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夏の王冠  作者: sousou
3章
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25話 酒場②

「ユマ」


 オリファの声に、はっと目を開けた。どれくらい時間が経った? 室内は薄暗くなっている。ユマは硬い長椅子の上に寝かされていた。見ると、数人の男たちが、酒臭い寝息をたてながら床や机に臥せっている。酒屋の飼い犬なのだろう、黒ぶちの犬がうろつき、床に落ちた料理の残骸を食べている。厨房から明かりが漏れ、がちゃがちゃと皿を洗う音が聞こえてきた。


「くそ、たんと飲まされたよ」


 頭を抱えながら、オリファが腰かけた。


「無限に酒樽が出てくるんだ。無限に……」


 ふと、オリファが片目をつむった。見上げると、微笑んだ娘が、皿を厨房に下げるところだった。赤いリボンの娘である。


「酔っ払いのくせに」


 ユマはつぶいやいた。どうしてオリファは、こうもすぐに人の心をとらえてしまうのだ。


「それで、部屋を用意してくれるって?」


 オリファからは、要領を得ない返答があった。ユマが吐息をついて立ち上がると、入れ替わるように彼が横になった。ユマは咳払いし、低い声にならないように気をつけて言う。


「すみません」


「ああ、起きたの」


 厨房から女将が出てきた。


「ごめんねえ、散らかっていて。さっき女給に一部屋掃除させたの。小さい部屋で構わないでしょ? 時期じゃないから、どの部屋も埃だらけでね。案内するから、そこの酔っ払いを連れてきなさいな」


 ユマはオリファの腕を引いた。彼は石のように動かなかったが、女将がはっぱをかけると、しぶしぶ後ろに続いた。赤いリボンの娘がひらひらと手を振っている。


 案内されたのは二階の角部屋だった。換気のために開け放たれた窓は夜の色に塗りつぶされている。手燭を持った女将が出ていくと、星明かりだけが頼りになった。ユマはオリファを寝台に放りこみ、鎧戸に閂をかける。寝台は少し埃っぽかったが、雪穴で眠るのと比べれば天国だった。


「忘れないで、オリファ。明日は早く起きて、誰かに見つかる前に馬を連れ出さないと」


「うん、馬をね……」


 呂律の回らない声が答える。そういえば、女装の魔法はいつ解けるのだろう。


「オリファ」


 彼の呼吸が深くなりはじめた。ユマは追求をあきらめ、手探りでもう一枚の毛布を探した。目をつむると、さほど待たずに眠気が襲ってきた。


 暗い岩窟のなかで、ひたひたと歩く音がする。ユマが魔法の光を掲げると、ダフィアの神像が鎮座していた。ちがう、自分が探しているのはイレネだ。笑い声が聞こえ、ユマは不安にかられる。足音がする方向とは逆の方向へ、歩を進める。


 また笑い声が聞こえる。暗闇に白の衣が浮かび上がる。ディオネットだ。彼女は無言で、洞穴のひとつを指さしている。ユマは首を横に振った。その方向へは行きたくない。足音が近づいてくる。ディオネットがじっとこちらを見つめている。ユマは弾かれたように、彼女が指さす真逆の方向へと、駆けだした。


 足を滑らせ、岩にぶつかる。触れた肌がびりりと痛かった。見ると、そこは氷室になっていた。目を閉じたフェルーが氷壁に閉じ込められ、膝をついたイスファニールが泣きながら氷を叩いている。壁を染める赤は、彼女の拳から出た血だ。ユマは母を呼び、止めようと足を踏み出した。途端、地面が傾き、反対側に滑りだした。あっと声が出た。フェルーの腕に抱えられているのは、イレネの神像だった。


「壊すの、壊すのよ、あの忌まわしい像を!」


 気づくと、氷を叩くのはイスファニールではなく、ぼろきれをまとった女に変わっていた。


「イレネ! 忌まわしいイレネ!」


 女が氷塊を持ち上げる。ユマは底なしの闇に堕ちていきながら、手を目一杯伸ばした。


「やめろ!」





 自分の叫び声で目覚めた。


 乱れた呼吸が落ちつくにつれて、意識がはっきりしてきた。隣でオリファが寝息をたてている。鎧戸の隙間からは、まだ光は漏れていない。ユマはそっと手を見つめて、光を灯す呪文を唱えてみる。何も起こらなかった。脱力して腕を投げだした。夢では灯せたのに。


「イレネ……」


 声が重なり、どきりとした。まぶしい光があたりを照らしだした。闇を浄化する月の光だ。温かい手がユマの手を取った。見ると、オリファが眠そうな目を向けていた。


「うなされていた」


 もしかして彼は、気がついた晩にはいつも、呪文を唱えてくれていたのだろうか。やがて光が弱まり、完全に消えた。


 まだ夜が明けきらない時刻に、二人はそっと酒場を後にした。村の門を抜けるとき、見張りは昨晩とは違う男だった。貧しい兄妹は連れ立ってとぼとぼと歩き、男の視界から外れるや、すぐに馬の元へ向かった。二日酔いのオリファが、しきりに頭痛と吐き気を訴えたので、その日はあまり距離を稼げなかった。


 そんな調子で四日が過ぎた。変装の魔法はだいたい一日もつと分かり、一日経たなくとも、水をかぶると元に戻ることが分かった。それならば、火に包まれても同じはずだと、ユマは考えた。なぜなら水と火は穢れ――すなわち偽りを落とす性質をもっているからだ。ただし、実験のために井戸水をかぶって震えていた二人は、魔法をかけ直して火の効力を確かめる余裕はなかった。風邪をひく前にかがり火をたいた。


 首から下げた指輪の効果を、ユマはありがたく思った。以前は毎晩のように悪霊の気配を感じていたが、まったく感じない夜もあり、悪夢を見ない日もあった。だが、それは根本的な解決になっていないような気がした。悪霊から遠ざかる日はなぜだか、ユマは自分の一部から引き離されているような、奇妙な感じがするのだった。


 やがて二人は遠方から、両翼を広げた獅子の旗が市壁に何十とはためいている光景を見た。壁に囲まれたあの巨大都市は、ヘテオロミアである。銀色に輝く鐘楼から、かすかな音が二人の耳に届く。壁の上を市兵が闊歩し、不審な者がいないか目を光らせている。二人は馬首をめぐらし、町を迂回する道へ進んだ。


 ここはヘテオロミアに近すぎ、決して安心できる場所ではなかったが、一つ嬉しいことがあった。スィミアの兵がうろつけないことだ。一般的に、ある都市の郊外を他都市の兵が闊歩していれば、その都市に侵略行為を企てていると捉えられかねない。だからしばらくスィミアの追手の心配はしなくてよかった。


 途中で一泊した農家で、二人は地図を確認した。目的地であるイスファニールの故郷――リマと呼ばれる村は、山々に囲まれた場所にある。ヘテオロミア側からその地へ入るには、ウリト山という山を越える必要があった。


 地図を確認してから三日後、二人は山の手前に広がる集落に着いた。門の上部にはヘテロミアの守護神と同じ、風神(ウォーレン)の浮彫が施されていた。


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