ガソリンの揺れ方
燈 和
今日という日は、普通でちょっと特別な、そういう日だと数時間前までは思っていました。
普通なところは、お買い物に行くというところ。ちょっと特別なのは、私にとってかけがえのない人、鉄志君が傍にいるというところ。
私にとってはいつもがちょっとだけ特別。そんな普通の日常が、今日も過ぎていくのだと思っていました。
見知らぬ男たちと戦い、拉致され、変な男に触れられて襲われかけたと思えば鉄志君が助けに来て、その鉄志君も奇妙に体の一部を変え、高速道路で未知の怪物から逃げ、今に至ります。
目の前の怪物は息を荒げながら私たちを見下ろしています。大きさは、3メートルくらい?低い位置から見上げているせいかとても大きく感じられる。見た目は馬だけど、足が8本もある。こんな生き物、この世に存在するはずがありません。
これは、夢…なのでしょうか?夢だとすれば悪夢には違いはありません。
いや、考え直してみれば、夢であるはずがありませんよね。だって私を強く抱きしめてくれている鉄志君の温もりを、私が夢だと錯覚するはずがありません。
鉄志君は私を抱えたまま、半身を起こしました。バイク用のマスクはどこかへと飛んでしまったようで、今はゴーグルだけを身に着けています。そう言えば、私が被っていたヘルメットもどこかへ飛んで行ってしまったようですね。鉄志君のだと、少しサイズが大きいですから。
鉄志君の口元に目を移すと、少量の血が流れているのが目に入りました。やっぱり、いまのでどこか怪我をしたんですね。私をかばったばっかりに。はやく病院に行かないと。
と、鉄志君が左腕を目の前の怪物に向けました。その腕の形は人間のものではありませんでした。先端に近づくにつれ形状はやや細くなっており、その先端には穴が空いていて、その形は銃を連想させました。一体鉄志君は、何になってしまったんでしょうか。
「て、鉄志…んむっ!!??」
私を抱えていた鉄志君の右手が口を塞ぎました。今は何も言うなということでしょうか。ならばそれに従いましょう。私が今ここで何か余計なことをしても何かできるわけではないですし、もしかしたら事態は悪化するかもしれないですしね。
それにしても、鉄志君の掌が私の唇に…。あぁ、今死んでもそんなには悔いはないかも…。
と、その時、目の前の怪物が右足を上げ、鉄志君を踏みにかかりました。あの大きさと重さで踏まれてしまえばいくら鉄志君といえどもひとたまりもありません。こうなったら、私が身代わりに…。
ごりっ…
そう思った瞬間、鈍い音が走ると同時に私の頭に何かが付きつけられていました。眼だけでその方向を追うと、鉄志君の肘とその周りが視界に入りました。
えっ?えっ?鉄志…君?一体何して…?その突きつけているものは、鉄志君の左腕ですよね?なんですか?さっきこの化け物を撃ったみたいにして私を殺そうというのですか?そりゃあ、他の誰かに殺されるくらいなら鉄志君に殺されたいですけれど、それに確かに先ほど、今だったら死んでもそんなに悔いはないかもと思いはしましたが…まだ早くないですか?
と、視線を化け物の方に戻すと、上げた脚はそのまま留まっていました。
な、なるほど。この化け物は相当頭が良いようで、鉄志君を殺してしまえば私が殺されてしまう可能性があるということが分かっているのですか。
いやぁ恥ずかしい。一瞬でも鉄志君が私を殺そうだなんて思ってしまった自分が。一生の不覚ですね。この場を切り抜けたら謝り倒さないと…。
でも、よく考えてみたら今までの状況からこの化け物も鉄志君が私を殺すようなことはしないと思うんじゃないですかねぇ?
その答えを言うかのように、化け物の脚は一気に鉄志君の頭部を目掛け降りてきました。
「くっ…!!!」
鉄志君は私を抱えたまま、低姿勢で横に跳び攻撃を回避しました。
ドゴォッ…!!!
