静かなる戦い
世界は広い。
どんなに旅をしてきたとしても、フランツが知っている土地は世界の中で見てみれば、ほんのごく一部でしかない。
そう、それは船を使ってもたったの十日で辿り着くごくごく小さな世界。
そしてフランツの世界のほとんども船の上のごくごく小さな世界。
フランツの視線の先にあるものは小さな世界か、それとも。
「やっと着いたな。」
甲板に出て船首に立つフランツに、ゲルトが声を掛けた。
「ええ。」
フランツは極力、感情の無い返事を心掛けた。
本当は、この島に戻ってくることをとても嬉しく感じていたし、何故かは分からないが、故郷以上に懐かしく感じる自分がいた。
恐らくゲルトにはそれを感付かれているだろう。
それはフランツにも分かっていた。
しかし、それでもフランツは自分を偽ることに余念が無かった。
これはもはや自分個人の問題ではなくなっていたからだ。
「さて。これから大仕事になるな。」
フランツの横に立つゲルトの視線が遥か前方を見詰めていた。
前回この島に来た時と同じ入り江に船を付けると、まずはフランツが先陣をきって下船した。
それを見計らったように、同じタイミングで入り江に降りてくる人陰が見えた。
ヨハンとルイーダだった。
フランツは二人に向けて軽く手を挙げた。
三人は砂浜で落ち合うと、視線を交わしたのみで互いに頷きあった。
フランツは甲板のゲルトに向かって手を振った。
それを確認してからゲルトは砂浜に降りてくると、三人の前に立ち止まった。
まるで獅子のごとき猛々しいその顔は、フランツから聞いてはいたものの、実際に目の前にすると恐怖を感じる威圧感だった。
「はじめまして。フランツが世話になった。
オレがこの一団の長を務めるゲルトだ。
以後よしなに。」
「俺はヨハン。」
「私はルイーダ。」
「君達のことはフランツからよく聞いている。今回は俺達に仕事を任せてくれたことを感謝する。」
「こちらこそ、ご尽力に感謝します。」
ルイーダが言った。
「早速だが、荷物の受け渡しを始めよう。
しかし、その前に決めておきたいことがある。フランツから既に伝わっていると思うが、」
その言葉にフランツは息を飲んだ。
ルイーダと目があった。
(落ち着きなさい。想定内でしょう。)
彼女の目がそう語っていた。
「我々も人の生活を抱えている身だ。慈善活動で命を賭けるわけにもいかないのでな。端的に言えば、君達から預かった物資の中から報酬を頂きたい。」
単刀直入。
一切の交渉には応じるつもりはないと言う、断固たる姿勢そのものの物言いだった。
「どのくらい?」
ルイーダの問いに、ゲルトはフランツに一瞥をくれた。
「君達の預けてくれた砂糖の壺で換算して、三つ分。無論、砂糖の状態で、だ。」
ルイーダは口をつぐんだ。
フランツもまた口を閉じたままだった。
ゲルトからしてみれば、ルイーダは驚きのあまりの閉口。
フランツは彼女達に対しての罪悪感。
そんなところだろうと高を括るに十分な反応だった。
このまま押しきれば、この女子供の持つ全ては自分のものだ。
ゲルトは内心で、勝利を確信していた。
「分かった。その条件を飲もう。」
口を開いたのはヨハンだった。
張りのある、力に満ち溢れた声。
ゲルトは少々の驚きを感じていた。
「それは話が早いな。ありがたい。」
ゲルトはヨハンの目を見据えた。
その目は、真っ直ぐにゲルトの目を見据えていた。
「ただし、今回限りだ。」
少年。
いや少年と言うには幼すぎるほどだ。
しかし、その男児と言うべき少年は凛として言い放った。
「今回限り?」
ゲルトは少しばかり声に威圧感を加えた。
彼にとっては少しの圧力だが、ヨハンほどの年頃の子供なら三日三晩の間、悪夢にうなされてもおかしくない程の凄味があった。
「そうだ。次回以降は取り引きの仕方を変えてもらう。」
しかし、そんなことには構う様子もなく、ヨハンは自らの話を進めていくのだ。
ゲルトが眉間にシワを寄せた。
フランツはその変化を見逃さなかった。
「仕方とは?」
「俺達の食料調達の代行をしてもらうのは今回で最後だ。
今後は代行ではなく、あなた方と俺達は取引き相手になる。」
「ほう。」
ゲルトが目を細めた。
「俺達はあなた方から食料を砂糖で買う。適正な価値でね。その後、その砂糖をどう使うかはあなた方の自由だ。」
「なるほどな。つまり、もう俺達に報酬は払いたくないうことか。」
「そう捉えたければそれで構わない。あなた方に適正な価値の砂糖は支払う。俺達から見ればただそれだけだ。」
所詮は子供の浅知恵だ。
適正な価値だと?
