奥の手
ある朝、ダニーが目を覚ました時、そこはルイーダの小屋だった。
ベッドの上ではルイーダが静かな寝息を立てていた。
外はまだ薄暗い。
夜が明ける直前の、最も世界が清らかになる時間。
ダニーは毛布から抜け出すと、ルイーダを起こさぬように静かに歩き、そっと扉を開けた。
東の空から太陽が昇り始めた。
目覚めの時だ。
背伸びをしながら、北の空に視線を移した。
空の彼方から、何かが飛んでくるのが見えた。
理由は分からない。
しかし、ダニーはそれを待っていた。
「よく頑張ったね。」
ダニーがそっと腕を上げると、彼女の鳩は迷いなくその腕に舞い降りた。
優しく頭を撫で、その労をねぎらうと、足に括りつけられた筒を取り外してやった。
それ待っていたかのように鳩は少し羽ばたくと、ダニーの肩に居場所を移した。
筒の中身を取り出すと、そこには見慣れた字が並んでいた。
フランツからの手紙だった。
ダニーはその手紙を一読すると、手早く筒に戻してからルイーダの待つ小屋へと引き返した。
「おはよう。」
小屋に戻ると、ベッドに横たわったままのルイーダがダニーに朝の挨拶をした。
「おはよう!ルイーダ!」
「今朝も元気いっぱいだねぇ。
その子は?」
まったく姿勢を変えないままだったが、視線がダニーの肩を示していた。
「私のお友達!」
「そっか。宜しくね。」
「ねぇ、ルイーダ。」
ダニーはベッドの脇に膝をつくと、ルイーダの枕元に肘を付いた。
「なぁに?」
「これ!」
先程の小さな筒をルイーダの顔の前に差し出すと、彼女は横着にも毛布から手だけを取り出してそれを受け取った。
「フランツから?」
「うん!」
「そう。分かった。」
ルイーダはそう言ったのみで筒をダニーに渡して寄越すと、毛布をゆっくりと剥ぎ取った。
「読まないの?」
「後で読む。さぁ、ご飯にしよう。
今日はとっても疲れるからねぇ。
もりもり食べて、元気にいこう。」
「どうして?せっかくフランツが書いてくれたのに。」
ダニーの言葉を余所にルイーダは寝巻きを脱ぎ捨てると、いつもの綺麗な、それでいて風変わりな衣服に着替え始めた。
「ねぇ、ダニー。
今日はお弁当もいっぱい作らないといけないんだよぉ。
まずは準備と腹ごしらえ。それ大事よ。」
ルイーダの言葉に、ダニーは何も言えなかった。
彼女の言い回しはかなり独特だ。
例えばこの言葉を訳すると、
(今読んでしまうと居ても立ってもいられなくなってしまう。まず落ち着いて必要な準備をこなして、全てが整ったら手紙を読んで気持ちを高めよう。)
となる。
恐らくヨハンなら意味が分かったかもしれない。
あるいは意味が分からないならば素直に聞き返せたのだろう。
しかし残念なことに今ここにヨハンはいない。
ヨハンは村での活動に専念するため、そして家族との和解によって、彼の生家へと戻っていた。
ここにはダニーとルイーダの二人しかいなかった。
「・・・・・分かった。」
ダニーは筒をテーブルの上に大切そうに置くと、同様に彼女の小さな友人も窓辺に移してやり、それから寝巻きを脱ぎ始めた。
着替えが終わり、自分の寝巻きを綺麗に畳んだあと、ベッドに脱ぎ捨てられたままのルイーダの寝巻きも綺麗に畳むと、枕元に丁寧に置いた。
ちょうどその頃にはルイーダが女性としての朝の身だしなみを整え終わったので、ダニーも湧き水を引いた石のたらいの前に立った。
ルイーダの使った後のたらいは綺麗に拭かれており、一度水を抜いたようで、今まさに水を充たしている最中だった。
