終章3
「燈和ちゃん!燈和ちゃん!!大丈夫かい!?ねぇっ!?」
「う、うぅ~ん…」
目が覚め、顔を上げると、そこには心配そうな顔をしたおばちゃんの顔がありました。
周りを見てみると、喫茶店の中には他のお客さんもいて、皆こちらを不安げな顔で見ています。
窓の外を見てみると、そこには雲一つない快晴が広がっていて、少しだけ日の落ちた初夏の日差しが差し込んでいました。
「よかったぁ。びっくりしたよぉ。急に眠っちゃってさぁ。呼んでも全然起きないんだから、救急車呼ぼうかと思っちゃったよ。」
おばちゃんは安心したのか、少しだけ目に涙を浮かべながら私に笑いかけてくれました。
(元の世界に帰って来れたんだ…そうだ!)
「鉄志君!?」
前を見てみると、突っ伏している鉄志君の姿が目に入りました。
「鉄志君!?鉄志君!!!」
「んん?んん~~~…」
鉄志君は声を上げながら、ゆっくりと頭を上げました。
「なんだ?眠っちまったのか…」
鉄志君は眠たそうに目をこすり、軽く伸びをしました。見た感じ、いつも通りのように思えますが…。
「鉄志君…あの…私のこと、分かりますか?」
「あん?何言ってんだよ、燈和。寝ぼけてんのか?」
良かった。本当に良かった!そこにはいつもと変わらない、私の大好きな鉄志君の顔がありました。
「…何泣いてんだよ。怖い夢でも見ちまったか?」
「い、いえ、違うんです。これはその、安心の涙と言いますか…」
と、ここまできて、私はようやく違和感に気付きました。
「あれ、鉄志君。さっきまでのこと…」
「さっきまで?あぁ、別に俺のためだけに頭痛薬なんか常備しなくたっていいよ。んなもん俺自身の『力』で何とでもなるからな」
やっぱり鉄志君、さっきまでの、あの空間でのことを何一つ覚えていない。ということは、やっぱり夢?だったのでしょうか。い、いえ…でも。
私はスマートフォンを取り出し、時刻を確認しました。そこには15:10と表示されています。
…考えるのはやめましょう。とにかく、いつもと変わらない鉄志君が目の前にいる。ただそれだけで、今の私には十分すぎるのです。
その後私たちはお会計を済ませると、お店を出て鉄志君のバイクにまたがりました。
「すっかり遅くなっちまったな。飛ばすか」
「ちょ、ちょっと!安全運転でお願いしますよ。ていうか私ももう18歳ですし、免許取って、今度からは私が車を運転してきた方が…」
「だったら俺はいらんだろ。車に荷物積めばいいんだし」
「何言ってるんですか?鉄志君がいないと意味ないじゃないですか。」
「真顔でんなこと言われてもなぁ…」
…荷物?あ、そうだ!
「鉄志君、ちょっと待っててください!」
背負っているバッグを降ろし、中を確認しました。見てみると、そこには私が家から持ってきた注連縄が入っていました。
(やっぱり…夢だったのかしら)
「大丈夫か?今更家に忘れ物は洒落にならないぞ?」
「い、いえ!大丈夫です!よろしくお願いします!」
巽谷さんの家に着き、バイクを止め、私たちは大きな門の前に立ちました。本来ここに来るのは1年ぶりのはずですが、その見た目は、やはり先ほど来た、あの『竜宮屋敷』と同じです。あのご先祖様が使っていた字が書かれた表札のようなものはありませんが。
インターフォンを押し、少し待つと。
『あ、燈和ちゃん?遅かったねぇ!あら、隣の男の子はお父さんの言っていた鉄志君?かっこいいじゃない!門の鍵は開いてるから入って!』
聞き覚えのある、巽谷さんの声がそこから返ってきました。
門を開け、石造りの道を渡ってるとちらっとお庭が見えました。しかしそこには、あの鶏はいません。色の変わる花もありません。いくつかのプランターが置いており、そこにラベンダーが植えてあるのが見えるだけでした。ここから池は見えませんが、きっとあるのは普通に飼っている魚が泳いでるだけの、特段変わったところもない、普遍的なものなのでしょう。