この辺境の島の小さな村のどこにそれを見極める能力があると言うのだ。
こちらの言い値でいくらでも価値を決められるではないか。
偉そうな態度だけで、中身はまるで入っていない。
良い鴨だ。
ゲルトは内心でほくそ笑んだ。
「ただしもうひとつ条件がある。」
「なんだ?」
「取り引きの窓口はフランツが行うこと。間違いなく等価交換を行う為にね。」
(ふん。それで考えたつもりか。)
ゲルトはフランツに一瞥をくれた。
弟の心変わりは分かっていた。
恐らくフランツはこの村に立ち寄った時から、ここにいるルイーダに魅入られているのだろう。
ゲルトにはこの弟を今一度、服従させる自信があった。
しかしリスクを伴うのもまた事実。
自信のみでリスクを背負うのは商人として賢くはない。
何よりも、この女子供と対等の立場で取り引きを行うなどと言うこと自体が、この男の気に障るのだ。
「等価交換の条件は飲めんな。こちらに何の得もない。我々は今回と同じく君達の代行で報酬を得ることを要求する。報酬量も譲歩しない。今回同様に預かった砂糖の六割だ。交渉の余地はないぞ。」
「どうあっても?」
「どうあってもだ。」
ヨハンの問いに、ゲルトは冷たく言い放った。
子供は一拍だけ間を置くと、再び口を開いた。
「分かった。では、こちらにも考えがある。
あなた方がこの島に物資を持ち込む際、持ち込み料を納めてもらう。」
「なんだと?」
ゲルトの片方の眉がピクリと跳ね上がった。
「持ち込む物資の四割に相当する価値の砂糖を納めてもらう。持ち込み料を納めずして、島への上陸は認めない。それがもうひとつの条件だ。」
「バカを言うな。」
この一言でゲルトの気が一気に昂るのが手に取るように分かった。
声を荒げることこそしなかったが、逆にその語気は深淵の底へと深く深く落ちていった。
彼の心の底から、怒りの感情が涌き上がり始めた。
「何故そんなものを払うのだ?大体考えてもみろ。君達は俺達が物資を運んでこなければ、何も得ることが出来ないではないか。どんなに高価な砂糖を大層な量所持していようと、俺達がいなければ意味を成さぬのだぞ。
言ってみれば、君達にとって我々は何よりも必要な存在のはずだ。その我々が何故持ち込み料など支払う必要がある?」
「必要な存在じゃないからだ。」
ヨハンが言った。
「はっはっは!
俺達の船が無ければ、砂糖などただの甘いだけの砂ではないか!
話しにならんな!」
流石のゲルトも、このヨハンの一言には苛立ちを隠せなかった。
この子供は何を勘違いしているのだ。
自分達とこのチンケな村の関係は、こちらが船を所持している時点で既に決まっている。
こいつらはゲルト達の為、
砂糖を生産する為だけに存在する、下等な下僕。
言うなればゲルトの奴隷でしかないのだ。
その奴隷が、よりにもよって自分と対等に物を言っていやがる。
その思い上がった言動こそが、ゲルトを苛立たせた要因だった。
「船ならあるさ。」
ヨハンが言った。
今までの中で最も凛とした、そして最も毅然とした態度で。
その言葉は、その身体は、もはやゲルトと同じくらいに大きく見えた。
「船がある、だと?」
「ああ。俺達は自分達の船を持っている。あなた方の力はもはや必要ない。」
「笑わせてくれる。一体どこに船などあると言うのだ?」
ゲルトの言葉に、ヨハンは入り江の砂浜の端を指差した。
その方向に、ゲルトはゆっくりと視線を向けた。
そこには小さな船が一艘、波に揺られて佇んでいた。
「あれが船だと?」
ゲルトが鼻で笑ったのが分かった。
古ぼけた、まるで屋根の着いたカヌーのようなみすぼらしい船だった。
人が数人は乗れるだろうがその程度でしかない小さな物で、とてもゲルトの帆船と比べられるような代物ではなかった。
確かに一目見ただけでは取るに足らない玩具のような船だろう。
しかしこの船は、遥か昔、ルイーダをこの島まで運んできた英雄だった。
安定性と耐久性の実現の為に片側のみに張り出させた浮きによって、遠洋航海すら乗り越えたこの船は、長い年月を海岸から伸びる地下洞窟の奥で眠っていた。
そして今再び、主を遠い土地へと運ぶ為に蘇ったのだ。
「あんなものが何の役に立つと言うのだ?」
その問いに、フランツが口を開いた。
「確かに荷物を運んだりは出来ないかもしれない。
海さえ渡れれば問題はないでしょう。大陸に辿り着けさえすれば、僕が借りた倉庫にはまだたくさんの物資が残してある。
それを元手にギルドで大型船を借りて戻ってくれば、次はよりたくさんの砂糖を運べる。
自分達で砂糖の取り引きを行うことが出来れば、新しい船を造ろうと、大量の物資を運ぼうと思いのままですよ。」
「フランツよ。夢を見るな。
ギルドは組織に加盟している者か、登録書に名前の載った人間でなければトレードは出来んのを忘れたのか?
