28話 涙の妖精
暗い場所で揺られつづけていると、時間の感覚がなくなってくる。このような田舎で、牢馬車を用意できるとは驚きだった。加えて、どことなく重い空気もたれこめている。ユマにとってはどちらでも同じだが、おそらく、魔法封じの魔法がかけられているのだ。
幻影はいつも、暗い場所に現れる。ユマは、ときたま車内の隅にぼんやりと光が浮かび、羽がはためくのを見た。だがいつもの幻影とは少し違う気がする。ユマは光が現れるたびに目を凝らしたが、それはなかなか姿を現さなかった。
「そこにいるの?」
小声で尋ねるも、応えはなかった。当然のことだが道の舗装はされておらず、馬車の乗り心地はすこぶる悪かった。これなら歩かされたほうがましかもしれない。膝を抱き、目をつむって揺れに耐えた。
「……」
顔をあげ、耳をすませた。何かが聞こえた気がした。
「なに?」
「大声を出させないで。なんてちっぽけな力しかもっていないのかしら!」
風音のように、かすかな声だった。ユマは恐ろしさ半分、嬉しさ半分だった。涙の妖精である。
ミスティルーに代表される、人の感情、つまり無形のものから生まれる妖精のつくりは、大気を流れる霊気と同じだった。人型になったと思えば、すぐに溶けて消えてしまう。そのため見えたり見えなかったりする。
しかし、ユマには自信がなかった。彼女は悪霊なのか、それとも自分に、妖精を認知できるだけの力が戻りはじめているのか。だからこう尋ねた。
「本物なの?」
暴風が巻き起こり、馬車が揺れた。御者の驚く声が聞こえ、馬が止まった。人の近づく気配に気づいた妖精がかき消えた。見張りが鉄格子の小窓からのぞきこむ。男は大人しく座り込んでいる少年一人を確認すると、持ち場へ戻っていった。
しばらくしてからユマは、これは短気な妖精がいたものだ、と思った。
馬車が動きだし、窓から木々の緑が通り過ぎていく。光の具合からするに、もう昼ごろだろうか。ユマはまどろみ、小径から街道へ乗り出すときに、揺れで目覚めた。
「あなた、どこへ連れていかれるの?」
見ると、ミスティルーが肩先に座っていた。ここなら大声を出さずに済むと思ったのだろう。
「ヘテオロミア。そこできっと身元を調査される。それからスィミアの役人に引き渡されて、スィミアに連れていかれる」
ふうん、と言って妖精が顔をしかめた。
「大きな町は好きじゃないわ」
ユマの胸に、わずかな希望が湧いてくる。妖精たちは総じて気まぐれで、人間に益をもたらすとは限らない。だがどうせ殺されるのであれば、賭けをしてみようか。
「助けてくれる?」
「代わりに何をくれるの?」
ユマは耳に手を伸ばしたが、すべての装身具を取られたことを思い出した。隠しに手をつっこみ、彼女が気に入りそうな物がないか探した。
爪先に硬いものが当たる。すべて没収されたと思っていたが、小さいから見逃してしまったのかもしれない。それは星を連ねた銀のブローチ、セール学園における特待生の証だった。
「これはどう?」
「まあまあね」
長年努力して手に入れたものを、そのような一言で片づけられるとは心外である。だが彼女にその付加価値は分からないし、ユマにとっても、それはもはや銀の塊にすぎない。妖精は両手で受け取り、車内を旋回した。
「あたしの名前はネルよ。あなたは?」
「ユマ。よろしく頼むよ、ネル」
「で、何をしてほしいの?」
ユマはしばし考え、こう要望した。
「リマという村まで連れて行ってほしい。そのためにまず、剣が必要だ」
街道に入ってから、馬車は快調に進んだ。揺れも少なく、眠りやすかった。ユマは窓の外が暗くなるまで仮眠を取った。夜は休むどころではない。また奴らが――悪霊がやってくるから。
やがて馬車が街道を外れて止まった。ユマを連行する任務を帯びた三人の兵士たちが、野営の支度をはじめる。肉の焼ける匂いが空腹を助長した。火を囲んで三人が談笑しているうちに、鉄格子の隙間からネルが入ってきた。
