始動
「ヨハン。これを。」
ルイーダがヨハンの手に握らせたのは、何やら金属で出来た、よく分からない小さな棒だった。
「これは?」
「これはね、鍵って言うの。
人が入れないように扉を開かないようにする為の器具を、この棒を使って開けるの。」
「人が入れないようにする。」
ルイーダの言葉はやはり難しい。
彼女と話していると、ヨハンの頭の中に湧き上がるのは、常に何故?どうして?ばかりだ。
「また不思議そうな顔してるねぇ。
分かった。
じゃあ、始めからちゃんと話そうか。
まずはここについて、からかな。
ヨハン。
ヨハンの思う計画に、一番必要なものは?」
「うんと、皆の協力。」
「だね。んで、皆の協力を得る為に必要なものは?」
「お砂糖。」
「だよね。んじゃあ、お砂糖を作る上で一番気を付けることは?」
「んー。」
「作れなくなること。」
「なるほど!」
「嵐が来たりとか、干ばつとか、色々な要素があるけど、基本は天候に左右されるってところがネックなんだよねぇー。」
「うん。確かに。」
「んでね、このギヤマンの部屋が役に立つのよ。
ここは砂糖の育成に必要な温度、湿度を一定に保つことが出来るもので、まぁ日照時間に関してはカバー出来ないんだけど、つまりは砂糖の草の育成を安定して維持出来る施設なわけで、これを温室と呼びます。」
「また説明口調!」
「説明だよ!
ここまでは良いね?」
「うん。良い。」
「ここは、各温室ごとに種蒔き時期をずらすことによって、どの時期でも常に砂糖を生産出来るような調整をしてあるの。
今日、ここの草を刈り取って、次の種子を撒いておく。
そしたら何日後かには隣の温室の草が育ちきるの。
それを刈ったらまた種子を撒いて、また隣に移る。
全部の温室の刈り入れが終わった頃にはまた初めのここが刈り入れ出来るようになっているってサイクルなの。
大体、草の生育には、月の満ち欠け十二回分くらいの期間が必要だから、この温室は十二個用意してあるのよ。」
「す、すごい!」
「常に砂糖の生産維持が出来れば、ヨハンの言うように、砂糖を報酬として皆に分け与えて、皆がその砂糖を好きなものと交換するって構図が成立するでしょ。
その下準備をしておくべきが今なのよね。」
「うんうん。」
「じゃあここでもうひとつ。
ヨハンにとって砂糖って何かな?」
「えっと、なんだろう。」
「皆が欲しがるものは何かな?砂糖?」
「ううん。砂糖と交換する食べ物だったり。」
「だね。つまり、別にお砂糖じゃなくてもいいんだよ。
どちらかと言うと、その先にある物に価値があるわけで、砂糖そのものじゃないってことでしょ?
食べ物と交換出来れば、砂糖じゃなくてもいいの。
でも、砂糖が一番、色々な物と交換出来るから価値を見出だしてるのね。
つまるところ、ヨハンの計画に必要なのは砂糖の生み出す財力なわけで、その財力を維持することが最優先課題なわけなのよ。」
「財力・・・・。」
「そう、財力。
んでね、財力があるところには人が集まるのよ。
それは人の生活を潤すから当然だよね?
これからもっと人が増える。
でもその反面、悪意を持った人間も引き寄せる。」
「え?」
「いつか必ず、ここを奪いに来る人間が現れる。
その時の為に、鍵が必要なの。」
「・・・・・。」
「この場所に出入り出来る人間が限られるようにしておくことが、この先、人が増えた時に一番大切なことになるの。
分かる?」
「分からない。」
「分からない?」
「ねぇ、どうして?
なんでここを奪いに来るなんて言うの?どうしてそんなこと言うの?」
ヨハンの唇が震えていた。
「だって、皆が幸せに暮らせるんだよ?
皆の役に立つのに、なんで?なんで奪おうとするの?」
「ヨハン。あなたにはまだ分からないのかもしれないけど、人間は良い人ばかりじゃないの。」
「分からないよ!」
「ヨハン。」
「ルイーダは、なんでそんなに人を嫌うの!?
そうやって嫌ってばかりいるから、人が悪いなんて思い込んじゃうんだよ!
