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夏の王冠  作者: sousou
2章
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9話 西へ

「ねえ、人はどうして魔法を使えるのかな」


 顔面の半分が陽光に照らされ、ユマはまぶしさに目を細めた。アーチを描いた色ガラスの窓から光が差し込み、ゆっくりと舞う埃が霧のようにあたりを霞ませていた。友人の手中で弄ばれている何かが真鍮の輝きを放つ。それは天体観測用の象限儀だった。


 講堂の座席のひとつにオリファが、通路をはさんだ隣に自分が腰を下ろしていた。ユマは、窓の向こうに小妖精がいるのを見た。すぐに隠れてしまったが、それが通った軌跡に、光の粒が漂っている。


「ユマ、聞いている?」


「え?」


「人はどうして魔法を使えるのか、って訊いたんだけど」


 オリファが自らの巻き毛を指でいじっている。あたりにほかの学生の姿はない。窓を見ると、妖精がまた顔をだしていた。


「どうしてって、イシュテリテが天界から火を持ち帰ったからだよ」


 この場合の「火」は魔力の暗喩である。それから人は魔法を使えるようになったと、神話では伝えられている。


「それって創世神話で歌われていること、そのままじゃないか」


 オリファがもたれかかると、年季のはいった椅子がきしんだ。


「そうじゃないんだよ、おれはもっと深い洞察をしようとしているんだ。どうしてこの世には、魔法を使える人と、そうでない人がいるのか」


 学者である父の血が騒ぐのか、オリファが熱をこめて机を打った。硬い机のはずなのに、まるで雲を叩いたように何も聞えなかった。友人と同様に、窓の向こうの妖精が頬をふくらまし、不機嫌そうにしている。


「さあ。ぼくが知っているのは、イシュテリテが火を持ち帰り、ヤムターンとヨダイヤと共に、荒れ地を豊かな土地に変えていったという話だ」


 オリファが再び反論するが、その声は遠ざかっていった。


 ヨダイヤ。創世神話に登場する賢者の名である。だがユマはその名によって、どうしても別の人物を思い浮かべてしまう。


「ヨダイヤ」


 白い光のなかで、声が聞こえた。あたりの光景は変わり、ユマは木漏れ日の下にいた。澄みわたった湖のほとりに美しい娘がいた。透き通るような白い肌に、神秘をたたえた空色の瞳。ユマは一歩踏み出した。しかし、夢見る乙女の眼中にはただ一人しか映っていないようだった。


「ヨダイヤ」


 愛くるしい唇から、再び名がつむがれた。青年が微笑み、優しく娘を引き寄せる。ユマがもう一歩踏み出したとき、足元の地面が沈んだ。伸ばした手は空を切り、そのまま彼は、底しれぬ闇なかに落ちてゆく。


「どうして?」


 先ほどと同じ娘の声がした。闇のなかに、ぼんやりと人影が浮かび上がる。


「どうしてヨダイヤを殺したの?」


 胃を掴まれるような感覚、ついで吐き気がこみあげた。ユマは耳をふさぎ、目を閉じた。だが声はやまず、視界が暗くなることもない。


「あのね」


 今度は、可愛らしい声が聞こえた。


「お父さまはね、夏を呼び戻してくれたの。でも、ユマは何もしてくれなかった」


 呼吸が荒くなる。ちがう、できなかったんだ。叫びたいのに、声がでなかった。イスファニールとフェルーが、交互に言う。


「あなたの力は人を殺めるためにあったの?」


「どうしてフェルーのお願いを聞いてくれなかったの?」


「役立たず」


「人殺し」


「あなたはわたしとフェルーを守りたかったんじゃない」


「お父さまを殺したかった」


「自分ができなかったことを軽々とやってのけた父親が恨めしかった」


「お母さまを独り占めしたかった」


「彼を殺さないと自分は何も手に入らないと分かっていた」


「自尊心のために手を下した」


 暗い影があたりをさまよいだし、ユマを取り囲んで嘲笑った。おまえは最も罪深いことをした。実父の命を奪うとは。その記憶からは永遠に解放されることはない。父親の亡霊がおまえを苦しめるだろう。