お家に上がり、居間に入ると、そこには見覚えのある囲炉裏が置いてあります。煙は出ていません。そのことに私は、少しだけ安心感を覚えました。
挨拶を済ませ、私が巽谷さんとやり取りをしている間、隣に座る鉄志君は家の中を観察しているようでした。その顔を見てみると、特に物珍しそうな様子はなく単純に初めてきた家の中が少し落ち着かないといったように感じました。囲炉裏や奥の部屋にも特に大きな興味を示しているようには思えません。
「ん?終わったのか?んじゃあ行きますか。お茶、ごちそうさまでした。」
「いいえ~、このくらい。そういえば燈和ちゃんのお父さんから聞いたけど、村井君は一人暮らしなんだってねぇ。その歳で立派ねぇ」
「あ、お聞きしていたのですか。いえ、まぁ実際には叔父の家を間借りしているようなものでして…」
注連縄の交換をし、巽谷さんと私のお話が終わると、今度は鉄志君が巽谷さんとお話を始めてしまいました。この状態だと、あともう少しだけ帰れそうにはありませんねぇ。巽谷さんはお話大好きですから。
と、その時ふと、私はあることが気になってしましました。
「巽谷さん」
「あ、燈和ちゃん、ごめんねぇ。別に仲間外れにしようとしたわけじゃなくてねぇ。」
「いえいえ、そうではなくて。脚立とかあったりします?」
「あるけど、それがどうしたの?」
「ちょっとお借りしたくて」
「何に使うんだよ?」
「この上をちょっと見たくて…」
私が天井を指さすと、鉄志君と巽谷さんの顔は訝しげな表情に変わりました。
「屋根裏を?なんでまた…」
「なんでもです!あ、それか鉄志君が私を肩車するとか…」
「だめよ、燈和ちゃん!年頃の女の子がそんなこと言っちゃあ!はしたない!脚立は台所の冷蔵庫の横にあるからそれを使いなさい」
「ははっ、燈和が怒られているとこ、初めて見たかもな。」
「もう!!鉄志君!!」
「悪ぃ悪ぃ!!とってきてやるよ」
私は鉄志君が持ってきた脚立を受け取って立てると、天井の板をのけ、屋根裏に顔を出しました。
そこには、あの空間につながる階段などはありません。そこにあるのは、埃っぽいにおいのする、ありふれているであろう屋根裏の光景でした。
「燈和、なんかあったか?」
「いえ、何もありませんでした…。」
「じゃあなんで見たんだよ。さっきから燈和、少し様子がおかしいぞ?」
「え、えぇ…。私もなんでこんなことをしたのでしょうか…。少し疲れているのかも…」
実際のことをここで言ったところで、信じてはもらえないでしょうし、そもそもあの出来事が本当のことだったかなんてことも分かりません。それに、巽谷さんが今も暮らしているこの家のことをとやかく言うのは、やはり好ましくはないですよね。
その帰り道。薄暗くなってきた山道を私と鉄志君はバイクで走っていました。本当でしたらこんなまともな明かりもない危ない道は通りたくはないのですが、早く帰れるようにと鉄志君がこちらの道を選んだのでした。まぁ、鉄志君の運転であれば危険なことは無いとは思いますが。しかし…。
「あぁっ!?」
ギキィーーーーーーッッッ!!!!!
「きゃあっ!!!」
突如、鉄志君が急ブレーキをかけ、バイクは急停車しました。
「ど、どうしたんですか!?鉄志君!!危ないじゃないですか!!」
「あれだ!!あれ!!!」
珍しく、とても驚いた様子の鉄志君がヘッドライトに照らされている何かを指さして叫びました。
指さす方を見てみると、そこには小さな一匹の犬がいました。…いえ、あれは犬ではありません。まさか!!!!
