32話 タイニール
門の手前で止まり、ユマは住民に挨拶した。最も年嵩と思しき男が、そばにやってきた。
「どこから来た?」
「ヘテオロミアです。ここに親戚がいると聞いて、訪ねてきました」
門は簡単に乗り越えられる高さだが、ユマと男の間には、見えない壁があるように感じた。
「訪ね人の名は?」
「タイニール」
どよめきが起こった。口々に喋る大人たちを見上げ、村の少年がぽかんとする。「じゃあ、この子が例の?」「目の色はちがう」「でも顔の造りになんとなく面影が……」
「少年。そこで待っていろ。外の者を入れるには許可を取らにゃならん」
そう言って男が踵を返した。
村の子供たちが柵のそばまで寄ってきて、よそ者をしげしげと眺めた。柵を乗り越えてくる者はおらず、猛獣を観察するように一定の距離を置いている。鶏だけは警戒心のかけらもなく、柵すれすれに歩き回っては、ときどき嘴を突き出していた。
後ろに数人の村人を引き連れ、男が戻ってきた。彼らはユマを視界に入れるや、隣人とひそひそ話す。「どけ、どけ」子供たちがはける。男が門を開けた。
「入りな」
村人たちの目と言う目が自分に注がれる。ユマは前方だけを見て、男に付き従った。
集落の奥へ進むと、村で最も立派と思われる住居が現れた。軒先には細長い垂れ幕と、銀の輪を呪術的に組み合わせた飾りがぶらさがっている。それが風で揺れ、木の葉のように繊細な音を立てる。男の後ろにつづいて、ユマは戸口の階段をのぼる。男が戸を叩き、中へ声をかける。「入って」と返事が聞こえた。
敷居をまたぐと、別世界が広がった。薄暗い屋内には、嗅いだことのない不思議な香りが漂っていた。そこはさまざまな道具でごった返していた。杖、色とりどりの石、装身具、香炉、蝋燭、山積みの本、標本が入った大小の瓶、壊れた農耕具、鍋、楽器、乾燥させた植物、クッション、まるめられた羊皮紙、インク壺。
部屋の奥で、動きがあった。
「はじめまして、坊や?」
極彩色の衣装をまとった女性が文机に向かっていた。心臓が大きく脈打つ。イスファニール? ユマはそう思った。
だが醸し出す雰囲気がちがった。人によってはそれを魔力と言う。イスファニールからは澄んだ冬の空気のような、凛とした雰囲気を感じたが、彼女からは夜の海のような、圧倒的な神秘と力を感じた。この人がおそらく、母の姉である。
「はじめまして。イスファニールの息子のユマです」
「よく来たわね。こちらへいらっしゃい」
ユマはさまざまな物をまたぎ、部屋の奥へ進んだ。鼻をつく香りが強くなる。
「わたしの旧名はタイニール。いまはマグナと呼ばれているわ」
ユマは、木に縛りつけた少女の言葉を思い出した。では、この人が村長なのだ。
「眼は父親似ね」
品定めするような目つきで、彼女がユマに視線を注ぐ。対抗心を燃やしているのだ、スィミアの高名な魔術師に。その声には、妹を奪ったヨダイヤに対する嫉妬も感じられた。
「ひよこちゃん。どうしてはるばるわたしの元へやってきたのかしら」
「……できれば人払いをしていただきたいのですが」
彼女が促すと、入口で待機していた男が出ていった。
「子供の頃、こんなことがあった」
深くクッションに身を沈め、彼女が語りだした。
「キノコを採りに森へ入ったとき、みんなとはぐれて迷子になってしまった。村人たちは一晩中探してくれたけれど、朝になってもわたしを見つけられなかった。冷え込む夜だった……。みんなはわたしが死んだものだと思った。でもイスファニールだけは、わたしが生きていることを知っていた。そして洞穴で震えているのを、あの子が見つけてくれた」
屋外にある輪飾りが、からからと音を立てている。
「逆のこともあった。あの子が村を出てから二年間、音沙汰がなかった。筆記用具が高価だったし、文字も十分に書けなかったから。でもわたしは、あの子が生きていると知っていた。……何が言いたいか分かる?」
ユマは床の一点を見つめていた。