こんなの、いらない!」
ヨハンは立ち上がると、ルイーダから受け取った鍵を力いっぱいに地面に投げつけた。
鍵はヨハンの思惑とは外れ、ルイーダめがけて飛んでいくと、咄嗟に顔を逸らせたそのこめかみを傷付けた。
かすり傷ではあったが、ルイーダの目尻を血が伝った。
「あ・・・・!」
ヨハンは急いでハンカチを取り出すと、すがるようにしてルイーダの傷口を拭った。
ヨハンはまだ知らない。
自分自身にも悪が内包されていることを。
それはヨハンだけに限らない。
ルイーダの中にも悪はある。
フランツにも、ダニーにも、リヌスにも。
誰の中にでも悪はあり、そして善がある。
ヨハンはまだ知らない。
「ごめんなさい!ごめんなさい!」
「ヨハン。」
ルイーダはヨハンの手を優しく握った。
「変なこと言った私がいけなかった。」
ここで心を閉ざすのは最も簡単だ。
ルイーダはいつもそうしてきた。
だけど、ヨハンとの出会いが彼女を変えた。
初めてではない。
誰かのために何かをしたいと思ったのは。
それは遠い遠い記憶で、いつだったかも覚えてない。
書き記してもいない。
ずっとずっと忘れていた記憶。
ルイーダは自分にそんな感情があることすら忘れていた。
そんなルイーダを、ヨハンとの出会いが変えたのだ。
本当に変えたのか?
変わりたかったのは彼女自身?
ヨハンには自分が必要だ。
少なくとも今は。
ルイーダはヨハンの両肩を掴むと、まっすぐとその目を見据えた。
「ヨハン。
思うようにしなよ。
私がそばにいてあげる。」
「うん?怪我をしてるのか?」
小屋に戻ると、そこにはフランツが二人を待っていた。
フランツはルイーダの眉尻の生傷を見付けると声を掛けた。
「大丈夫。かすり傷だから。」
「そうか。なら良いが。
君はいつも怪我をしてるな。」
フランツが初めて彼女と出会った時も、彼女は左腕に大怪我をしていた。
「怪我を冗談にする?普通。
ちょっとそっちの戸棚から瓶を取って。
ギヤマンのやつ。」
「これかい?」
釜戸の上の戸棚を開けると、瓶を取り出してルイーダに手渡した。
三人はテーブルを囲んで腰を降ろすと、ルイーダの傷の手当てを行った。
瓶の中の軟膏を傷口に塗り、清潔なガーゼを上から被せ、長い布地で頭を巻いて固定した。
フランツは流石に旅に慣れているだけあり、傷の手当ても手際が良かった。
「ありがと。」
手当てが終わると、ルイーダがこう言った。
「君から礼を言われるのは二回目だね。」
「回数を数えられるのは流石に気持ち悪いんですけどぉ。」
「はっはっはっ。
さて。冗談は程ほどにして、だ。」
フランツは鞄から何やら紙の束を取り出すと、テーブルの上に静かに置いた。
「そろそろ次に移る時期かと思ってね。」
ルイーダがその紙の束を手に取ると、次々とめくっては目を通していった。
「すごい。
よく出来た帳簿だねぇ。」
「お褒め頂き光栄だね。
実は当初の見込みよりも少し余裕が出ててね。
あと五世帯ほどなら賄えそうなんだ。」
「ほんとに!?
すごい!じゃあ、もっと手伝いたい人がいないか聞いてみようよ!」
「そうしたいところなんだが。」
「ヨハン。
残っている分は、貯蓄に回そ。」
「え?なんで?」
「一度船に戻って、次の調達をしてくる。
その間の繋ぎに使った方がいい。
ルイーダ、砂糖は今どのくらい出来てるんだい?」
「こっちは問題ないよぉ。
今で最初に見せた壺の五つ分は出来てるし、まだまだ精製中でぇす。」
「すごいな。もうそんなに。」
「まぁねぇ、皆が頑張ってくれてるし、ルイーダさんは天才だしぃ。」
「ねぇねぇ、繋ぎってどういうこと?」
「あぁ。
実はな、初回で船の積み荷の半分近くを持って来ているんだ。
一度、補給に戻らないとならない。
この島から僕の故郷までは片道で十日程度。
乗組員が僕を除いても二十人近くはいるからね、その分の食料を残さないとだから、次も同じ量をって訳にはいかないんだよ。
一度補給に戻れば、次から船を増やせるかもしれないし、もっと多くの物資を手配出来るとは思うんだが、往復に物資の手配に諸々を合わせると、それまでの約三十日間を耐えてもらわないといけないんだ。」
「そうなんだ。
うん。でも大丈夫じゃないかな?」
「大丈夫なのか?」
ヨハンの意外な言葉にフランツは驚いた。
フランツからしてみれば、この事実はヨハンを落胆させるのに十分な情報だと思っていたのだ。
「俺達にはルイーダがいるもん。
ルイーダ。」
「なぁに?」
「力を貸してくれるよね?」
「もちろん。」
「やた!じゃあ決まりだよ。
フランツが戻ってくるまで俺達は俺達で頑張るよ!」
「おいおい、どういうことだい。
何か考えでもあるのかい?」
「え?まだ何もないけど、きっとそのうち思い付くって。」
「そんなバカな。」
「フランツ。
俺とルイーダに出来ないことなんて無いよ。」
ルイーダが無言で頷いた。
この子供にはやはり何かがある。
フランツは改めて感じていた。
「後はあなたがしっかり交渉を成立させてくるだけだねぇ。」
ルイーダが意地悪そうな表情でフランツの顔を見やった。
「どういうことだい?」
「えー?分かってないのぉ?
