序章3
全てのものが確かであるということは確実ではない
―ブレーズ・パスカル―
ある日曜日の午前。私は幼馴染である鬼灯燈和の家の道場で彼女と組手を行っていた。
いつもなら私の従妹である双子の姉妹、廻と転も一緒に稽古を行っているのだが、この日彼女らは友人と遊びに行くとのことでここには姿を現してはいない。が、それを咎めるつもりはない。彼女たちの年齢では自身の戦闘力を高めるよりも友人付き合いの方がよっぽど重要であるからな。むしろそういうところはもう少し燈和も見習ってもらいたいものだ。燈和との付き合いは長いが、彼女からはあまり友人の話は聞いたことがない。もっとも、私が言えたことではないのだが。
お互いそんな感じである理由は、やはり二人で過ごす時間が長いからであろう。燈和と出会ってからは一人で鍛錬する時間より圧倒的に彼女と共に武術の稽古をする時間が多くなったわけだ。
書物を読んで知識を得ると同じように、燈和とともに稽古を行っていくことで、私の中にある『力』を使わずとも私は着実にこの人間の体での戦うことができてきている。
だが、残念ながら私と燈和との間には縮まってきているとはいえ、まだまだ大きな差があるようだ。そんな燈和は稽古においては私に気を使い、何度かは必ず自分がわざと負けるようにしているのだ。情けない話である。
しかしまぁこれは仕方がない。燈和は幼少の頃より父親より武道を学んでいるが、私がここで稽古をつけてもらい始めたのはたかだか5年ほど前からである。いかに前世で何百年生きていようと、人間としてはまだ17年しか生きていない。こんな小さな体を、『力』を用いることなく、あくまで人間の範囲内で闘うのはやはり経験がものをいう。
いや、そもそもだ。前世において私は燈和の先祖に討ち取られている。何百年もの間培ってきた術の知識を持ってしても私は勝つことができなかった。今の時点でも余力を残して私に勝つことのできる燈和が、自身に秘められた『力』を発揮し、手加減なしの本気で挑んできた時、果たして私はどこまで戦うことができるのだろうか。ま、そんな時は来てほしくはないのだがな。
そんないつもと変わりない稽古の休憩中、燈和の親父さんが唐突に道場に顔を出した。
「燈和ぁ~、少しいいか?」
「何です?お父さん。鉄志君との時間に水を差さないでくださいな。」
燈和、親に対してその言い方は何だ。思春期とはいえもう少し優しい言い方をしたらどうなのだろう。いや、それともこれが普通なのだろうか。親のいない私には分からない。
待てよ?今の言い方から察するに、稽古に親父さんが中々顔出さないのはもしかして燈和のせいなのではないか?となれば今後も親父さんから直々に技を教えてもらえる機会は限られてきてしまう。この状況、何とかしなければならんな。やはり、燈和の師匠である親父さんから教えてもらった方が今より多くを学ぶことができるだろう。当然、燈和よりも熟練された術を持っているわけだからな。
「今日この後、巽谷さんのとこに行って注連縄の交換をしてきてくれないか?」
「えぇ~、何で私が行かないといけないんですかぁ。お父さん行ってきてくださいよぉ。」
普段私の身の周りのことを何でもしようとする燈和からはあまり想像できないような会話だが、ま、これは私とあの双子姉妹の会話のようなものか。血の繋がりがある分、そう言った距離はやはり私より近いのだろうしな。
「本当はそうしたかったんだが、急用が出来てしまってなぁ。夕方まで戻れそうにないんだ。申し訳ないが頼んだぞ。こっちの注連縄は玄関のところに置いておくから。んじゃあ、鉄志君はゆっくりしていってな。」
「あっ!?ちょっとぉ!!」
一方的に言うと燈和の親父さんは足早に道場を出てしまった。まぁあの急ぎ方は面倒くさいことを燈和に押し付けたというよりは本当に急に出て行かなくてはならない用事が出来てしまったみたいだ。日曜日だというのに大変だ。学生の身分の私が言うのもだが、心中お察しする。
