11話 祭司
冷たい衝撃が走り、ユマは意識を引き戻した。まぶしさに目を細める。
「イスタ……?」
木漏れ日が揺れ落ちている。この鹿はいったい……。そうか、朝が訪れたのだ。
雪に半分、身が埋もれている。きっと投げ出されたのだろう。牡鹿は先ほどまでの乗客には見向きもせず、顎をあげて新鮮な空気を楽しんでいる。沈む雪に苦戦しながら、ユマは身を起こした。と、鹿以外の気配を感じて身構えた。はるか高みから差す光の筋に照らされ、人が立っていた。
背の高い女性である。瞳だけが灰色で、ほかは肌も、髪も、服も真っ白だった。このような髪色の人は、スィミアでは見たことがない。
「カルガーン」
ユマはびくりと肩を揺らした。鹿が女性に寄っていく。それを見てユマは力を抜いた。今のは呪文ではなく、鹿の名前なのだ。女性が角に触れると、突如、それをぐいと引く。
「人を放り投げてはいけません。怪我でもされたらどうするのです」
萎縮したのか、鹿が首を垂れる。
「もうお行きなさい」
鹿がときどき振り返りながら、木立の奥へ消えていく。その地面はよく見ると道になっていた。女性がユマを見た。彼女は雲が流れるように音を立てず、そばにやってきた。
「立てますか?」
差し出された手に対し、ユマは後退りする。「あなたは」つかえながら、言葉をつむいだ。話すという行為がずいぶん久しぶりに思えた。
「あなたは、祭司さまですか」
純白の衣が意味する職位はそうである。女性が頷いた。
「名はディオネットです」
ユマは時間をかけて、よろよろと立ちあがった。
「ユマと申します」
我ながら不審だと思った。名乗るときには、普通、父の名か家名か、住んでいる町の名を言うものだ。祭司の視線が服装にちらりと向くが、何も訊かれなかった。
二人は森の奥へ進んでいった。先導する祭司は銀狐の毛皮をあしらった外套をまとっていて、それが歩くたびに上下に踊った。しばらくすると、彼女の背からハミングが聞こえてきた。それは子守歌のように穏やかで、疲弊しきったユマの心に優しく染み渡った。
「ぼくが神殿へ行くことで、迷惑にならないといいのですが」
ユマが言うと、彼女が歩調をゆるめ、横に並んだ。
「なりません。食べ物は十分にあります」
「いえ、心配しているのは」
ユマは口ごもった。正直に話せば、追い返されるかもしれない。
「あなたにつきまとう影ですか」
祭司の言葉に、ユマは足を止めた。まさか、スィミアの使者がここを訪れたのか。疑問に答えるように、彼女が言った。
「スィミアからの使いは来ていません」
ユマは身を固くした。鼓動が速くなる。
「なぜ、ぼくがスィミアの者だと知っているのです」
「あなたの喋り方も服装も、スィミア人のものです。それと」
振り払う前に、祭司の指が外套をめくった。
「鹿の校章。これはセール学園のものです」
彼女の視線が移り、星を輪状に連ねたブローチに留まる。ユマはぐいと外套の前合わせを引いた。この土地の寒さは知っている。だから学園のものも含めて、着られる上着をすべて着てきたのだった。祭司が身を引く。
「安心してください。この森に悪霊は入れません。それとも、徒歩でどこかへ行こうとでもお考えですか」
ユマは剣の柄から手を離した。悪霊に食われるよりは、希望を持ちたかった。
またハミングが始まった。道なりの木々に手をあてる祭司の仕草が、それらに声をかけているように見える。不思議な女性だった。喋りはじめると、どの祭司よりもその地位にふさわしい威厳があるが、ふとした瞬間に子供のように無邪気に見えた。
やがて木々が開け、苔むした石造りの神殿が姿を現した。敷地には畑があり、雪のない季節には、ここで穀物を育てていることが伺えた。先に着いていたカルガーンの背を、彼女がなでる。
「鹿はわたしたちの大切な友です。カルガーンのほかにもたくさんいますよ。ほら、あそこにも」
祭司の視線の先には仔鹿がいた。その子はまだ人慣れしていないのだろう、ユマと視線が交わるや、茂を超えて逃げていった。
ユマは神官たちの信仰神が分かるような建築上の特徴を探して、神殿を眺めわたした。すぐに、柱頭に彫られた牡鹿の浮彫に目が留まる。やはりイレネだ、と思うが、視線を移すと竜の浮彫が目につく。さらには鷲や、翼をもつ獅子まで見つけた。それらはイレネの霊獣ではなかった。ユマは狼狽して尋ねた。
「こちらの神殿では何の神をまつっているのですか」
「あらゆる神々を」
「あらゆる?」
信じがたかった。スィミアの守護神がイレネであるように、どこの町や村にも特定の守護神がいるものだ。祭司が柱に手を添えた。
「この神殿に暮らす多くの者は、理由があって故郷にとどまれない人びとです。出身地が異なれば祈る神も異なりますから、あらゆる神々をまつることにしているのです。ただし、朝と夕の祈祷は主要な六柱にのみ捧げます」
それから彼女は、思い出したように付け加えた。
「先に言っておきますが、ユマ。ここは女子神殿です。少し居心地が悪いかもしれませんが、我慢してくださいね」
ユマは泥のように眠った。悪い夢は見なかった。代わりに、懐かしい夢を見た気がする。
淡い光が差し込む昼下がり、窓際の椅子に腰かける男がいた。風のない穏やかな日で、窓の向こうの木々が色づいた葉を冠のように誇らしく戴いていた。ユマは開きかけた扉の陰から顔を出し、そっと男を見つめていた。男が本から視線をあげ――ユマは咄嗟に顔を引っ込めた。そして光あふれる廊下を駆け抜けた。
目覚めたユマは、暖炉の火がはぜる音を聞きながら、虚空を見つめていた。木組みの鎧戸は完全に閉じられていたが、開けなくても、いまが夜だということは感覚で分かった。スィミアを出てからずっと、昼夜逆転した生活を送っていたからだ。
祭司か他の神官の誰かが、調整してくれたのだろう、暖炉の薪は足されたばかりで、火が煌々と燃え盛っていた。しばらく神経を研ぎ澄ましてみるが、悪霊が寄ってくる気配はしない。祭司が言ったことは正しかったのだ。
ユマは、心ゆくまで休息をむさぼった身体が喜び、力に満ちていることに気づいた。身を起こして、試しに光を灯す呪文を唱えてみる。だが期待に反して何も起こらず、脱力した。
道中着てきた上着類が、寝台の脇に重ねて畳まれていた。寝る前といったら意識が朦朧としていて、服を脱ぎ捨てるのも一苦労だったから、床に散らばっていたものを拾ってくれたらしい。長靴はひっくり返され、暖炉の前で乾かされている。代わりに、寝台の下に粗末な短靴が並べられていることに気づいた。
ユマはその一足を手に取り、しげしげと眺めてみた。形が小さく華奢で、女物のように見える。だが雪で湿った靴を履くよりはましか。短靴に足をひっかけ、薄手の上着を羽織る。手燭を取り、暖炉から火を移した。
きしむ扉を開けると、ひんやりとした空気が流れ込んだ。等間隔に配置された魔法の光が、石壁をやさしい橙色に染め上げている。歩み出ると、さまざまな方面からあてられる光に、自分の影が幾重にも重なった。それらはあまりにも弱々しく、自分がいつも恐れる存在は見当たらなかった。