26話 温泉の村
「ごめんください」
オリファの声に、門番が詰所から出てきた。二人は身構えた。門番の男は、鄙びた土地には似合わない、洗練された服装をしている。その服に縫いつけられたヘテオロミアの徽章を認めたとき、ユマは気が遠くなりそうだった。
「何の用だ?」
関わりたくないが、ここで引き返しては不審である。二人は田舎者が衛兵に対してするように、敬意をもって頭を下げた。オリファが口を開く。
「一晩の宿を探しに来ました。親族の家へ行くところなんです」
ふうん、と言いながら門番が二人をじろりと眺める。
「いま、ここの村にはヘテオロミア議員である、マレタイさまがいらっしゃる。粗相があれば、つまみ出されるだけでは済まないと思え」
変装をしていてよかった、とユマは思う。男が振り向いた先に、本来の門番らしき農夫がいた。農夫は市兵の機嫌を損ねないよう、顔色をうかがいながら、二人を塀のなかに入れた。ヘテオロミアの男が詰所へ戻っていく。それを見届けてから、オリファが農夫に尋ねた。
「どうして議員さまがいらっしゃるの?」
「あそこに湯気が見えるだろ?」
農夫が川を指さした。
「この村には天然の湯が沸き出ている。それが病に効くってことは、おれたちは昔から知っていたが、最近になって都会人も知りはじめてね。マレタイさまは療養にいらっしゃっているのさ」
ひとまず、議員の目的はユマを捕まえることではないと分かった。しかし、彼がユマのことを知っている可能性がないとはいえない。オリファが尋ねた。
「衛兵さんが何人もいるみたいだから、ぼくたちが泊まれる場所はなさそうだけど」
「宿はいっぱいだが、部屋に余裕のある家はいくつかあるよ」
オリファがユマに目配せした。宿を探していると言った手前、部屋に空きがあるのに野宿するのは不自然か。「変装をしていれば一晩くらい、問題ないだろう」とオリファが耳打ちする。ユマは頷いた。
農夫の案内に従って二人は、湯気が立ち昇る川沿いに歩いていった。オリファが興味津々に川を見つめる。
「おじさん。ぼくたち、温泉を見るのははじめてなんです。直接つかるには熱そうだけど、村の人たちはどうやってお湯につかっているんですか」
「あれを見てみな」
農夫が、厳重な警備がしかれた石造りの建物を指した。柱頭に獅子の顔が彫られ、まるで神殿のような外観をしている。
「いつもはそこが共用浴場で、誰でも自由に入れるのさ。ただ、いまはマレタイさまが使っていらっしゃるから、おまえたちは使えない。温泉に入りたいなら、風呂桶を借りることだな。ここらじゃどこの家も持っているよ」
ユマはオリファの表情を盗み見た。予想通り、目が輝いている。
「だめだよ、オリファ。水を被ったら……」
変装の魔法がとけてしまう。
「部屋のなかでなら、いいだろ?」
ユマは吐息をついた。
案内された老夫婦の家で、オリファはさっそく風呂桶を借りた。川から湧き出る湯は熱かったが、数回に分けて部屋へ運ぶうちに、身体に触れてちょうど良い温度になった。ユマはひ弱な娘らしく、彼と並んで歩きながらも、力仕事をいっさい手伝わなかった。
「ねえ、どうして水が温かいんだと思う?」
湯船につかるオリファが、湯を両手ですくいながら尋ねた。
「地界の炎が水を温めるのかな」
学生に戻ったかのような会話に、ユマは口元をゆるめた。
「もしそうなら、温かい水は冷たい水よりずっと下から湧き出ているのかもね」
こもった湯気を逃がそうと、鎧戸を少し開けた。すると外から、静かな夕べに似つかわしくない、甲高い哄笑が聞こえてきた。天井を仰いだオリファが、「やれやれ、贅沢だな」と言った。どうやら議員は、女をはべらせているらしかった。
