10話 森の友
途中で堅いパンを食べ、ロトのために笹を集めた。馬上で眠気に負けそうになり、どうにか持ちこたえた。身体が冷えるたびに、足を速めて温めた。飢えのせいか寒さのせいか、明日にでも死がやってくるかもしれない。それでも、恐怖を遠ざけられるなら、一日でも長く生きながらえたかった。
夕闇がせまっていた。ロトが不安そうに鼻を鳴らす。西の空に無気味な深紅がひろがっている。あれは血の色。ヨダイヤの目から流れた……。やめろ、余計なことを考えるな。そう思いながらユマは、首を横に振った。狼の遠吠えが彼方で聞こえた。ユマは剣を握りしめる。優美な唐草模様の装飾が施された、イスファニールの剣である。ヨダイヤの血がついた自身の剣は、悪霊を引き寄せるため館に置いてきた。
「月の女神よ」
ユマは言ってから、自分の言葉に驚いた。ヨダイヤは月の光を灯すことによって悪霊を払った。それと同じことをしようとしても、自分は魔法を使えないのに。しかも、イレネはフェルーが命を落とす原因となった女神である。
冷たい風が吹き抜け、ユマは心もちロトを急かせる。急いだ先に、安全な場所があるわけではないけれども。木々の影よりさらに濃い影が、あたりを徘徊しはじめる。指先が震える。落ち着け、何も考えてはならない。
「ロト!」
馬が突然、駆けだした。鼻息を荒くして、パニックに陥っている。ユマは鐙に力を込め、手綱を思い切り引く。焦りの感情に反応した悪霊たちが、いっせいに振り向いた。ユマはぞっとし、気づいたときには落馬していた。
本能で立ち上がり、痛みをこらえて駆けだした。枝が頬をかすめ、血が流れる。転びそうになっては、体勢を立て直す。ユマをめがけて、多くの手が伸びてくる。剣を抜くより先に口が動く。ユマは何も起こらないことに驚愕する。いや、そうだ、何をしている。
――魔法! なんといっても魔法だよ。特待生になる人はみんな、それに長けている。
「ちがう……」
ユマは剣を抜き払った。
「もう使えないんだよ、オリファ!」
叫びながら、自分を掴もうとする手をかき斬る。呼吸が苦しい。乾燥した空気に喉が痛み、血の味が広がる。雪に足がとられて、前へ進まない。聞こえるのは笑い声、自分の呼吸、心臓が激しく脈打つ音。つばを飲み込む一瞬、世界が無音になる。ロトは戻って来ない。無理だ、人の脚では追いつかれる。
視界に銀色の影が横切った。
驚いた拍子に、ユマは尻餅をついた。悪霊が嫌悪とも威嚇とも区別のつかない声をあげる。ユマはへたりこんで茫然とした。
ユマと悪霊との間に、白銀の毛並みを輝かせる牡鹿が立ちはだかっていた。立派な角が、星を戴く枝のように広がっている。月が雲から顔を出したのか、雪肌が淡く輝きだす。徐々に、木の影と悪霊の区別がつかなくなっていく。声が遠のき、完全に消えた。
黒々とした瞳と視線が交わる。鹿はスィミアの旗印であると同時に、月の女神の霊獣でもある。
「イレネ」
ユマはつぶやいた。
「まだ、あなたはぼくを見放さないのですか」
しんしんと降り注ぐ光は、何も応えてはくれない。鹿の鼻がユマの頭に触れる。懐かしい匂いがして、ユマは首に手を伸ばした。温かかった。
鹿の仔をイスファニールが贈ってくれたのは、ユマが五歳のころだったか。当時、森へ出かけるたびに、兎だの狐だの、動物を追いかけまわしては傷をつくるユマを見て、いっそのこと動物を飼わせようと考えたのだ。
「森のお友達よ」
イスファニールが、抱きかかえた仔鹿を見せた。
「仲良くなりたいのでしょう?」
ユマはうなずき、母の腰に抱きついた。仔鹿の瞳は、明かりを映してきらきらしていた。だからユマは、その子をイスタと名付けた。〈星〉を意味する名前だった。
外で飼わなきゃだめよ、と説かれたが、ユマは館のうんざりするほど長い廊下を、鹿にまたがり駆けまわった。イスタの首には音色のいい鐘がついていて、それが鳴らす陽気な音が大好きだった。音色が聞こえるや、自室からすっとんでくるイスファニールも、内心おもしろかったのだろう、気分が乗るとユマを「かわいい騎士さま」と呼んでいた。
イスタはしかし、ユマが八歳になるころに死んでしまった。侍女に呼ばれて駆けつけたときには、館の番犬に噛まれて、弱り果てていた。すすり泣くユマに対し、クリヴェラはほくそ笑んでいた。それを見たユマは、彼女が番犬をけしかけたことを理解した。
都会育ちのクリヴェラは、獣が室内を駆けまわることを嫌がっていた。なにより妬ましい妾の子が、我が物顔で館を徘徊することを許せなかった。というのもヨダイヤが妾を自分より愛していると知っていた彼女は保身のために、可能な限りイスファニールとユマが存在しないものと見なすことにしていた。だからなるべく二人を視界に入れたくなかったし、イスタの耳障りな鐘の音も聞くに堪えなかったのだ。
思えばユマは、その頃からクリヴェラ一家と和解を試みることをやめた。かつてはみな、この世に暮らす人はみな、話し合えば分かり合え、仲良くなれる人たちだと思っていた。だがユマとクリヴェラとでは、何かがちがった。もやもやしていたその何かが、成長するにつれ分かるようになった。それはその人の信条とか、正義とか、価値観とか、これだけは譲れないと思っている大切な部分のことだった。そしてユマはやるせなさとともに、試みを永久に放棄した。それはユマがはじめて、この世に絶望した瞬間だった。
そっと銀の背にのぼると、重みを確認するように、鹿が横顔を向けた。鼻づらを前に戻し、しっかりとした足取りで進みはじめた。
このまま鹿に任せておけば、人里にたどり着くだろう。そうユマは考えた。首に鐘はついていないが、人に近づくということは、家畜である証拠である。うまくいけば、食料を分けてもらえるかもしれない。だがその際には、冬場に放浪している理由を説明しなければなるまい。まさか、これまでの経緯を正直に話すわけにはいかないし……。疲労が襲ってきて、ユマは月光を反射する雪原を眺めながら、うとうとしだした。
母は毎朝イスタの墓に赴き、おとぎ草を供えた。フェリルがフェルーの花だったように、おとぎ草はイスファニールの花だった。彼女は眠れない夜によく、おとぎ草の香を炊いた。ユマがまだ小さく、一緒に眠っていたときのことだ。母は壁の一点を見つめて思案にふけっている。ユマを寝かしつけるために歌っていた声がとぎれ、それから変わった歌を……。