 ユマはよろめきながら駆けだした。恐ろしい声から、影から遠ざかるために。共鳴した大勢の声が叫ぶ。イスファニールの声も、フェルーの声も重なって聞こえた。


「父親殺し!」


「父親殺し!」


 息があがり、足がもつれた。ちがう、と心のなかで唱えるが、そうだ、とささやく自分もいる。そうだ、おまえは己のために父親を殺した。





「ちがう!」


 はっと見開かれた目からは涙があふれていた。


 黒々としたモミの木が天に枝を広げている。


 ユマは息を吐き、つかの間の休息が訪れたことを理解した。夢を見ていたのだ。家を出てから毎日、眠れば必ずと言っていいほど見る悪夢を。


 立ち上がり、かがり火の跡を雪で埋めた。木に繋がれた馬が、怯えた様子でこちらを見ている。詫びを込めて馬に触れるも、彼は硬直するばかりだった。


 幼いころから慣れ親しんできた馬は、ここ数年で年老い、遠出が難しくなっていた。そのため連れ出したのは、ロトという名で、若く、一年前に乗りはじめたばかりの馬だった。彼は明らかに、暗い影をまとうユマを恐れていた。


 イスファニールは死んだ。フェルーも死んだ。ヨダイヤは己が殺した。支えたい、守りたいと思う相手は死に、憎むべき相手はすでに存在しなかった。ユマがそれまで生きてきたのは、ひとえに家族に対する愛と憎しみのためだった。何をよすがとすべきなのか分からず、故郷をあとにした。


 生きる意味がないのなら、死んでしまえばいい。何度もそう思ったが、そうした心の弱みにすかさず滑りこんでくる闇があった。ユマはその恐怖に耐えられなかった。一度糧を見つけた悪霊は、獲物を逃そうとはしなかった。だからユマはがむしゃらに逃げ惑った。しかし物理的な距離ができても、奴らはいつでも心に付け込もうとした。


 ユマは魔法を使えなくなった。己を取り巻く霊気はもはや神性を帯びていなかった。かつては感じ取れた流動――木立にも、花畑にも、暖炉にも、本の頁の合間にも存在した神秘的な力が消え失せた。すべては死んだ。何も聞こえなかった。妖精の陽気な笑い声も、母なる大地の鼓動も。


 震えながら、ユマは寝ても覚めても泣いていた。やがて涙を流すような気力もなくなった。それから気づいた。悪霊は、ユマが無感情でいればいるほど、その存在を見失うようだった。そしてユマは、努めて何も考えなくなった。少なくとも、意識できるとき、すなわち目が覚めているときには。


 ずきずきと頭が痛んだ。夢のなかで悪霊に取り巻かれるのが怖くて、ほとんど眠れていないからだ。ユマはロトの手綱を取り、力なくまたがる。横腹を蹴ると、馬がのろのろと歩きはじめた。


 いまやユマは、悪霊だけではなくスィミアからの追手も恐れていた。町を出たときには思い至らなかったが、魔術師の眼球をえぐる行為は、殺人よりも罪が重い。供養のために放った炎が、不本意だが功を奏していればいいと思う。眼球が存在しないことに気づかれないほど十分に、人体が燃えていればいい。もしその罪によってとらえられたなら、処刑されるのは、この世のありとあらゆる苦しみを味あわされた後である。例えばそれには、悪霊をけしかけられることも含まれるだろう。


 一瞬、オリファの顔が頭をよぎる。スィミアを出る前、彼に会おうか迷った。彼の家は中心地から外れていたし、一言二言、別れの挨拶をするくらいなら、一族の者に見つかる危険も低かった。だが、悪霊を引きつれた友人など誰が歓迎するだろう。ユマの犯した罪を知ってなお、誰が言葉を交わしたいと思うだろう。ユマは首を横に振った。考えても仕方のないことだ。もう、彼に会うことは二度とないのだから。


 そろそろ、人里に寄らなければならない。館の食堂からくすねてきた食料は尽きかけていた。ロトにも充分な栄養を与えられていない。だが冬はどこも、夏に貯蔵した食料を次の夏まで持つよう計算しながら食べている。小さな集落ほど、よそ者に食料を与える余裕はないだろう。かといって、スィミアを起点に西の方角にある都市、ヘテオロミアにはまだ着きそうもない。焦る気持ちと反し、周囲はますます荒涼として、岩山がむき出しになるばかりだった。


 ユマがヘテオロミアを目指す理由は、その郊外にイスファニールの故郷があるからだった。母の故郷は、ヘテオロミアを起点に北の方角にある。そこにはタイニールという名の、イスファニールの双子の姉が暮らしているはずだった。ユマがそれを知っているのは、母が彼女宛てに、ときどき手紙を書いていたからだ。


 イスファニールはヨダイヤの妻となったあとも、侍女たち、つまりかつての同僚たちと刺繍などの裁縫をすることがあった。完成した縫い物は行李に詰めて――こっそりと未使用の装身具なども入れていた――故郷へ送っていた。


 タイニール叔母さんがどのような人なのか、会ったことのないユマには分からない。しかしイスファニールは、彼女を素晴らしい魔術師であると言っていた。もしかすると、彼女の知識や力が、自分の苦境を救ってくれるかもしれなかった。


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