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夏の王冠  作者: sousou
1章
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1話 青い花


 スィミアに住む者なら誰しも、夏を心待ちにしながら生涯の大半を過ごす。火を焚いた薄暗い室内にこもり、貯蔵した食料をちまちまと減らしながら、雪に覆われた大地が深い眠りから覚めるまで、辛抱強く待ちつづける。


 夏という単語によって想起するものは人によって千差万別である。恋人と過ごすひととき、小川での水遊び、色とりどりの衣をまとい舞う娘たち、にぎやかな市場、汗を流しながらの畑仕事。


 ユマにとってそれは、麦畑一面に咲く青い花、フェリルだった。それは夏になると町のあらゆる場所に現れる。土の香りがする風が吹けば、それは妖精が踊るようにいっせいに揺れ、魔法使いの都として名高いスィミアを、いっそう神秘あふれる息吹に包み込む。


 ユマがそれを夏の象徴と見なすようになったのは、彼に妹ができたときからだった。その子はフェルーと名づけられた。彼女が生まれた日、町じゅうを神秘の青に染めていた、フェリルからとった名だった。


 母が子供を授かったことは、スィミア人の間でしばらく話題になった。そのとき、長子であるユマは八歳だった。つまり八年が経過してもなお、ノイスター家の当主が母を――第二夫人を愛しているという事実が、館の外の人間からすると信じられなかったのだ。


 ユマの父、ヨダイヤには二人の妻がいた。正妻の名はクリヴェラと言った。彼女はノイスター家と同様に、スィミアで最も古くからある貴族家系の出身だった。第二夫人の名はイスファニール。田舎からスィミアに働き口を求めてやってきた娘で、以前はノイスター家の使用人として働いていた。


 それはあるときヨダイヤに、突然やってきた。


 そよ風になびくおくれ毛や、くすんだ裾のレースの重なり、軽快な短靴のステップ、細い指の動きなど、些細なことが目に焼きついて離れない。ヨダイヤが木陰に腰かけて本を開いていると、娘が洗濯物をいっぱいに詰めた桶を抱えて、庭をせわしく行き来する。ふと視線が交わり、娘がおずおずと頭を下げる。彼女はおびえていて、彼のそばを通るときにはいつも、地面を見つめて早歩きだった。


 ある日の夕方、本の重みが膝から消えて、ヨダイヤは眠りから覚めた。仰天した娘が草上に本を落とした。娘が口ごもる。もう日が暮れてしまいますから、お身体を冷やしてはいけないと思って。お呼びしたのですが、お目覚めにならなかったので……。


 ヨダイヤは、娘が本に興味を持っていることを知っていた。そばを通るときにはいつも、その澄んだ瞳がちらりと背表紙に向くのだった。


「おまえの名は?」


 叱られると思った娘が、こわごわと顔をあげた。


「イスファニールと申します。若旦那さま」


 はじめて言葉を交わしたとき、イスファニールはまだほんの少女だった。ヨダイヤも学園の上級生になったばかりで、漆黒の外套は身体になじまず、ごわごわとしていた。二人はやがて、顔を合わせば一言二言、言葉を交わすようになった。ひと月経つころ、木陰に座って会話するようになった。半年経つころには、親しみをこめて笑い合うようになった。


 ヨダイヤは結局、敷かれた道から外れなかった。彼は幼いころから婚約していた、クリヴェラと結婚した。そして親族が言うには「妾として」イスファニールを館に住まわせた。最初に子を授かったのはイスファニールで、数カ月遅れてクリヴェラも子を授かった。それがユマと、異母兄弟のイルマだった。


 父は腹違いの兄弟を年齢的に一緒くたに考えるようで、何を学ばせるにも幼いころから二人同時にやらせた。神官の元へ通わせるのも、文法教師の元へ通わせるのも、学園へ入学させるのも。


 ユマはこう思っていた。ヨダイヤは聡明だが、市議会の仕事で多忙なために、子供たちに関することをおざなりにするふしがある。二人の妻の子が同じ空間にいて、何も起きないはずがないのに。結果としてユマはひねくれ者に、イルマは短気で意地悪な少年に育った。おそらく、ヨダイヤは息子たちの教育法を間違えたのだ。


 そのため、ユマは生まれたときから家柄や伝統を重んじる空気に嫌気がさしていた。学園に入学したとき、あと十年間もイルマと同じ空間で勉強させられると思うと、うんざりした。しかし曲がりなりにも幸運な身分に生まれたユマが、恵まれた機会を棒に振らずに済んだのは、ひとえにオリファのおかげだった。