「頼まれた物よ」
彼女がユマの膝に剣を落とす。三人のうち誰かの物を、盗んできたのだ。つづけて、手かせを指して尋ねる。
「それは取らなくていいの?」
「まだ取らない。様子を確認されたときにはめてないと、不審がられるから」
案の定、しばらくすると牢馬車の扉が開いた。「食え」と言いながら、兵士の一人がパンを放り込む。ユマはそれを拾い、噛み切るのに苦労しながら食べた。腹が満たされるにはほど遠いが、ひとまず空腹は収まった。男たちが荷をほどき、就寝の支度をしはじめた。
だしぬけに、悪寒がした。
冷ややかな空気が車内にまで入ってきた。ユマは深く一呼吸し、覚悟を決めた。剣を腰に差し、立ち上がった。かがり火が消えたのか、窓から差し込む明かりがなくなる。剣を抜く音がした。すぐに魔法で光がともされた。不気味な女の笑い声があがった。「誰だっ!?」と叫んだ男たちがうろたえる。
「悪霊だ!」
「離れろ!」
慌てて遠ざかる足音がする。
「ネル」
ユマが小声で叫ぶと、光とともに彼女が現れた。金属製の手かせが外れる。両手が自由になった。すぐに扉からも、閂の外れる音がした。ユマはそっと扉を開け、地面に降り立つ。
背筋を走った悪寒に、ユマは凍りついた。おそるおそる、顔をあげる。そこにいたのは、ヨダイヤだった。風で彼の髪があおられる。血が流れでるその左目は、空洞になっていた。吐き気がこみあげ、ユマは手で口を覆った。
「ユマ!」
耳元でネルの大声がした。
「兵士に気づかれたわ!」
ネルが腕を勢いよく振った。細かい光が、砂塵のように悪霊に襲いかかる。それを破って、悪霊の手が伸びる。ユマは逃げようとするが、腕を掴まれた。
焼けるような痛みが走る。ユマは言葉にならない叫びをあげた。身体中の血液が沸き立つような感覚がする。視界が赤く染まる。
「だめ、だめよ、しっかりして!」
ネルが腕を天に伸ばす。まばゆい光が四方に広がった。ユマはなんとか腕を振り切った。
「捕まえろ!」
痛みにうずくまっている場合ではなかった。兵士たちが駆けてくる。ユマは剣を抜き、馬をつなぐ縄を断つ。間髪おかずに飛び乗った。横腹を思いきり蹴る。馬がいなないた。
「進め!」
襲歩で馬が駆けだした。木立を抜け、街道へ飛び出る。月光の下、大地の上を、けたたましい音を立てながら駆ける。やや遅れて、同様の足音が聞こえてきた。すぐ横で泥が跳ねあがる。魔法を放たれたのだ。ユマも呪文を唱えるが、魔法は生じない。代わりにネルが魔法を放った。同時にけらけらと笑いだす。
「楽しいわ!」
「殺さないで!」
「無理よ!」
妖精が怒りだした。
「そんな習慣、あたしたちにはない」
男の叫び声があがった。馬の断末魔。
「ネル!」
「面倒くさい人間! 捕まっても知らない!」
妖精の気配が消えた。ユマは頬をつたう汗をぬぐい、振り返った。一人は落ちた。残っているのは二人だ。馬の息があがっている。何か策はないか。魔法が放たれた。手綱を右に引いたとき、悪霊に掴まれた腕が痛んだ。泥塊が飛び散る。
ユマはぐいと横に手綱を引き、雪原に飛び出した。そのまま丘を駆けあがる。すぐに進みが鈍くなり、駆けるというより登るになった。今日は日中、陽が照っていた。もしかしたら、条件が揃うかもしれない。
魔法が放たれ、ユマは再び手綱を操る。地面に当たり、雪を散らした。もう一撃。
「待て!」
制止の声があがった。はじめはゆっくりと、徐々に速度をあげて、雪が滑りだした。ユマは止まらず、夢中で駆けあがった。
雪に飲まれ、兵士たちの馬が横転する。男たちが罵声をあげる。小規模な雪崩だ。死ぬことはないだろう。ただし、馬は脅えて使い物にならないはずだ。ユマは丘の頂上で再度、振り返った。彼らの姿はいまだ埋もれていて見えない。