「ニホンオオカミじゃねぇか!!!なんだ!?生き残りがいたのか!?」
鉄志君が急いでバイクから降り、近づこうとすると、その子は足早に道路横の森の奥へと消えていきました。
「あぁ!!くそぉ!!見失っちまった!」
しばらくして、悔しそうな声を上げながら鉄志君が戻ってきました。
「え、えぇ~っと…残念でしたね?」
「なんで疑問形なんだよ。なんか俺とは違う感じで動揺してないか?」
鉄志君、鋭い。だってあの子、あの屋敷にいたものですよ。間違いなく。見間違えるはずがありません。ですが。
「えーっと、その、動物、詳しくないもので…」
「ニホンオオカミは100年以上前の絶滅動物だ!それが生き残ってたなんて、大発見だぞ」
「そ、そうなんですねぇ~」
「…あまり驚かないんだな。まぁいい。今度ゆっくりと、この辺りを調べるとするか。」
そう言うと鉄志君は再びバイクに跨り、発進させ、私の家へと向かいました。
あのことをお話ししてしまっても、混乱してしまうだけですよね。これでいいんですよ。
お家に戻った後、丁重にお断りしようとする鉄志君をなんとか引き留め、皆で夕食を囲いました。食後、少し雑談をした後、お母さんとお父さんは私たちに気を使ってくれたのか、二人きりにしてくれました。
普段であれば、いくらでも話は尽きないのですが、今日に限ってはあまりお話しする気にはなれません。やはり、
あの空間でのことが頭にちらついて仕方がありません。あのニホンオオカミがここにいたってことは、やっぱりあそこで起こったことは現実?それにあの時刻…。
「燈和、どうしたんだ?」
「え?」
「昼間の喫茶店を出てから明らかに様子がおかしい。まだ頭が痛いのか?」
「い、いえ、そうではなくてですね…えっと…」
どうしましょう。鉄志君は私のことを心配してくれてるのに、私は彼に隠し事をしようとしてる。
「燈和」
言うべきか言うまいか悩んでいると、鉄志君が再び、優しく私を呼びました。
「言いたくなかったら言わなくていい。だけどな、俺はどんなことだろうと、燈和の言うことを笑ったりなんてしない。その全てを信じる。」
そうですよね。鉄志君は、普段は私のことをからかってきますけど、ちゃんと向き合ってくれてるんですよね。私はなんてバカだったんでしょう。鉄志君は、私の本当の姿を見ても、その全てを受け入れてくれたではありませんか。そんな鉄志君に、隠し事なんて、私にはできません。
それから私は、喫茶店での頭痛の後、何が起こったかを事細かにお話ししました。鉄志君は途中で話を折ることも、質問をすることもなく、静かにその全てを聞いてくれました。
そして全てを話し終えると、少し鉄志君は考え込みました。鉄志君はきっと、私の話から色々なことを推測していることなのでしょう。
なぜきっかけがグラスが割れることなのか。あの場にいた私たちだけがあの空間へ飛ばされた意味。あの屋敷の存在。なぜ巽谷さんの家とあの屋敷が同じ造りで、置いてあるものも同じなのか。そして、時間のループと逆行。私ですら戻ってからもずっと疑問に思っていたことです。でも、私たちにはそれを確認する術はありません。だって、全てのことが確かではないのですから。
少しの間沈黙が流れ、やがて鉄志君は静かに言いました。
「燈和、ありがとう」
「そんな、私はただありのままをお話ししただけですよ」
「そうじゃない。記憶を無くしていく俺を導いて、無事に元のこの世界に連れ戻してくれたこと。おかげで俺は、今こうして燈和のことを忘れずにいられている。そのまま出られなかったのなら、俺は記憶を無くすどころか、存在すらも消えていたのかもしれない」
「い、いえ…。鉄志君がお礼を言うことではないんですよ…。私だって、鉄志君の中から私が消えてしまうなんて、考えられませんし…」
でも私は、今も不安なんですよ。
あの空間から脱出できたのは、本当は私とあのオオカミだけではないのかと。頭痛の前、時間を確認した時、確かに時間は15:13でした。でも、戻った時に見た時間は15:10。たった三分の差ではありますが、ずれがあります。
私だけが、少し前の時間に飛ばされ、もしかしたら今、目の前にいる鉄志君は、時間軸が別の鉄志君ではないのでしょうか。そして本来の時間軸の鉄志君は、今もあの空間に取り残されているのではないのでしょうか。もしそうだとしたら、今私のいる時間軸にいた本来の私は、どこに行ってしまったのでしょうか。
突拍子もない考えなのは自覚しています。でも、考えないようにすればするほど、後ろ向きの考えが後から後へと湧いて出てきて、不安に押しつぶされそうです。
私の不安そうな様子を察してか、先に鉄志君が口を開きました。
「燈和、確実に言えることがある」
「なんですか?」
「俺の今の記憶の中に、燈和は確かにいる。幼いころに出会ってから今までの、全ての燈和が。今の燈和も、確かに俺の前にいる。そして、燈和の目の前にいる人間も、どこのいつの誰でもない、間違いなく燈和の知っている村井鉄志だ。俺の目の前にいる少女も、間違いなく俺の知っている鬼灯燈和。これだけは絶対だ。」
そう言うと彼は優しく笑ってくれました。
私の心中を全て察していても、敢えて全てを口には出さず、優しい言葉をかけてくれる。いつも、どこでも、私を救ってくれるその温かい存在をしっかりと確かめるために、私は彼の手に自分の手をそっと乗せました。
何度も握ったその手。ごつごつとしている力強さと優しさに溢れるその手。乗せている手からはじんわりとぬくもりが伝わってきます。そのぬくもりは、私を潰そうとする不安から守ってくれます。
彼の言った通り、確かに鉄志君はここにいます。私も確かに、ここにいます。