 ユマが七歳になる年の夏のことだ。学園でのはじめての授業が終わったあと、ユマは好奇心から、時計台の見晴らし台へのぼってみた。その時計台はスィミアで最も高い建造物で、それを敷地内にもつセール学園の名を、他都市に知らしめる一因となっていた。


 露台に出たところでユマは、菫色の瞳をもつ少年に出会った。


「どうして空は青いと思う?」


 それが彼からはじめて聞いた言葉だった。のちに分かったが、彼は詩人の真似事をしていたのではなく、合理的な理由を真剣に考えていたのだ。家名を持たない彼は教師に、「ニケーレの子のオリファ」と呼ばれていた。ニケーレという名はスィミアでとりたてて珍しい名ではなかったが、学園内でその名が指すのは、天文学の教授のみだった。


 オリファと仲良くなるのに時間はかからなかった。セール学園はスィミアで唯一にして、他都市間で随一の評判を誇る学園だった。当然、集まるのは有力貴族の子息たちである。しかしオリファの家系は市民階級だった。彼を通じてユマは、自分が思っていたより世界がずっと広く、未知なる発見にあふれていることを知った。


 りんごも魚も紙も、使用人に一声かければ、上等のものが手に入る。だがユマは彼と一緒に、吐き出すほど酸っぱい野生のりんごをもいだり、夕方まで一匹の魚も釣れず小川のほとりにたたずんだり、ニケーレのお遣いで悪臭の漂う製紙工房へ行ったりするほうを好んだ。


 数ある遊びのうち、特に多くの時間を占めていたのは議論だった。オリファは物事にすぐ疑問をもつ少年だった。なぜ土を掘ると水がでてくるのか。なぜコウモリは暗闇でも物にぶつからずに移動できるのか。そういった問題について、暇さえあれば二人はいつも話し合った。そしてそれが何よりも楽しい時間だった。


 オリファの特徴は娘もうらやむつややかな巻き毛と、スィミア人らしい白い肌だった。ユマと違って人当たりが良く、その愛らしいが打算的な笑みで、女の子に興味を持たせることが得意だった。特に、年の離れた姉がいるせいか、年上の女性からの評価は抜群だった。


 馬の合う友人に会えると思えば、学園へ行くのは苦痛ではなかった。しかしときどき、発作のような反動が沸きあがった。そんな時ユマは、授業をさぼって昼寝したり、時計台にのぼったりした。オリファは気ままな少年だったので、理由は聞かず、ユマに付き合ったり、付き合わなかったりした。だが心中で考えていたらしい。何がユマをそうさせるのか?


「きみは気分屋って質じゃないな」


 露台の欄干にもたれながら、ある日、オリファは鋭いことを言った。


「反発したいんだろう」


「何に?」


「イルマ。きみのお父さま。血縁の者。身分と体制。そうあるべきだという考え。ようは、きみを縛りつけるものすべて」


 組んだ腕を枕代わりにして、ユマは寝ころんだ。


「そんな元気なものじゃない。反発よりは、諦めに近いよ」


 ユマは誰からも必要とされない人間だった。ノイスター家からはもちろんのこと、イスファニールからも。つまり、彼女にとってユマは、守るべき存在であって、頼るべき存在ではない。彼女が頼りにしているのはヨダイヤ――父である。それでは、自分の存在意義は何か。勉学に励んで、将来なんの役に立つというのか。


「諦め」


 オリファが繰り返した。


「本当に?」


 菫色の瞳がきらりと光った。


 後になってみると、オリファのほうがユマのことをよく分かっていた。入学して二年目の夏、あの日の夕暮れ、窓から差し込む晩夏の光、優しく握った母の手の温かさを、ユマはよく覚えている。寝台に身を起こした母は、まもなく冬が到来する時期としては、まぶしすぎるくらいに目を輝かせていた。


「あなたにきょうだいができるわ」


 その知らせは青天の霹靂だった。じきに弟か妹ができる。その希望がユマに、一晩にして心境の変化をもたらした。翌朝、家を出るときには、学園に通う者なら一度は憧れる、特待生になることで頭がいっぱいだった。


 特待生。その称号は、高学年にあがる際の試験結果と教師による評判から、学年で最も将来が有望な一人に与えられる。それは卒業後に、あらゆる進路を選択できる通行証だった。ユマは一度、学園の廊下に打ちつけられた歴代の特待生名簿をじっくり眺めてみたことがある。大昔の名前は知らない者も多いが、ここ数十年のものは、どれも一度は聞いたことのある名だった。それが意味するところは、特待生になれば、あらゆる組織から引っ張りだこになるということだった。