轟音が鳴り、化け物が踏み下ろしたところには小さなクレーターができていました。あの重さで踏み潰されれば、脳みそが飛び散ってしまいますね…。
「ごふっ…」
咳き込むと同時に小さな血しぶきが鉄志君の口から出されました。
「鉄志君!!!大丈夫ですか!!!???」
「あ?あぁ、大丈夫だ。ちょっと修復するのを忘れてただけだよ。すぐ治る。」
『ちょっと』!?『修復』!?何でもありですか…。まぁ今は突っ込むのは止めておいて、後でゆっくり尋問するとしましょう。私にこの鉄志君の体の秘密を離してくれなかったという事実も含めて全てをね。
「フゥゥゥ…!!!フゥゥゥ…!!!」
息を荒げた化け物は再びこちらに目を向けました。
「さてと、次の手を使いますかねぇ…」
余裕ありげに鉄志君がそう言うと、彼の左手の先端から5本の亀裂が入り、そこから花が咲くようにそれぞれが広がったかと思うと、一瞬のうちに元の左手に戻りました。
取り敢えず、鉄志君は無事なこと、そしてまだ勝算があることに安心を覚えました。
と、その時でした。
「オォ…オォォォ…グゥ…ゥゥゥ…」
化け物の全身がぶるぶる震え始めたかと思うと足元はふらふらとおぼつかなくなり、呼吸はより一層荒れ始め、目をぐるぐると回し始めました。
「ゲゥ…グゥ…ゲゥ…」
何かを吐き出そうとするかのように声を立てたかと思うと、やがて立っていられなくなったのか轟音を立てて倒れてしまいました。
「やっと全身に毒が回ったか…。やっぱり体がデカければその分効きづらさがあるな。」
「ど、毒って…」
「燈和がいつも俺にお説教してるタバコだよ。タバコ。」
「えっ…タバコ…って…え?」
「あー…、後で高校生の燈和にも分かるようにちゃ~んと説明してやるから」
「なんか小馬鹿にした言い方ですねぇ…私の方がお姉さんなのに…」
「…ははっ。そこまで言い返せるんならまだまだ余裕はありそうだな。取り敢えず、さっさとここを去ろう。後続車が来ないうちにな」
そういえば忘れてましたけれども、ここ高速道路でしたね。よく今まで車が通らなかったものですよ。ほんと。
倒れているバイクの方へ行くと、鉄志君はそれを起こし、エンジンをかけました。
キュルルルル…ブォォォォォォォ…!!!!!!!ドッ…ドッ…ドッ…ドッ…ドッ…
「よしっ!!!生きてる!!!燈和!!!乗れ!!!」
鉄志君に言われるがままに彼の後ろへ跨ると、目の前に血だらけの背中が目に入りました。
「!!!鉄志君!!!背中!!!」
「ん?」
鉄志君が自分の背中を掌で一撫でし、それを見つめました。
「あぁ。燈和を抱えたまま地面に弾かれた時か。痛感覚麻痺させてたから気付かなかったな。」
随分と余裕そうな声が聞こえてきました。普通の人間であればパニックになってもおかしくはない出血量だと思うのですが…。ていうか痛感覚を麻痺って…。
いや、そう言えば鉄志君は普通の人間ではなかったですね。まぁそんなこと、私にとっては蚤程の問題にもなりませんけれども。
今日のことを知る前から、私にとって彼は特別な存在です。その特別な存在がちょっと他の人間と違うからなんだというのでしょう。私の鉄志君に対する想いの前ではそんなこと風に乗るタンポポの種程にもなりません。
「ひっでえなぁ…ハンドルが曲がってやがる。ま、走れねぇことはねぇけど。取り敢えず燈和、一旦次の出口で降りるぞ。」
そう言うと鉄志君はバイクを発進させました。
エェェェェェェェェェエエエエエ…エェェェェェェェェェエエエエエ…
そして後方から、まだ何も解決していないとでも言うかのように、何かのうめき声のようなものが微かに聞こえたような気がしました。