それともなんだ。ギルドとは別の相手とでも細々と取り引きをするつもりか?」
「兄さん、登録書ならあるよ。
砂糖の登録書がね。」
「そうか。確かにお前の名も載っていたな。
フランツ。お前、本気で裏切るつもりか?」
「兄さん。
残念だけど、登録書には僕以外の名前も載っているんだよ。
例え僕がヨハン達に味方しなくても、砂糖の登録書にヨハンとルイーダの名前が載っている以上は、二人がいればギルドでの取り引きが出来るんだ。」
「何を言っている?登録書にはお前と俺、そして親父の名が書いてあっただろう。」
ゲルトは懐から細い筒を取り出すと、蓋を開け中の紙を取り出した。
それは砂糖の登録書だった。
そしてそこには、フランツ、ゲルト、ヨッギの名が確かに記されていた。
「それが本物ならね。」
ゲルトは目を見開いた。
よく見ると、登録書の端、本来であれば細かな紋様が描かれるはずの場所に紋様が描かれていない。
あまりにも細かく、パッと見ただけでは気付かない程度の差でしかないが、それでもそれは明らかに紋様が足りていなかったのだ。
「これは、いつの間に!?」
「いつの間に、って最初に渡した時からさ。父さんも兄さんも、登録に付いてこなかったのが運の尽きだったね。」
「バカな!?初めから偽物などどうやったら用意出来ると言うのだ!」
「それは兄さんが教えてくれたじゃないか。
賄賂を渡したら、偽物の用紙と本物の用紙の両方で登録書を作ってくれたよ。
さぁ、ヨハン。これが本物だ。」
フランツは同じく懐から細い筒を取り出すと、ヨハンの手にしっかりと握らせた。
今度はヨハンが蓋を開けると、中の登録書を取り出した。
フランツ
ヨハン
ルイーダ
そこには三人の名前がしっかりと記されていた。
もちろん紋様も描かれている。
これが紛れもない本物の、砂糖の登録書だった。
「どうする?ゲルトさん。
俺達の言う条件でこれからも代行を続けるか、それともその船の積み荷と報酬の砂糖を持って今すぐ帰るか。
二つに一つだ。」
ヨハンの言葉が更に大きさを増した。
それはそれは大きく、まるでゲルトを飲み込まんとする巨大な獅子のような言葉だった。
きっとゲルトの目にも、ヨハンの小さな身体は巨大な百獣の王の姿に見えたに違いない。
「やめろ!」
ゲルトが腕を挙げ、まるで何かを制するかのような仕草を見せた。
それは、彼の背後、甲板からヨハン達を狙う弓矢の射主への合図だった。
この時、無数の乗組員が船の上からヨハン達を撃ち抜こうと弓矢を引き絞っていた。
しかしその船を、入り江を囲む崖の上から更に多くの村の住人達が、弓矢を引き絞り狙っているのをゲルトは見逃さなかった。
今射てば、ヨハンもフランツもルイーダも、三人全員をこの場で殺せるだろう。
しかし同時にゲルトとその仲間達も全員が撃ち殺されるだろう。
この場で相討ちになることは得策ではない。
ゲルトの判断だった。
「時間をくれないか。」
ゲルトが呟くように言った。
「今決めてくれ。」
ヨハンが言った。
「分かった。飲もう。」
ゲルトの人生で初めての敗北だった。
南の空から、一羽の鳩が飛んできた。
鳩は一度空をぐるりと回ると、ゆっくりと下降線を辿り、窓辺に降り立った。
ヨッギは鳩に近付くと、その足に括り付けられた筒を取り外してやった。
鳩は二、三度羽ばたくと、再び空へと舞い上がっていった。
筒から手紙を取り出し、ヨッギはそれに目を落とした。
「やはり敗けたか。」
その顔には笑みが浮かんでいた。
つづく。