ダニーが歯木を使って歯磨きをし、洗顔を済ませた時、ふとルイーダの紅が入った貝殻が目に留まった。
「つけてみるぅ?」
ルイーダがダニーの顔を覗き込んだ。
こくり。
無言で頷くと、ルイーダはにっこりと微笑んで貝殻を手に取り、ダニーの唇に優しく紅を伸ばしてくれた。
「綺麗になったかなぁ?」
ルイーダが小さな手鏡をダニーに手渡した。
薄く淡い紅色がダニーの愛らしい顔を華やかに彩っていた。
ダニーは自分の頬が紅潮するのを感じていた。
(綺麗。)
それは紅を引いた自分への紅潮ではなく、その言葉への紅潮なのだと感じていた。
(綺麗。)
その言葉が嬉しくてたまらなかった。
「さぁ、畑に行こう。いつもよりたっくさん採ってこないとねぇ。」
「うん!」
元気よく返事をすると、ルイーダの手から空の籠をもぎ取った。
「ふふ。ありがと。」
ルイーダに連れられて、ダニーは朝日の昇りきった森へと歩き出した。
この二人の女性は根本的な部分の性質でとても似通っていた。
歯車は互いの凹凸が噛み合うからこそ互いを動かし合うのであり、凸と凸がぶつかり合えばそれは噛み合うはずがない。
しかし、凸の隣には必ず凹があるものだ。
少しだけでいい。
この微妙な位置を修正することが出来れば、歯車はぴったりと噛み合うだろう。
それは自分達で行うことなのか、それとも誰かにしてもらうことなのか。
それは彼女達次第だ。
ダニーとルイーダは、大きな鞄にいっぱいの弁当を携えると、ヨハンを迎えに村へと赴いた。
ヨハンの家の戸を叩くと、彼はちょうど朝食を摂っている最中だった。
ヨハンを待つ間、彼の小さな弟と妹がダニーに絡み付いてくるので、二人は外に出て子供達と遊ぶことにした。
ダニーにとって、自分よりも年下の子供達との交流は今までほとんど経験の無いことで、とても楽しく感じていた。
ほんの少しの時間ではあったが、彼女が幸せというものについて考えるには十分な時間となった。
ヨハンが外へと出てくると、四人の楽しい時間はそこで終わりとなった。
ヨハンの弟と妹がもっと遊びたいと駄々をこねるので、ダニーは二人とまた遊ぶ約束をした。
もちろんそれで納得はしてくれないのだが、ダニー自身も二人とまた遊びたかったから、指切りをして、二人を家の中へと促した。
ヨハンを加えた三人は家の脇の木陰に移動すると、フランツから受け取った手紙に改めて目を通した。
「そっか。」
ヨハンが小さく呟いた。
「ルイーダの言っていたこと、本当なんだね。」
ルイーダは無言でヨハンの頭を撫でた。
「ヨハンは間違ってない。だけど、時にはこういうことも起こりうるんだよ。」
「うん。」
ヨハンとルイーダ。
二人にしか分からない会話を聞きながら、ダニーは腹の奥がざわつくのを感じていた。
それが何かは分からない。
だけど、ざわざわして仕方がない。
出来ればもう聞きたくなかった。
「ねぇねぇ!」
正直に言ってしまうと、特に何か言いたいこともなかったのだが、そんな自分でも抑えられない感情に押しきられて、とりあえず声を上げてみたのだ。
「どーしたの?」
その声にルイーダはダニーの方へと向き直った。
「それで、今日は何をするの?!」
「そうだなぁ。今日はね、なんて言うか、昔の忘れ物を取りに行くって言うか、そうだなぁ。」
ルイーダは顎に人差し指をあてがい、視線を宙に泳がせながら、まるで遠い空を見るかのような表情でそう言った。
「忘れ物?」
すかさずヨハンが質問をした。
「そうそう。忘れ物ねー。」
ルイーダはニヤニヤしながらヨハンに視線を移した。
(余計なこと聞かないで!)
