プロローグ1
「ねー、どうしたの?そっちは"聖域"でしょ?」
よく通る美しい声が辺りに響く。バキバキと枯れ落ちた樹木を踏みしめ、一人と一匹は樹々が根を張り巡らせ、歩き辛く険しい樹海の中を歩いている。
『……危険かもしれん。我に黙って付いてこい』
先頭を歩く獣は厳しい表情で警戒しながら、"もう少し進めば、開けた場所に出る"という事だけを、後ろからついてくる女へと伝え、ズンズン先に行ってしまう。
「もうっ!説明不足なんだからー!」
プンスカと薔薇色の頬を膨らませて、可愛らしく拗ねてみたが獣は先に行ってしまい、女はすっかり置いて行かれた。
女は腰まで伸びた、豊かで艶やかな見事な金色の髪をしており、その瞳は紫色の輝き。そして特徴的な長い耳を持っている。彼女のスラリとした体躯に似合わず、背中には猟銃らしき物を背負っている。
「ちょっとー!少し位、まってよー!」
女は拗ねている場合じゃないと、慌てて獣の跡を追って行った。
♦︎♦︎♦︎
ここは、天空世界キャスバレル。
人間が住む幾つもの世界線から外れたそこは、野生動物は元より、魔獣妖精が息づく魔力渦巻く世界である。
天高く落ちてくる水源の見えぬ滝には、幾重もの虹が架かっており幻想的な情景を見せる。空を統べる者達が住う、ここより更に上の天空界から湧き出す、聖なる泉がこの滝の水源だと聞く。
広大な大地には野生動物達の自然の営みがあり、食物連鎖が織りなされており、動物達の強かでしなやかな命の躍動を感じる事が出来る。
切り立った崖から覗く月は三つ。日が出ていようがお構いなしに常に三つの月が見えており、月が全て満ちる日が、この世界で最も魔力が高まる時でもあると言う。
果ての見えない広大な森の、ある一画。何重もの樹々が所狭しと絡まり合いながら、一本の巨大な樹木を支えるかの様に根を張り巡らせている。その巨木は雲を貫く様に生命力に溢れ、上へ上へと伸びているのが、遠目からでも確認でき、あの太さの幹であれば一体樹齢は何年なのかなど皆目検討がつかない。
"世界樹"と呼ばれるこの木は、全方位に力強く枝を伸ばし、葉を青々と茂らせていた。
『その朝露は病を治し、その枝は雨風を寄せ付けず強き魔法に耐え、その葉は死者を蘇らせる』
伝説を信じる者達から世界樹を守る天上人が住うキャスバレル内の王国エル=エリュシオンに、人間が来る事は許されない。
ここで生きることが許されるのは、長き魂の巡り合わせにより、高き徳を積んだ者のみとされる。
「……て、トビコが昔、私に言ってたよね?それ、嘘じゃないよね?」
つい先程無事に先頭に追いついた一人のエルフの女性と、一匹の獣の前に、黒い服を纏った少年が、うつ伏せで倒れている。普段狩りをしている為、死んでいるかどうかは見ればすぐわかる。
トビコと呼ばれ問いかけられた獣は、エルフの女性からの言葉が大層不満だったのか、顔を歪ませ、軽く威嚇するように唸った。
見た目こそ黒柴犬そのものだが、体格の大きさは三倍はあるだろう。
『我は要らん事は喋らんが、嘘はつかないぞ。ミアに嘘をついた所で、得にもならん』
獣からミアと呼ばれたエルフの女性は、人間でいうと年の頃は二十歳前後にしか見えない。実年齢は150歳をとうに過ぎている。長命種であるが故なのだが、問題はそこではない。
「ええ?だって、どう見てもこれ学ランだよ?襟ピンに『中』って書いてあるし……この子絶対、日本の中学生だって」
彼女は前世の記憶を持ったまま、この世界に転生してきたエルフだった。
◆◆◆
ミアの前世は社会人として会社勤めをしている、至って普通の女性だった。三十歳も目前に迫り、彼氏もその時はおらず、日々に忙殺される毎日を過ごしていた。ミアの唯一の趣味といえば、旅行雑誌を読んで世界各国の名所や日本全国を巡る旅に想いを馳せる位のものだった。
その日は連休中にも関わらず、事業所の所在している地元の地域貢献として職員が駆り出され、春の一斉河川ゴミ掃除を会社命令で、半ば強制的にボランティアとして参加させられていた。
ボランティアとは言うが、会社からきちんと時間外労働として賃金は発生する為、特段そこに不満はない。
若い者とベテランの二人一組となってそれぞれの持ち場へと向かう。
神が住うと言い伝えがある広い河の上流付近を、ミアはパートのおばちゃんと二人で黙々と掃除をしていた。
これが終わったら現地解散という、なんともいい加減な催しだったが、サボるという感情は微塵も湧かず、ひたすら黙々とおばちゃんとゴミを集めていった。
若い者は会社から貸しだされた膝まである長靴を履いて、河の中に入っているゴミも取る役目を担う。ザブザブと河の中に落ちている空き缶やビニール袋を拾い集めていると、おばちゃんは自分の役割の場所を終えてこちらへ向き、大声でミアを呼んだ。
「アタシもうそろそろ帰るけど、アンタはどうする?アンタも帰るなら、そっち手伝うかい?」
普段からミアと親しく接してくれる、気っ風のいいおばちゃんは、労働のいい汗をかいており、笑顔が眩しい。
「あ、いえ!大丈夫です。トシさんまで濡れたら大変なんで……私は、もうちょっと綺麗にしてから帰りますね」
「そうかい?じゃあ、お疲れさんね〜。とりあえず、これ持っていくわ。明日、うちで卓と料理作って待ってるからね!」
トシさんはミアも麻雀が出来ると最近知り、明日近所の人を呼んで麻雀大会をするので来ないか、とミアを誘ってくれていた。
父親から無理やり覚えさせられた事がここで活きるとは、人生はわからないものである。
トシさんは料理上手で、一人暮らしのミアとしては、手料理を振る舞って頂けるのは、かなりありがたい。
「はーい、楽しみにしてます。お疲れ様です!」
トシさんは集めたゴミを持って行ってくれて、汗を拭き拭き、のしのしと帰って行った。
(さて、もう少し綺麗にして行こう)
ミアが気合を入れ直し、また川の中へと足を進める。ミアが掃除している川のすぐ上には橋がかかっており、人はあまり通らないものの、車通りは割とある所だった。ミアが一人で掃除をし始めると、上から何か小さい物が落ちて来る。それは車の窓から投げ捨てられた空き缶だった。
(もーっ!せっかく集めたのに……)
先程集めていた場所よりも、少し河口寄りに空き缶が落ちたので、拾いにゆく。長靴ギリギリの所まで水の深さはあるが、行けない事もなさそうだ。
そのままざぶざぶと足を進め、空き缶まであと少しという所で、一歩踏み出した足があると思っていた底につかず、思わず体勢が崩れた。
いきなりの出来事に驚いていると、水の深さが胸まで達する。
(えっ?!あっ、やば!!!)
そう思い、慌てて河岸側へ戻ろうとするも足元は藻のせいなのか滑ってしまい、上手く立てない。
河口付近になると川の流れは非常に速い。泳ぎがさして得意ではなかったミアは、水を吸った服の重みと膝まである長靴の中にまで水が溜まってしまい、身動きが取れなくなりどうする事も出来なかった。鼻にも口にも水が容赦なく入り込み、体ごと濁流に飲み込まれてゆく。
そしてミアの記憶は、そこで途切れた。