方、にわかに廊下が騒がしくなった。扉の向こうでマレタイの部下らが口々に何か言っている。オリファは重い頭を動かし、半身を起こした。
「おい、何事だ?」
扉の向こうにいる見張りが、仲間に声をかけた。
「きのう都市へ向けて出発した奴らが戻ってきたんだ。マレタイさまはご立腹だ……逃げられたんだとよ」
オリファは耳を疑った。ユマが逃げた? 鼓動が速くなり、扉に張り付く。
「まさか。牢馬車からどうやって脱出したんだ?」
「それが、よく分からないんだ。鍵が壊されていたが、馬車では魔法を使えないはずだろ」
ヘテオロミア兵の会話を聞きながら、笑いがこみあげてきた。やったぞ。ユマはオリファが知る限り、最も優れた魔法使い――霊的存在に最も近づける者なのだ。運命の女神がユマを放っておくはずがない、と思った。
「だとしても、子供の脚に追いつけないなんてことがあるか」
「馬を盗られたんだよ。馬上では大人より子供のほうが有利だ。軽いからな」
こらえきれず、オリファは声をたてて笑いだした。何事か、と思ってひとときうろたえた見張りが、「静かにしろ!」と扉を叩く。
「で、行き先は?」
見張りが声を落とした。一応、オリファに聞こえては良くないと思ったのだろう。しかし辛うじて聞き取れそうだ。
「北へ向かったらしい。仲間を助けにここへ戻ってきていないのなら、山の向こうだな」
「リマか」
小さなため息が聞こえた。何が不都合なのだろう。なかなか答えが聞こえてこないので、オリファは図々しくも、尋ねてみた。舌打ちが聞こえ、沈黙がつづいた。
「坊や、知らないんだな」
見張りではないほうの男が、冗談めかした調子で応えた。
「ヘテオロミアで生まれた子なら誰でも知っている。リマには〈魔女〉がいるんだよ」
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