31話 捕囚
額に水が落ちる感触にはっとして、ユマは目を覚ました。
そこは洞窟の中だった。手に携えていたはずの魔法の明かりが、水たまりに浮いている。手を伸ばすが、指先が当たるや、それはさらに奥へ移動してしまった。ユマがいるのは入口付近とは明らかに別の場所で、天井までの高さが背丈の五倍ほどあった。あたりを見渡すがネルの姿はない。名前を呼ぶも、返事がない。
明かりを回収するのはいったん諦め、それが流れていく方向に歩きはじめた。水が青いために、窟内全体が青みがかって見えた。ユマはネルの名前を呼びつづけた。
前方で音が聞こえた気がして、すかさず剣を抜いた。黒い影が、上空で羽音を立てた。コウモリか。緊張を解きかけたとき、衣擦れの音が聞こえた。
「ネル?」
水路を流れる明かりが、岩壁にあたって止まった。光に照らされ、岩棚の上に、ぼんやりと何かが浮かび上がる。
そこには、背丈と同じ長さの杖を携えた、小柄な人物が立っていた。何色かは分からないが暗色の外套をまとい、長い髪を二本のおさげにして垂らしている。その人物は杖頭を向け、ひとときもユマから目を逸らさずに、岩棚から降りてきた。
「得物を捨てろ」
威圧的な声には、少女らしい甘さも混ざっていた。ユマは口を堅く結び、剣を地に置いた。浅い水たまりを踏んで、少女が近づいてくる。薄暗いために顔はよく見えないが、眼光が鋭いことはよく分かった。彼女はユマが置いた剣を、素早く蹴って遠ざけた。足首にはまった銀の輪が、軽やかな音を立てた。
「どこから来た?」
「ヘテオロミア」
「この場所をどうやって知った?」
「妖精の手引きで」
「手を後ろに回せ」
言う通りにすると、両腕を拘束される。少女は余った縄を、自身の腕に巻きつける。
ユマの腰から、少女が鞘を取る。彼女は拾った剣を鞘に収め、自分の懐に入れる。波音がしたかと思うと、魔法の明かりが彼女の手に収まっていた。
「歩け」
杖で脚を打たれる。ユマは口を開いた。
「どこへ連れていくつもり?」
返答の代わりに、杖で脚を打たれた。ユマは黙し、歩きだした。
少女は洞窟の構造を熟知していた。どの分岐点でもひとときも止まらず、「右へ」「まっすぐ」などと、前を歩くユマへ指示を出した。一定間隔で小さな祠があったが、何をまつっているのかは暗くて分からなかった。加えて余所見をすると、杖によってしたたかに打たれた。
やがて行き先に淡い光が見えた。近づくにつれて、それが岩の隙間から侵入する光だと分かった。それまで後ろを歩いていた少女が、はじめてユマの前に進み出た。杖をかざし、言葉をつむぐ。
行く手を塞いでいた岩が動きだした。流れ込む新鮮な空気に安堵し、ユマはそれを深く吸い込む。樹冠が下方に広がり、黒い海のようにさざめいていた。薄明の空に月が浮かび、その横に一つ、星が輝いている。
月明かりによって、少女の顔がはっきりと浮かび上がった。風であおられたおさげ髪が背後の闇へ流れる。青緑色の瞳がユマを捉えた。ガラス玉のように丸く澄んだ、大きな瞳だった。
綺麗な瞳だ、とユマは思った。それが声に出ていたのか、脚に激痛が走った。
「次に口を開いたら腕を折る」
ユマは彼女に背を向け、歩きだした。
半刻ほどかけて岩場を下り、小径に合流した。道沿いに雑木林を進んでいると、前触れもなく魔法の明かりが消えた。身構えた少女がその残り香をかぎ、難しい顔をする。ユマは驚かなかった。よくある仕組みだ。周囲が十分に明るくなると、明かりが消えるようになっている。
「ねえ」
ユマが話しかけると、少女は顔をしかめた。