ヨハンの質問に、ダニーはまたも腹の奥がざわつくのを感じた。
「じゃあさ!じゃあさ!早く出掛けようよ!」
勢いよく立ち上がると、ヨハンの腕を強く引っ張った。
「いたっ!」
ヨハンが声を上げた。
「あっ!」
ダニーは驚いた。
まさかそんなに力が入っているとは自分でも気が付かなかった。
決してヨハンが大袈裟に痛がったわけではない。
自分の掌の感覚が、全力で力を込めていたことを示していた。
「痛くない、痛くない。」
ルイーダはヨハンの腕をさすりながら、再びダニーの方へと視線を戻した。
「ちょっと勢い余っちゃっただけだもんねぇ?悪気はないもんねぇ?」
その表情は慈愛に満ち溢れていると言うべきだろうか。
ダニーのしたことを咎めることもなく、逆にヨハンをなだめるようなその態度に、
「・・・・・。」
ダニーはとてつもなく感情がざわつくのが分かった。
もはや何をどうしたら良いのかも分からない。
やり場のない、全く理解出来ないざわめきがダニーを支配していた。
何を言うべきかも分からなくなり、少女はそのまま口をつぐんだ。
そんなダニーの様子に何かを察したのか、ヨハンはルイーダの手の中から腕を引っ込めると、ダニーに向かって言った。
「別に大丈夫だよ。ちょっと痛かっただけだし。」
しかし、ダニーはやはり何も返せないままだった。
「よっし。それでこそ男の子ぉー。
そいじゃー出発しますかぁ。」
間髪入れずに今度はルイーダが口を開いた。
「そうだね。行こう!」
立ち上がったヨハンはダニーの手を握ると、優しく引きながら歩き始めた。
ダニーも俯いたままではあったが、それに従って一緒に歩き始めた。
ダニーは今、自分が嫌いになりそうだった。
以前、この島の地理については少し触れたかと思うが、この島には住民はヨハンの村の人々とルイーダ以外には存在していない。
ヨハンの村の人々は、村の周辺のごくわずかな範囲を生活拠点としており、島全体に関してはあまり知ろうとはしていなかった。
逆にルイーダは持ち前の好奇心とこの島で長く暮らしている経験から、島のあらゆる場所について熟知していた。
なので当然、誰にも知られていない秘密の場所というものをいくつも所持していた。
この日向かったところも、そんな秘密の場所の一つだった。
島の南側に広がる森を川沿いに歩いていくと、川が森の奥へと曲がる。
その辺りで川を渡り、そのまま海岸に平行するように東側へ森を進んでいくと、その場所に辿り着いた。
うっそうと繁る樹海のなか、折り重なるようにひときわ密集して樹木が生える場所があり、その樹木の根本にそれはあった。
「うわ。これが洞窟なの?」
ヨハンが中を覗き込みながら言った。
「そう。なんか前よりも木が生えたような気がするけど。」
「前っていつ?」
「ん。覚えてませぇん。」
「それ、すごい前ってことでしょ!?」
木々の隙間から辛うじて穴が見えるほどの、とても小さい洞窟。
人が一人、腹這いで通れるかどうかといったレベルの入り口は、ルイーダが知っていなければ誰もそれを見付けられないであろう程度の大きさだった。
「とりあえず入ってみよっかぁ。」
ルイーダが樹木の隙間に頭を突っ込んだ。
肩が引っ掛かった。
一度戻ると、腕を伸ばして入ってみた。
今度は肩は通り抜けられたが、残念なことにルイーダの少し広めの骨盤が引っ掛かってしまい、通り抜けられなかった。
「でも頑張れば行けそうだね。俺が先に入るよ。」
二人でルイーダを一旦外に引っ張り出すと、ヨハンが足から中に滑り込んだ。
ヨハンの小さな身体ならば、すんなりと通り抜けることが可能だった。
入り口とはうって変わって、中はヨハンが立ち上がっても余りある程の空間が広がっていた。
再度、ルイーダが腕から身体を捩じ込むも、またもや骨盤が引っ掛かった。
「じゃあ引っ張るからね!」
洞窟の中からヨハンの声が聞こえた。
それに合わせてダニーも力を入れた。
「重っ!」
そんなヨハンの声が聞こえたきた。
「重くないっ!引っ掛かってるからだし!」
ルイーダの声も聞こえてきた。
ダニーは無心でルイーダを押した。
ルイーダの腕をヨハンが引っ張り、お尻をダニーが押し込む格好で、なんとか洞窟に入り込むことが出来た。
その後、ダニーが鞄を洞窟内に押し込み、彼女自身も滑り込んだ。
それから三人は松明に火を灯すと、真っ暗な洞窟を歩いて行った。
足の疲れ具合からして相当な距離を歩いただろう。
流石に歩くことに飽きてきた頃だった。
段々と空気の匂いが変わってきたことに気が付いた。
湿気とカビと苔と動物の糞の臭いが混ざりあっ
た不快な臭いに、次第に生臭い臭いが更に加わった。
