12話 提案
「休めましたか」
廊下を曲がったところで、藍色のガウンをまとった祭司に出会った。昼に編みこまれていた髪はすべて下ろされ、豊かな髪が雲のようにひろがっている。ユマは胸が詰まり、動揺した。美しい? いや、好ましい? 一瞬のうちに、さまざまな感情があふれ出てきた。無言がつづいたことに気づいて、ユマはあわてて応えた。
「これほど安心して眠れたのは、スィミアを出てからはじめてです。あなたは素晴らしい魔術師なのですね」
祭司が優しく微笑んだ。
「わたしの力だけではありません。カルガーンたち、鹿もこの森を守ってくれています」
「感謝申し上げます、祭司さま」
「ディオネットとお呼びください。他の者も名前で呼びますから」
祭司がユマの手燭を取った。
「お腹がすいたでしょう? 食堂へ案内しましょう」
そうして、ユマは夜の色をまとった祭司の背中に従った。
うねる髪がきらめくさまを眺めていると、屋内にいるというのに、なぜだか満天の星空の下で、女神が導いてくれているような感覚に陥る。たしかに腹は減っていたが、歩いているうちに徐々に忘れ、いろんな幻想が見えはじめた。翼を広げた竜、純白の一角獣、青い光を放つ蝶、燃え盛る不死鳥、そういった伝説の生き物が美しい夏の夜に現れ、女神につき従い、追い越しては追い越され、追い越されては追い越して、楽しげな鬼ごっこを延々と繰り返しているのだった。
「ミオラ、いますか」
祭司の声に、ユマは意識を引き戻す。炊事場のしめった匂いが漂っていた。
垂れ幕を押し上げ出てきたのは、前掛けをつけた婦人だった。煮炊き番といった風貌だが、前掛けの下に神官の衣をまとっていた。掃除中らしく、手に雑巾を握っている。
「ユマ、彼女はミオラ。この神殿の古株です」
祭司が紹介すると、婦人はユマに向かって、無言で頭を下げた。ユマは名乗り、挨拶を返した。
「ミオラ。片付け中にすみませんが、簡単な食事を用意してもらえますか。食材は好きに使って構いません」
「承知しました、ディオネット」
神官らしい、落ち着いた声だった。ミオラは頭を下げ、厨房の奥へ消えた。
誰もいないがらんとした食堂は、物が見分けられないほど暗かった。厨房から火打ち石の音が聞こえ、ぼんやりと光が漏れ出す。
二人は暖炉にいちばん近い席についた。ユマが火打ち石を探ろうとすると、冷え切った暖炉にひとりでに火が灯った。炎の熱気に、銀の髪が一束あおられる。ユマはしばし、紅く浮かび上がった祭司の横顔を見つめた。
ミオラが水差しと杯を携えてやってきた。「彼には少しだけ」、指示に頷いた彼女が、ユマの杯には膜が張るほど、祭司の杯にはなみなみと、琥珀色の液体を注いだ。人によっては黄金というだろう、嗅いだことのある強い香りが鼻をついた。祭司が言う。
「お飲みなさい。身体が温まります」
一口飲むと、喉から胃にかけて、焼けるように熱くなった。ユマはむせ返り、杯を置いた。これほど強い酒を飲むのははじめてだった。水面を凝視していると、にわかにミオラが水差しを取った。見ると、祭司の杯はすでに空になっていた。
室内が暖まってきたころ、料理が運ばれてきた。机に並べられたのは、乳を煮出したスープと、雑穀のリゾット、山羊のチーズに、何日も温め直しているのか、煮すぎて具が崩れている猪肉のシチューだ。
丸二日ろくに食べ物を入れていない胃を慣らそうと、ユマはスープを慎重に飲みはじめた。が、酒の香りが口に残っていたので、まったく味気がしなかった。それから急に腹が減ってきて、無言で料理を平らげはじめた。人が自分のためにつくってくれた料理を、このときほどありがたく、おいしく思ったことはなかった。
「祭司さ……ディオネット」
腹が満たされてきたころ、ユマは口を開いた。
「なぜ、ぼくが悪霊に追われていると分かったのですか」
「コヨーの目を通して見ていたからです」
その一言でユマは、彼女が動物の目を借りられる類の魔術師であることを知った。コヨーとは、青みがかった黒羽をもつ鳥である。ディオネットがつづける。
「あの状況では危険だと思ったので、カルガーンに迎えにいかせました。対策を講じるまで、旅は中断したほうがよいでしょう。あなたさえ良ければ、神殿に留まっていただき、一緒に対策を考えたいと思いますが」
反応を見るために、視線が向けられる。ユマは匙を置いた。
「ぼくのような者がいると、神殿の評判を落とすことになります」
「〈悪霊憑き〉であろうと、あなたは人間です」
「それだけではありません。ぼくは……」
続きを言うのに、ずいぶん時間がかかった。
「ぼくは魔法を使えません」
がしゃん、と厨房で器の落ちる音がした。ディオネットの表情は変わらなかった。
「あなたは魔法を使えます」
「使えました、以前は」
「どういう意味でしょうか。あなたの瞳からは魔力を感じます」
ユマはおもむろに一つ、呪文をつぶやいた。ディオネットが咄嗟に、杯と水差しを押さえつけた――彼女にとって酒がいかに大切なものなのかがうかがえよう。しかし、来るはずの強風は生じなかった。彼女がゆっくりと手を離した。
「魔力を無意識に抑えてしまっているのでは? つまり、魔法を使うことで、それに反応した悪霊が集まってくることを恐れている」
ユマはかぶりをふった。
「恐ろしいことは確かですが、関係ないと思います。なにも感じられないのです。ここに満ち溢れているはずの霊気、神秘の息吹が」
ディオネットがじっと瞳を見つめてくる。ユマは居住まいを正し、目をそらさないようにするのに苦労した。彼女が口を開いた。
「分かりました。原因を探ってみましょう」
「いいえ、明日にはここを出ます。魔法を使えない者が神殿にいてはいけません」
「なぜ? アンダロス人――南の人びとの間には、魔法を使えない神官がたくさんいますよ」
「ノクフォーンでは違います」
鼓動が速く、頭が重かった。
「ごちそうさまでした」
立ち上がると、椅子の脚が床とこすれ、不快な音をたてた。ミオラが手を止め、こちらを見ている。まごついた拍子に、肘が杯にあたった。それが床に転がり、静寂を裂いて甲高い音が響きわたった。ユマは泣きそうだった。手燭を取り、逃げるようにして食堂を出た。