22話 老婆
待てよ、とユマは考え直す。殺さないと決まったわけではない。まだその行為に及んでいないだけかもしれない。
生き物の息遣いが耳元で聞こえ、ユマはぎょっとした。首を曲げて見上げると、差し込む月明かりに見慣れた顔が浮かび上がった。
「ああ、ロト」
安堵のため息をついた。少し離れた場所から、もそもそと動く獣たちの気配がする。それに藁の臭いもする。ここは老婆の家ではなく、家畜小屋のなかのようだ。今すぐ死の危険にさらされる心配は不要だと分かった。
ユマは半身を起こし、壁にもたれた。両扉の隙間から外の様子をうかがうと、家から明かりが漏れていた。老婆は今頃、ユマの持ち物を物色しているか、ユマを殺す準備をしているに違いない。試しに扉を押してみるが、外側から閂が掛けられている。
両手首に力を入れてみる。縛めはびくともしない。縄を断つのに丁度よいものはないかと、視線をめぐらす。すぐに、そこがただの家畜小屋ではないことに気づいた。柵で囲った一角には山羊らしき動物がいるが、全体的には薬屋のような様相をしていた。一方の壁全面に棚が設えられ、大小さまざまな瓶や壺が並んでいる。
ユマは立ち上がり、その一角へ寄る。老婆は家畜小屋にユマを入れたくないようだった。その理由が気になった。だが明かりなしには、何があるかよく見えなかった。きっと値打ちのあるものだ。そうでないなら、老婆はあれほど快適な暮らしを送れまい。刃物を探して、ユマは棚の引き出しを片端から開けていく。
だしぬけに、扉のきしむ音がした。心臓が止まりそうになる。
四角く縁どられた月明かりから、人影が入ってきた。扉が閉められ、あたりが真っ暗になる。ユマは息を殺した。
呪文が聞こえ、小さな明かりが灯る。すかさず剣を抜く音が響いた。驚愕と敵意に満ちた視線と視線が交わる。状況を理解するのに二呼吸が要された。
「馬鹿……」
オリファが剣を下ろした。表情から敵意は消え、代わりに怒りが宿った。大股で近づいてきたかと思うと、ユマは頬に焼けつくような痛みを感じた。何が起きたか分からず、目を白黒させた。
「馬鹿、何してんだよ」
平手打ちされたのだ。ユマが動揺で何も言えないでいるうちに、オリファはナイフを取り出し、手首の縛めを断ち切った。
「どこか痛い所は?」
「ない」
というのは嘘で、頬が痛い。オリファが視線を巡らし、ロトを見つける。
「馬具は母屋か」
「ああ」
互いにむっつりと押し黙る。とはいえ喧嘩をしている場合ではない。
「オリファ。あの婆さんに会ったか」
「いや。窓から様子をうかがっただけだ。こんな夜中に明かりがついているのは不審だと思って、覗いてみたら、ユマの持ち物があった。だから寝ている間に身ぐるみはがされたんだろうと思って。家畜小屋に入ったのは、奇襲をかける前に、馬の準備をしておこうと思ったからだ」
視界に入ったものに思わず、ユマはオリファの腕を掴んだ。明かりを棚に向ける。身の毛がよだち、言葉を失う。液体漬けにされて浮かんでいたのは、人間の耳や眼球だった。
「何に使うんだと思う?」
オリファが険しい表情をしたまま、答えた。
「魔術師の身体には魔力が宿っている。使い道はいくらでもあるさ」
彼が何か言いたそうにユマを見た。
そのとき、母屋の戸が閉まる音、ついで犬の吠え声が聞こえた。オリファが瞬時に明かりを消した。が、遅かったようだ。犬が狂ったように吠えたて、家畜小屋の扉を引っかきはじめた。オリファは舌打ちすると、ナイフを一本抜いた。それをユマに渡し、前へ進み出る。
扉が勢いよく開いた。髪を振り乱した老婆が叫ぶ。
「わしの獲物を横取りするのは何者じゃ!?」
黒々とした犬が牙を剥き、飛びかかってきた。すぐにそれが、ただの犬ではないと分かった。先ほどよりも体躯が倍以上になっている。ユマは動揺を押し殺し、犬の眼球めがけてナイフを投げた。情けない声があがり、犬が地に落ちる。オリファが剣を抜いた。間髪置かずに後方へ飛びすさる。振り下ろされた斧が地に突き刺さる。
ユマは目を疑った。老婆がこの一瞬でオリファと間合いを詰めたことも、振り下ろした斧をすでに構えなおしていることも、信じられなかった。オリファに押しのけられる。
「盗られたものを回収しろ!」
再び斧が振り下ろされ、材木の割れる音が響きわたった。オリファが老婆を斬りつけるが、かわされる。老婆はユマの脱出を阻止しようと、呪文を唱える。だがオリファの剣に邪魔された。ユマは悶える狂犬の眼からナイフを抜き、動脈をかき斬った。血の臭いに気づいて、家畜たちが興奮しはじめた。指笛で合図しながら、ユマは戸口を抜ける。ロトが後ろから駆けてきた。
「そこにいて」
母屋の戸を引きながら、ユマは指示した。トリスタの姿に気づき、ロトが寄っていく。
屋内に入ると、まず剣が目に入った。ユマはそれを腰に差す。そばに投げ捨てられていた外套をまとい、指輪は……。ええい、暖簾がうっとうしい。何枚かめくった所で、まとめて置かれている馬具を発見した。それらを一抱えにして外へ出た。
「ロト、おいで!」
愛馬がそばにやってきた。山羊と鶏の騒々しい鳴き声が家畜小屋から聞こえてくる。すさまじい音と共に、屋根の一部が吹き飛んだ。陶器の割れる音がした。オリファは大丈夫だろうか。焦りで指先が震える。腹帯を絞めおえた。頭絡を回す。ついでに木につながれたトリスタを解放する。
ユマは母屋へ舞い戻った。指輪はどこだ。引き出しという引き出しを全て開け、野菜が入った籠をひっくり返す。悪趣味な頭蓋骨の置物を蹴飛ばし、宝石箱をひっくり返す。きらびやかな宝石が散らばり、蓄えられた富の多さに驚く。だが指輪は見つからない。