と同時に洞窟内の空気もより冷たいものに変わっていった。
「なんだろう?この臭い。」
先頭を歩くヨハンが後ろを振り返った。
「これ、潮の匂いだよ!」
ダニーにとって最も馴染みのある匂いの一つがこれで、実は彼女は洞窟に入ったその瞬間からこの匂いを嗅ぎ付けていた。
「潮?なに?それ。」
「うんとね、海の匂いのことをそう呼ぶんだよ!」
「海の臭い?」
ヨハンが驚きの声を上げたのが、ダニーはたまらなく嬉しかった。
「そう!海の匂い!きっとこの洞窟は海に繋がってるんだね!」
ダニーの前をルイーダが歩いていた。
この時、ルイーダは二人の会話を聞いているだけだった。
ダニーの言ったことは正解なのだが、自分がそれを正解と言うことは、今この状況の中で適当ではないと思って何も言わなかった。
ルイーダは勘の鋭い女性だ。
今日のダニーの変化については彼女なりに理解していた。
だから何も言わないことを選んだ。
「海かぁ。俺、初めて見るよ。」
ヨハンが感慨深げな声を漏らした。
ダニーはそれがたまらなく可笑しかった。
「嘘だぁ!だって、何日か歩いたらすぐ海にでるのに?!」
彼女の感覚したらそうだろう。
ずっと旅をしている彼女はヨハンよりもずっとたくさんの土地を目にしてきた。
海などはあって当たり前の至極当然なものなのだ。
「だって、俺、村の外になんかほとんど出たことなかったもん。」
事実、ヨハンが森に入ったのも、ルイーダと出会ったあの日が初めてだった。
「そうなの?!へぇー、そうなんだ!」
「そうだよ。ダニーは色々なところに旅をしてたんでしょ?いいよなぁ。」
「うん!色々なところに行ったよ!」
そのままダニーは得意げに旅の話を始めた。
ヨハンはその話に、実に楽しそうに相槌をうちながら熱心に聞き入っていた。
ダニーの口からは止めどなく話が溢れ、暗闇を歩く退屈な作業に花を添えた。
(なるほど。)
それを無言で聞きながら、ルイーダは自分の勘が間違っていなかったことに確信を持った。
ダニーの話は尽きることがなかったが、遂にそれも終わりの時を迎えた。
一本道の洞窟は、突如として広い空間にぶつかったのだ。
そこには、広大な水溜まりが広がっていた。
「え!?」
ヨハンが驚きに満ちた声を上げた。
「ここって・・・・。」
驚きから、恐怖が混ざった声に変わった。
その手はルイーダの手をしっかりと握っていた。
ルイーダが久しぶりに口を開いた。
「ううん。似てるけど違うから安心して。」
言いながら、ヨハンの手を放した。
ダニーに気付かれぬよう、細心の注意を払いながら。
「あぁ、良かった。」
その言葉にヨハンの緊張は溶けたようだった。
「どうしたの?!」
ダニーはヨハンにぴったりと寄り添うと、ヨハンの顔を覗き込んだ。
「うん。前に洞窟で三つ首の魔獣に襲われた時がちょうどこんな水溜まりのあるところだったから、同じところかと思って。」
「魔獣に襲われたの?!ヨハン!」
「そうだよ。」
「そっか!でも、今度出会っても大丈夫!私がヨハンを守ってあげるから!」
ダニーはそう言いながらヨハンをきつく抱き締めた。
「いいよ!自分で何とかするよ!」
しかしヨハンの反応は冷たいもので、ダニーの腕を振りほどくと逃げるようにして距離をとった。
無理もない。
ヨハンはダニーより更に幼いし、それになにより男の子だ。
それが分かっていればどうってことはないのだが、そんなことはまだ知らないダニーはいたく傷付いた面持ちだった。
ダニーもヨハンから距離をとると、ルイーダの手をぎゅっと握り締めた。
(めんどくせー。)
本心ではそう思ったが、まぁ相手は子供だ。
しばらく付き合ってやるしかない。
ルイーダは諦めたような表情で、空いている方の手で頬を掻いていた。
(さて、どこだったかなぁ?)
気を取り直して、奥の方に目を凝らした。
しかし真っ暗な洞窟で探れるのは、大した距離ではなかった。
とりあえず適当に探そうかと思った矢先、傍らのダニーがいつもより更に大きな声を張り上げた。
「見て!あそこに何かあるよ!」
「どこ?見えないよ?」
「あっちだよ!」
ダニーがある方向を指差して、そちらへ向かって駆け出すと、ヨハンもダニーを追いかけて駆け出していった。
ルイーダも二人の後について駆け出した。
ダニーが指差したものが近付いてくるにつれて、次第にそのシルエットが見てとれるようになってきた。
目の前まで辿り着くと、ルイーダが言った。
「あったあった。これが忘れ物だよぉー。」
「・・・・・・これ。」
ヨハンはそれに触れながら呟いた。
「なに?」
つづく。