二人は夕食をとる前に、明日通る山道の具合を教えてもらうために、家主を訪ねにいった。女装をしているために会話を禁止されているユマは、戸口から離れて、川岸へ寄ってみた。湯けむりが角灯の明かりを受けて、ぼんやりと浮かびあがる。天を仰ぐと、月が東から昇りはじめたばかりだった。ユマは角灯を置き、膝をついた。目をつむり、しばしの間、瞑想にふけった。
砂利を踏む音が聞こえて、ユマは身構えた。振り返ると、身なりの良い男が腕を組んで立っていた。肉づきがよく、裕福な暮らしをしていることが伺える。
「失礼。邪魔をしてしまったかな」
声に宿る威厳に、ユマは身を固くした。衣の裾を持ち、膝を折る。おそらく、都市議会議員のマレタイとやらである。何か挨拶を、と思ったが、田舎者らしい言い方を考えているうちに、契機を逃してしまった。
「名前は?」
ユマ、と答えそうになり、言葉を飲み込む。
「レヴァンニです」
オリファに視線を送るが、彼は戸口で家主と話しこんでいる。おもむろに男が、ユマの腕を取った。驚いたユマは振りほどこうとするが、女でないと感づかれることを恐れて、中途半端な力しか出なかった。それがいじらしく見えたのか、男が微笑んだ。ユマは嫌悪感を顔に出さないようにするのに苦労した。
男が兵士の一人を呼んだ。その声でオリファが、ユマの様子に気づいた。向かってくる様子が見えたが、次の瞬間には、ユマの視界は反転していた。何が起きたか一瞬、分からなかった。ややあって、四肢が宙にぶら下がっていることを理解した。兵士に担がれたのだ。
「降ろしてください」
ユマがあまりにも淡泊な物言いをするので、マレタイの取り巻きは誰が声を発したのか、しばし分からなかったようだ。もっとうろたえることを予想、もとい期待したらしい。
ユマは自力で降りようとしたが、「暴れるな」と押し戻された。厚手のガウンをまとっていて正解だった。そうでなければ、女の体つきではないと気づかれただろう。だがこのまま連れていかれた場合には意味がない。なぜ女装していたのかという問題になり、身元を調査される。
ユマを担いだ男が、自身の首にあたる冷たい感触に気づいた。剣を構えたまま、ユマは言った。
「降ろしていただけないのなら、力を入れます」
周囲にどっと笑いが起こった。娘にしてやられた男を笑っているのだ。刃をあてられた本人は、訳が分からず冷や汗をかいていた。仮にも鍛え抜かれた兵士が、田舎娘の反撃に気づかない、などということがあろうか。「降ろしてやれ!」笑いすぎて目に涙を浮かべた兵士が言った。ユマは地に足をつけ、剣を鞘に納めた。
「待て」
マレタイが腕を掴んだ。
「その剣をどこで手に入れた?」
「母の形見です。ご覧に耐えるような代物ではありません」
ユマは掴まれた反対側の手で剣を取り、懐にしまった。
「見せてみろ」
「……たいしたものではありませんので」
オリファが固唾をのんで、こちらを見ている。分かっているよ、とユマは目で応える。良くない流れだ。
「この娘を連れていけ!」
その掛け声を契機に、ユマは駆けだした。虚を突かれた兵士たちがあっと叫ぶ。好機を見計らっていたオリファが、すかさず呪文を唱える。火種がはじけ、煙があがった。罵声があがる。帰路についていた村人たちが、何事かと振り返る。
「外へ!」
オリファの横を駆け抜けるとき、彼が叫んだ。立て続けに呪文を唱える。川に冷水を浴びせたのだろう、湯けむりがもうもうと立ち昇る。ユマは角灯を放ると、門番の制止を無視して、門の閂を外した。門は建付けが悪く、なかなか開かなかった。じれったくて蹴飛ばすと、やっと開いた。ユマを女だと思っている門番が、口を半開きにして放心している。騒動に気づいた兵士が追ってきた。ユマは指笛を吹いた。ロトは気づくだろうか。もう一度吹く。遠くでいななきが聞こえた。
「オリファ、早く!」
ユマは振り返った。手を伸ばした兵士が、オリファの衣を掴もうとしていた。そのとき、ユマは視界の片隅で光る帯を捕らえた。力を捕らえる感覚を得る。できる、直感的にそう思った。しかし、魔法は生じなかった。