「イスファニールは死んだの?」
輪飾りが音を立てている。垂れ幕をめくって、屋内にまで風が吹き込んできた。風に後押しされて、ユマは顔をあげた。長い間をあけて、やっと、絞り出すような声がでた。
「はい」
後にも先にも、ユマは彼女のあれほど悲痛な面持ちを見たことはない。彼女は突然、キノコ狩りで迷子になった子供時代に、引き戻されてしまったのだ。顔をそむけると、声を殺して泣きはじめた。ユマは日の光を浴びていることに気づいた。意識しないうちに、部屋を後にしたのだった。
そんなことがあったから忘れていた。ユマが玄関口に腰かけ放心していると、男たちに取り押さえられた。目の前には、青緑色の瞳をもつ少女が立ちはだかっていた。口々に責め立てられたが、ユマは反論する気にも、反撃する気にもなれなかった。イスファニールは死んだのだ。その事実があまりにも重くのしかかり、何もする気になれなかった。
気づくとユマは地下牢にいた。村で悪さを働いた者を罰するにしては、念入りすぎる造りだった。石のように冷たく硬い土が四方を取り囲んでいる。たった一つの窓から、四角く切り取られた空が見えた。
どうでもいい、とユマは思った。このまま生きていても辛いだけだ。ミオラの親切も、ディオネットの励ましも、オリファの支えも、何もかもどうでもよかった。冷たい床に横たわって考える。ここでなら安らかに死ねるだろうか。
「ちょっと!」
甲高い声に、ユマは閉じかけた目を開いた。
「あたしをこのまま放っておくつもり?」
声主を探すと、格子の向こうに、鳥かごがあった。そこに傷だらけの、淡い銀色の光を放つ生き物がいた。
「ネル……」
ユマは時間をかけて格子に寄った。
「どうして逃げないの?」
「逃げられないのよ!」
「逃げられない? きみたちは肉体を持たないはずだ。そんな檻は意味をなさない」
ミスティルーの構成要素は霊気である。よって彼女は風と同様に自由なはずだ。
ふん、と彼女が鼻を鳴らす。
「思い違いも甚だしいわ。肉体がないなら、どうやって有形のブローチを受け取るの? 霊気はあらゆるものを創りだすでしょ。あたしたちは、肉体をその場でつくり、解消できる。肉体をもつ状態でいることも、もたない状態でいることもできるのよ。それが今、このいまいましい檻のせいで、できないの!」
がしゃん、と檻を叩いた。そんな話は初耳である、とユマは思う。
「ということは、きみたちは三つの状態でいることができるということ? 霊気に溶けて漂う状態、人型の霊魂でいる状態、肉体をもつ人型の状態」
「そうよ」
ふむ、とユマは考える。
「ぼくがこれまで見てきたネルは霊魂なのか。それとも肉体なのか」
「どうでもいいでしょ。自分でも特に意識していないの」
「どうでもよくないさ。肉体を持つとは」
氷で串刺しになったイスファニールを思い出す。
「死ぬということだ」
ネルのわめき声が遠くなる。ユマはそれきり口をきく気になれなかった。
彼は、しめった岩壁に手をつけ、暗闇を手探りで歩いていた。自分の足音と、息遣いだけが響いている。ときどきコウモリの羽音と、水の滴る音が聞こえた。
脚が重く、これ以上動かせそうになかった。その場に座りこむと、何者かの足音が耳に届いた。恐怖を感じたのは一瞬で、投げやりになって、大人しく近づいてくる足音を聞いていた。相手の息遣いが分かる距離になる。ユマは尋ねた。
「誰?」
突如、腕に燃えるような痛みが走った。掴まれた、そう思った。視界がちかちかする。かと思うと真っ白になり、ユマは見慣れた空の下、噴水に背を向けて立っていた。
後ろにいる、と思った。噴水を挟んで真反対に、同様に背を向けて立つ何者かが。ユマはまず瞳を動かし、ついで首を動かした。イレネの神像が抱える壺から、水が勢いよく流れ出ている。それは水しぶきを散らし、虹をつくっている。霞む水壁の向こうにいるのは、自分と同じ背丈の、黒髪の、蒼い瞳の。
鳩が目前を横切った。