燈和は少し不貞腐れたような表情を出したと思うと、一瞬のうちにそれを引っ込め、こちらに顔を向けると満面の笑みを作った。
…ま、こうなるとは思ったよ。
「というわけで鉄志君、一緒に来てくださいね?」
「どういうわけなんだよ…。燈和はまず会話を成立させることから始めよう」
「あら失礼。私と鉄志君の仲であればそんなことは必要ないと思ったもので♪」
親しき中にも礼儀ありと言うだろう。ま、燈和の中では私との関係は親しいとか最早そんなレベルのものではないのだろうが。
「ま、別にいいんだけどよ。んで?その巽谷さんてのはなんなんだ?」
「私の遠い親戚の方ですね。年に1、2回会うくらいですが」
「ほ~ん、で?なんで注連縄なんか取りに行くんだ?」
「7月に南神社でお祭りがあるでしょう?その時に使う神具の一つと言った感じですかね」
南神社とは燈和が巫女のバイトをしている神社のことである。毎年7月の半ば、夏休みの開始直後に小規模ではあるが祭りを開催している。聞いた話ではあるが、そこも燈和の親戚のものらしいが…。
「なんでこことかその神社で保管してないんだ?」
「ここでは別の注連縄を保管してるんですよ。で、お祭りの前になると巽谷さんの注連縄を受け取って、代わりにこちらの注連縄をお渡しするんです」
「なんでそんな面倒なことを…」
「さあ?なんか昔からの仕来りみたいですよ。興味は無いので深い理由は聞いていませんけども」
自分の家のことであるうえ、お前もバイトとはいえ巫女として神事に参加をするのだからもう少し興味を持ったらどうなんだ。いや、でも私も『村井鉄志』の祖先のことについてなんて興味を持ったことなどないから人のことは言えんか。しかし…。
「ま、でもなんとなくそれをやる意味は分かったかな。」
「どういう意味なんでしょう?」
「注連縄は神様をお迎えするっていう役割と悪いものを封印するっている役割があるんだよ。その巽谷さんの家にあるのが神様をお迎えする用で、燈和の家にあるのが悪いものを封印する用なんじゃないか?」
「それだと普段私の家に何か悪いものがいるみたいじゃないですか。」
「悪いものも何も、この家には鬼が…」
「鉄志君?」
燈和からほんの少し、鬼のオーラが漂った気がした。燈和としては、自分の正体が鬼のようなものだというのがどうも納得いっていないらしい。私としてはそこまで気にはしていないのだが。前世では、燈和の正体よりももっと奇怪なものも何度も見て、戦っているわけで。
「悪ぃ悪ぃ。で?その巽谷さんの家はどこにあるんだ?」
「養老の方ですね。」
「アクセス悪そうだな…。電車とバスを使って2時間以上はかかるじゃねぇか」
「えぇその通りです。車が無いと非常に行きにくいんですよ。だから鉄志君にお願いしてるんです」
燈和の言葉と笑みからはお願いと言うよりも強制のような圧を感じる。ていうか親父さん、私に対して『ごゆっくり』と言いはしたが、始めからこれを狙ってたな。燈和はまだ車の免許は持っていないし。全く、この親子は…。
「…郵送で良くね?」
「神具を郵送するって何か罰当たりじゃないですか。だから毎年こうして取りに行ってるんですよ。それに、この注連縄を交換するというのがそもそも行事の始まりのようなものですし」
この世界のこの国にはよくわからない風習や慣習が多すぎる。こんな身近にすらあるのだから探そうと思えばもっとよくわからない風習なんかまだまだ出てきそうだな。
「で、一緒に来てくれますよね?」
満面の笑みで再び聞いてきた。そして気のせいか、先ほどよりも圧が増している気がする。疑問形ではあるが聞きたい答えは一つだけのようだな。
ま、無いとは思うが、ここで燈和に一人で行かせて以前の村のようなことになってもな。こいつは強いくせにやや抜けているところがある。それは優しさからくるものではあるのだろうが、そこが燈和の良い部分でもあり、悪い部分でもある。
そして結局、私が出す答えも一つだけなのだ。
「分かったよ。もう少し休憩したら行くか。」
「はい♪」