 ユマははじめて、将来のことを真剣に考えた。ユマと生まれてくるきょうだいは、一人の人間になりたいなら、ノイスター家から離れなければならない。そして母も、父の死後は――明日かもしれないし、五十年後かもしれない――館から離れる。そのような時に、家族と自分を養える経済力が必要だった。そして、学園の特待生になることは、いま手に入る機会のなかで、目指す方向性に最も有利に働くという結論に至った。


「ぼくには特待生になるほどの能力があると思う?」


 ユマがそう尋ねたのは、祈祷の鐘が町じゅうに響わたる、昼休みのことだった。高低さまざまな音が家々に反響し、消えゆくまで、オリファの口は半開きになっていた。


「なりたいの?」


「うん」


「ある! 絶対に」


 背を思いきり叩かれ、オリファの熱弁が始まった。


「魔法! なんといっても魔法だよ。特待生になる人はみんな、それに長けている。父さんもそう言っていた」


 二人は、地面がはるか先に見える、時計台の螺旋階段を下りていく。靴底の音が響きわたり、天に抜けていく。それが終わらないうちに、また新たな音が響きわたる。所々に設えられた小窓の前を通るたびに、細長い影法師が二つ現れた。


「魔法が得意? 苦手ではないけど」


「おいおい。ユマの魔法は、世間では大得意って言うんだ」


 ユマはすいとオリファを抜かした。外套が扇のように広がった。


「あまり嬉しくないんだ。得意だとしたら、それは血のおかげだから」


「嬉しいとか嬉しくないとか、そういう問題じゃないよ。使える手札は最大限に活用しなきゃ。それに、父方の血とは限らないだろう。少なくともイルマよりも得意なんだから」


 ユマは靴底の音を鳴らすのを止めた。


「どういう意味?」


「お母さまの血のおかげかもしれないって意味だけど」


 オリファの戸惑いが歩調から伝わってきた。


「考えたこと、なかったの?」


 手すりに置いた手を、ユマは見ることもなく見た。


「うん。お母さまはあまり魔法を使わないんだ」


 ユマの学園生活は様変わりした。本腰を入れるや、ユマはたちまち成績の上位者に名を連ねた。とくに魔法は周囲から絶賛された。質も速さも誰にも引けを取らない上に、独創性があった。彼の魔法は、炎を凍らせ、粉雪を花弁に変え、昼の湖に夜空を映し、黒衣を白衣に変えた。それは理の限界に限りなく近い魔法、みなを惹きつける魅惑的な魔法だった。


 ユマが九歳になる年、夏の盛りに生まれたのは、玉のように可愛らしい女の子だった。ノイスター家の者がみなそうだったように髪は黒く、瞳はイスファニールの色をゆずり受けて、澄んだ空色をしていた。ユマが妹を抱きあげると、侍女のカユラはよく、夜の妖精と昼の妖精が並んでいるようだと言った。ユマの瞳はヨダイヤの色をゆずり受けて、夜空を映したような蒼だったからだ。


 ユマは小さな妹が可愛くて仕方なかった。暇さえあれば、フェルーの遊び相手になり、昼の短い冬の間は、薪のはぜる暖かい部屋で、琵琶(リュート)を弾いてあげることが多かった。永遠にそのままかと思われた雪がやっと解けだすと、イスファニールとフェルー、それに侍女のカユラを伴い、よく森へ散歩にでかけた。フェルーが言葉を喋るようになると、ユマは彼女を膝にのせて、本を読み聞かせてあげた。


 他都市の住人と比較したとき、スィミア人の特性として真っ先に挙げられるのが、陰気さだった。しかし妹は驚くほど元気で、よく笑う子だった。ユマは、妹からはどんな暗いことも遠ざけたいと思った。だからクリヴェラやその子供たちが、妹のそばに近寄らないよう気をつけていたし、ときどき招待される貴人の集まりの場では、常に彼女のそばを離れず、好奇の目から守っていた。


 やがてユマは高学年になった。オリファがよく文句を言っていた、膝がむき出しの外套とはおさらばとなり、足首まで届く立派な外套が制服となった。どの学生の胸元にも、三つの星をいただいた牡鹿の校章がついていた。しかしユマの胸元にはもう一つ、星を輪状に連ねたブローチが輝いていた。それは、特待生であることの証だった。


 そのころからユマは、学園を卒業したら、母と妹を連れて新しい家に移り住もうと考えるようになった。彼のもとにはすでに、勧誘の手紙がいくつも届いていた。地方都市の議会、学園、研究所、神殿……聞いたことのある名の組織も多かった。


 目の前には安定した道が伸びており、それに沿って進めは万事うまくいく。いまだ子供らしい純真さが多くを占めていたユマは、それを信じて疑わなかった。


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