17話 きみが知らないこと
二人は長い間、泣きながら抱擁していた。とくにオリファは、ユマが生きているか死んでいるか分からないまま、ここまで旅してきたのだ。再び巡り会えたことは奇跡的で、決して離すまいと腕に強い力がこもっていた。
オリファはとてもやつれて見えた。頭巾からはみ出た髪は結えるほどの長さに伸び、目の下には隈ができ、鼻と頬は赤く乾燥していて、手先は震えていた。
ディオネットが自身の外套を脱ぎ、オリファに巻きつけた。そのまま暖炉のある部屋へ誘導した。例の蒸留酒に薬草を入れて飲ませると、彼の顔に血の気が戻ってきた。彼女は暖炉に薪を足し、そっと部屋を出ていった。
ユマはオリファの向かいに腰を下ろした。
「ぼくを追ってここへ?」
うん、とオリファが応えた。
「ただ、市門を抜けるのにてこずって、スィミアを出たのはユマがいなくなって一週間後だ。見てよ。とんだ醜態だ」
袖をまくると、痛ましい傷が現れた。彼が門衛に引き留められた理由を、ユマは容易に想像できた。自分とよく一緒にいたからだ。
ユマは何も言えなかった。あの夜、閉ざされた市門を開かせるとき、自分は傷を負わなかった。手当たり次第にかき集めた館の金品を、門衛に押しつけたからだ。だが、市民階級のオリファには門衛に渡す賄賂がない。ユマの反応を見た彼が、笑みを消した。
ユマは何よりもまず、オリファに確認することがあった。しかし望む答えと真逆の答えが返ってきたとき、ユマは今度こそこの世に生を置く意味を見出せないだろう。月と星と太陽が西に沈んだまま永遠に昇らず、自ら火を起こすすべもなく、暗闇のなかを凍死するまでさまようのだ。それを想像すると、なかなか口を開けなかった。
「ぼくの捜索は、誰かの依頼なのか」
尋ねる前から、怖くて睫毛を伏せていた。赤らんだ手が手に触れた。ユマはおそるおそる、視線をあげた。
瞳を見れば十分だった。オリファはユマを、スィミアに売るようなことはしない。
「ごめん」
ユマの言葉に、オリファが微かに口角をあげた。
「オリファ。家族は、きみがぼくを探しにいったことを知っているのか」
「まあね」
「反対したに決まっている。罪人に味方した者は同罪になるんだから」
「それはあの町の規則だ。他の町に行けば関係ない。父さんはずっと、オイスガルドの学者になることが夢だった。姉さんがまだ独り身なのも幸いした。今頃、家族はスィミアを出立してオイスガルドへ向かっているところだよ。おれももう、スィミアには戻らない」
「オリファ……」
ユマは首を横に振った。
「ぼくのために人生を棒に振る必要なんてない。きみは卒業まで学園に通うべきだ」
「どうして。ユマがいない学園になんて、行ってもつまらない」
オリファは杯を置き、立ち上がった。
「いいか、スィミアにユマの味方は一人もいない。ノイスター夫人が……クリヴェラがきみを探すために、莫大な資金と人員を投入しているからだ。もう誰も表立ってきみを擁護できない。擁護すれば投獄される。なら、誰がユマの味方になるんだよ。クリヴェラには四千人の味方がいるのに、きみには一人の味方もいない」
力が抜けたように、腰を落とした。
「誰かの意志に縛られるのはもうたくさんだ。おれは自分の意志に従って行動する。そしてそれは、ユマのそばにいることだ」
にわかにユマの胸から、さまざまな感情があふれ出した。悪霊に追われるようになってから忘れていた、直視するにはあまりにもまぶしい、きらきらしたもの……。目頭が熱くなって顔をそむけた。
「ぼくは家族を全員失ったと思っていたけれど、それは間違っていた」
