21話 分かれ道
凍りついた河を渡るころには、雪は完全に止んでいた。雲の切れ間に青空が見える。下馬した二人は、手綱を引いて慎重に氷上を歩く。白銀の世界に、屍のようにたたずむ渡し守の小屋があった。小舟は冬が来る前に退避させるのだろう、一隻も見当たらない。「ねえ」澄んだ空気にオリファの声が反響した。
「冬に旅するのは案外いいかもしれない。どこへ行っても通行料を取られないだろう?」
白い息をまとって、彼がにやりとする。雲の合間から陽がのぞき、雪と氷が、きらきらと輝きだした。ユマがそれを見ながらぼんやりとしていると、ロトに小突かれる。オリファの声変わりしていない美しい声が、旅の慰みに歌をうたいはじめた。
木立を抜けて
花畑を駆けて
泉のほとりの
やわらかな苔の上
きみは今日もそこにいるかな
腰をあげて
手を取って
青空を映す
みなもの上
ぼくと一緒に踊らないかい……
やがて樹冠の合間から差し込む光が、傾きはじめた。道は陽が落ちる前に、二人を人里に運んでくれそうにない。先を行くオリファを、ユマは引き留めた。
「枝を集めよう」
二人は道から逸れた場所で馬をつなぎ、荷を下ろした。オリファがナイフを持って、よく燃えそうな枝を探しにいった。ユマは馬の近くにとどまり、あたりに落ちたモミの葉を集めた。オリファが鍛冶屋の労働歌らしき歌を口ずさんでいる。声が遠くなり、やがて完全に聞こえなくなった。
「トリスタ」
ユマの声に応えて、思慮深く落ちついた瞳が見返す。
「オリファを頼むよ」
馬は何かを嗅ぎとったのか、遠ざかるユマを追おうとする。だが木につながれているため、数歩しか進めなかった。ユマは手早く荷をまとめると、ロトの手綱を取り、再度オリファの姿が見えないことを確認した。
胸が張り裂けそうな想いだった。彼とはこれ以上、一緒にいてはならない。もし、悪霊がヘテオロミアの魔術師を依り代にしたように、オリファを依り代にしたら? そうなった場合、自分がオリファを殺さない保証はどこにもない。彼を殺すくらいなら、自分が死ぬか、悪霊に取り込まれるほうが、ずっとましだった。
ユマは道へ出ると騎乗し、来た道を引き返した。仮にオリファが明かりをともしたとしても、暗くなれば足跡が分かりにくくなる。引き離すなら今の時間帯は悪くない。
ここへ至る途中で道の分岐があった。方角から考えて、目的地に至りそうな道を選んだが、もう一方を選んで悪いということもないだろう。なぜなら、どちらも同程度に草が剥げていた。使用頻度と危険は変わらないということだ。
「ロト、ここだ」
見逃しそうになり、ユマは手綱をぐいと引く。ロトが向きを反転させ、もう一方の道へ進んだ。
あたりが暗くなるにつれて、首に下げた指輪がぼんやりと光りだす。それと呼応するように、暗い影が、よぎっては遠ざかる。形をつくるほど強いものではない上に、ユマを――正確には指輪を避けているようだ。ロトの足取りはしっかりとしている。大丈夫だ、今晩は夜通しでも歩ける気がする。
はるか前方に、きらりと光るものが見えた気がした。陽光の残り香か、と思うが、天を仰げばもう陽は沈んでいる。
近づくにつれ、それが民家の明かりだと分かった。隣に家畜小屋と物置がある。人間の臭いを嗅ぎとったのか、動物たちが小屋のなかでそわそわと動く様子が伝わってきた。
困ったことに、道はそこで途切れていた。つまり、道は家主の脚によってできた、この家へ至る道であり、森を抜けるための道ではないのだ。引き返すとなると、オリファに出くわすかもしれない。今晩は、泊めてもらうことが賢明だろう。
ロトの手綱を柵にかけ、ユマは戸を叩いた。
「ごめんください」
しばらく待つと、扉がわずかに開く。ユマと同じくらい小柄で、しわくちゃの老婆が顔を出した。屋内から犬のやかましい吠え声が聞こえる。
「旅の者です。一晩泊めていただけませんか」
老婆がユマを上から下まで眺めた。このような時期に旅をする一般人など、まずいないだろう。かといってユマは、都市の特使を務められるほど歳を重ねてもいない。目が合うと、人のよさそうな笑みが浮かんだ。
「お入り。卵の粥は好きかね?」
家畜小屋に馬を入れる空きはないと言われ、ロトには軒下で我慢してもらうことにした。手綱以外の馬具を全て外し、身軽にしてやる。ロトが甘えるように鼻を押しつけてきた。ユマは鼻面をなで、おやすみ、と言った。
家の敷居をまたぐと、外観からは想像できないほど、室内が清潔なことが分かった。床板も壁板も真新しく、張り替えたばかりのようだった。天井に渡された梁から、厚みも幅もまばらな暖簾がいくつも下がり、床まで届いている。それらは壁の代わりに空間を分ける役割を果たしているようだった。
ユマが驚いたのは、蝋燭の灯火が棚や窓辺に揺れていることだった。オリファとよく下町をうろついていたので知っているが、蝋燭は買うとなれば非常に高価で、作るにしても、一度に多く作れるものではない。羊一頭の油で何本分の蝋燭が作れるのかは知らないが、一人暮らしであれば、ひと冬に屠る家畜は数えるほどだろう。なぜこのような贅沢使いができるのか、疑問だった。
犬が興味津々といった様子で、ユマのそばに寄ってきた。痩せこけていて、全身黒の毛並みに覆われている。ユマがなでようと手を伸ばすと、手の平を返したように吠えだした。踵を返し、部屋の奥へ消える。数えきれないほど多くの暖簾がはためき、裾に縫いつけられた鈴が鳴る。ユマは所在なく手を空に置いたまま、思い出した。ロトとトリスタが特別なだけだ。動物は全般的に、悪霊の気配がするユマを警戒する。薄布の向こうに、犬が影絵のように浮かびあがる。
「お食べなさい」
老婆が粥をよそった。ユマは礼を言って、座敷に腰を下ろす。もう一つの鍋では麦酒が温められていた。粗削りな木製の杯に、それが注がれる。ユマはそのまま飲みたかったが、当然のごとく水で薄められた。せめてお湯を、と思うが食べさせてもらう身で文句は言えない。食前の祈りを捧げ、ぬるい麦酒を口へ運んだ。
耳元で鳴る羽音の煩わしさに、目が覚めた。目前に迫る暗闇に、また悪夢を見ているのかとユマは思う。しかし、生活感のする汚臭がそうではないことを教えてくれた。それから彼は、寝床についた記憶がないことに気づく。背筋に悪寒が走る。起き上がろうとして、両手首が縛られていることに気づいた。頭が割れるように痛い。
「くそ……」
悪態がむなしく闇に吸い込まれる。嫌な予感があたった。つまり、オリファがヘテオロミアの女にしたことと同じことをされたのだ。理由は簡単に思いつく。ユマの馬と持ち物を売るためだ。実際に、腰に下げたはずの剣の重みがない。果ては、ユマの身をどこかに売るためか。殺さないということは、ユマ自身に何らかの価値を見出したのかもしれない。