「ぼくに会う前に、妖精に会わなかった?」
「無駄口を叩くな」
杖で背を押される。ユマは肩ごしに彼女を見る。
「腕は折らないの?」
イルマとの喧嘩で、嫌味に見せる顔なら熟知している。彼女が怒りに息を吸う。ユマはつづけた。
「きみ、まだこの仕事に慣れていないんだろう」
うるさい、と彼女が言い終える前に、ユマは足で杖を払った。小さな叫び声があがり、石飾りが音を立てて落ちる。そのままユマは体当たりし、少女もろとも倒れた。彼女の剣を抜き、腕を拘束する縄を断つ。
「動くな」
少しでも身じろぎすれば、血が噴き出る位置に刃を当てた。少女が生唾を飲み込んだ。
「おまえはリマの住人か」
ユマが問うと、小刻みに揺れる瞳がそうだとうったえた。まるで声を出しても首を斬られると思っているようだった。
「ぼくを捕らえた理由は?」
「……あの場所はわたしたちの神聖な場所だ。侵入者がいれば捕らえる」
「捕らえた後はどうする?」
「マグナが決める」
「マグナとは?」
「村の長であり祭司」
「あの洞窟に、他に仲間はいたか」
「いた……わたしの他に一人。だけど妖精を捕らえて先に帰った。わたしは一人で見回りをつづけた。そしておまえを見つけた」
どうやら、あの空間からは妖精まで締め出す決まりらしい。
「タイニールという名の女性を知っているか」
少女の瞳が困惑の色を浮かべた。ユマは眉を動かし、彼女を茂みへ引きずった。
「懐の剣を出して向こうへ投げろ。へたなことをしたら首をかき斬る」
少女はユマの剣を取り出すと、震える手で地面へ放り投げた。一ミアほど離れた場所にそれは落ち、薄くつもった雪に沈む。ユマは自分が縛られていた縄で、彼女の両手を縛る。それから縄を幹にまわした。少女の持ち物から手ぬぐいを見つけると、彼女の声が出ないように、口に噛ませて縛った。
「杖は適当な場所に隠しておく。そのうち見つけられるさ、自分の杖なんだから」
ユマは剣を拾って道に戻った。明らかに目立つひと悶着した跡を、雪をならして消す。足跡がここで途切れていることに関しては仕方ない。仲間だという他の足跡に紛れて、見つからないことを祈ろう。少女が魔法を使って抜け出す心配はしなかった。魔法には自身の心理状態が深く影響する。あの脅えようで杖がなければ、魔法を使った途端、自分を怪我させてしまうだろう。
風が強くなってきたかと思うと、太陽の片りんが山の端から顔を見せはじめた。枝葉から解けた雪が、したたりながら光を放つ。茂みの中に杖を隠したとき、高い鳥の鳴き声が空にこだました。もうそんな季節か、とユマは頭の片隅で思う。森の静寂が破られると、芽吹きの季節が訪れる。
顔をあげたとき、視界に入った鮮やかな色に驚いた。枯れ蔦をのけて、足を速める。心乱された。それは幸せな記憶をいくつも呼び覚ました。青緑色の水面が、宝石のような輝きを放って目前に広がっていた。
ユマは革袋に水を満たし、栓をした。しばらく水面を眺めるが、そこに幻影は現れない。イスファニールはスィミアの湖のことを、「わたしの湖」と呼んでいた。しかし本物はスィミアではなく、故郷に存在したのだ。ユマは岸辺でしばし、母のために祈った。
そこからは一度も休憩せずに歩いた。どこからか雄鶏の鳴き声が聞こえ、枝ごしに細くたなびく炊煙を見た。ユマは歩調をゆるめ、あたりに気を配った。打ちつけた杭を縄でつないだだけの、粗末な柵が現れた。その向こうには、丸太造りの家々が点在している。
鶏を抱えた少年が、ユマの姿に気づいた。大人たちの注意を引き、突如あらわれた部外者を指さす。他の者がいっせいに顔を向けた。