ユマの客室には空きがあったため、そこに寝床を設えてオリファはぐっすり眠った。彼の愛馬であるトリスタを厩へ引いていくと、ロトが気づいて寄ってきた。二頭は彼らにしか分からない言葉で、再会を喜びあっているようだった。
ユマは放り出されたオリファの持ち物を点検した。靴の汚れを取り、衣類を洗濯し、三本のナイフを磨く。それから、椅子にかけられた革帯に目を留める。
帯には剣が括りつけられていた。質素な装飾が施されたそれを、窓辺に寄って眺めてみる。剣を習う男児なら誰もが憧れる、テルージア産の剣だ。竜の息吹で鍛錬されたその剣は、切れ味や強度など、あらゆる面で最高品質であるという。
この剣はオリファがはじめて剣術大会で優勝した祝いに、父のニケーレが贈ったものだ。非常に値打ちがあるものだから、貴族でなければとても手に入らない。そのため、明らかに格の違う剣の輝きに気づいた学生たちはささやき合った。あいつの家のどこに、そんな金があったんだ? 馬を手に入れるのでさえ一苦労だったのに。
剣の対価となったのは、ニケーレの手持ちの本だった。若かりし頃、恩師に譲り受けた本で、鍵つきの棚にしまい、家宝のごとく大切にしていたという。オリファが知らない間に、それはなくなり、代わりに剣があった。テルージア産であることはもちろんこの剣の価値の一つだったが、オリファにとって何よりの価値は、それが出来上がり、彼の元に届いた経緯だった。ユマは、剣の手入れはせずに、元の場所にそっと戻した。
夕方に目覚めたオリファは、少し疲れがとれたように見えた。ユマが部屋に入ったとき、熱い湯に浸した手ぬぐいで、顔や手の汚れを拭きとっていた。オリファは神官に支給された服に着替えていたが、「これ女物だよな?」と複雑そうに尋ねた。ユマはここが女子神殿であることを説明し、夕食がのった盆を卓上に置いた。
「スィミア人は、今回の件についてどんな推測を?」
「議員は詳細を知っているかもしれないけれど、一般人が噂しているのは、大まかなことだよ。きみのお母さまと、フェルーと……」
一緒に遊んだ日を思い出したのか、オリファの声が震えた。
「……フェルーと、ヨダイヤさまが亡くなったということ。おそらく、イスファニールさんとフェルーはヨダイヤさまに殺められ、ヨダイヤさまはユマに殺められただろうということ。ユマが家に火を放ったこと。スィミアに侵入した悪霊はユマが呼んだもので、きみと共に去っていったということ。フェルーが祭典で献上される予定だったこと」
「じゃあ、スィミア人は正しい推測をしたというわけだ」
ユマは暖炉の前に腰かけた。
「お母さまはフェルーを献上するのに反対して殺され、フェルーは献上のために殺された。それを目の当たりにしたぼくはヨダイヤを殺した。たぶんきみが知らないのは」
菫色の瞳がじっと向けられる。
「ヨダイヤに向けて魔法を放つ前に、ぼくが彼の眼をえぐって呑み下したこと。自分の力だけでは敵わないと思ったから」
オリファの顔が強張った。
「それとそれ以降、魔法が使えなくなったこと」
長い沈黙の間、ユマは薪のはぜる様子を眺めていた。オリファが口を開いた。
「魔法が使えない?」
「そうだよ」
今度はユマの声が震えた。友の困惑した声に、いかに大切なものを失ったかを、改めて意識させられた。
「いつかきみは言ってくれた。ぼくの取柄は魔法だって。それから魔法は、ぼくの自信の源になった。でもそれがない今、ぼくは何者でもなくなってしまった。死ねないのは悪霊が恐ろしいだけなんだ。悪霊を遠ざけるためだけに生きている」
オリファは何も言わず、ユマの隣に腰を下ろした。ゆらめく炎を前にして、二人は互いに気が済むまで黙っていた。とっぷりと日が暮れてから、冷たい食事を取った。