私の見立てでは、あの時のお砂糖の量なら、今回持ってきた食料の五倍くらいは交換出来る価値があると思ってたんだよぉ。
フランツ、足元見られてるか、騙されちゃったんじゃないのぉ?」
「う、嘘だろ?」
その言葉に、フランツは全身が熱くなり、背中を汗が流れるのが分かった。
「えー!?」
ヨハンも声を上げた。
「いや、ちょっと待ってくれ!
騙されたとかそういうんじゃない!
ただちょっと船の手持ちとの関係でだな・・・」
「はいはい。
次はちゃんとやってきてくれればいーからぁ。」
「待ってくれって!本当に騙されてないから!」
「なに焦ってんのさぁ。
それは自白と変わりませぇん。」
「なんだよ!なんか知らないけど喋り方まで変わってるし!
と言うかキャラまで変わってないか!?」
「ただ単にフランツには打ち解けてなかっただけでぇす。
てゆーか打ち解ける気がなかっただけでぇす。」
「酷いな!
まぁいいや。兎に角だ、次はもっとたくさん持って帰ってくるからな!」
ルイーダに散々からかわれ、フランツの心はやっと火がついた。
正直、彼には自信が足りなかった。
尊敬する兄や父との交渉は彼に尻込みさせていたし、自身の本来の力が発揮されていないのは心のどこかで自覚していた。
一見すると他愛の無い会話ではあったが、ルイーダの言葉は彼の心を大いに揺さぶった。
フランツは眼前に座る子供と女の顔を交互に見比べた。
「明日、出発する。」
真面目な顔で言った。
「信頼してるよ。」
ヨハンがニッコリ笑った。
「発つ前に、二つ、相談がある。」
「プロポーズは受け付けませぇん。」
「今この流れでそんな話しするわけないだろ!」
翌朝、フランツとその仲間達は、数名の村の男を伴うと、空の荷馬車を引いて旅立っていった。
ヨハンとルイーダ、
「早く戻ってきてねぇー!」
ダニーがそれを見送った。
「ダニー、寂しくない?」
ヨハンが手を振る少女に問い掛けた。
「うん!平気!」
「お父さんやお母さんは心配してないの?」
お前がそれを言うか?
ヨハンの一言を聞いたルイーダは内心で突っ込んだのは言うまでもない。
危うく声が出るところだったが、しかし必死に堪えた。
フランツの相談とは、他でもないダニーのことだった。
「私、お父さんもお母さんもいないから。」
ダニーの声が小さく萎んだ。
ダニーをここに置いていきたい。
フランツからの申し出だった。
「ダニーは出来れば船に乗せたくないんだ。
いつ嵐が来て沈むかも分からない、いつ何が起こるか分からない危険な旅に、あの子を連れ回したくない。
少なくとも僕が戻るまでの間だけでいい。
ルイーダ、あの子の面倒を見てやってもらえないだろうか?」
ルイーダは悩みもせずにそれを受け入れた。
「その代わり、無事に帰って来なよぉ。」
「すまない。必ず戻る。」
「そうなんだ。」
自分の質問の無神経さにヨハンは軽いショックを受けたが、
「いいの!気にしないで!」
それを感じ取ったダニーの声は、逆にヨハンを励ますかのような、普段通りの元気を取り戻した。
こんな話題の時ですら、他人を気遣えるこの少女に、ルイーダは不思議な感覚を覚えた。
つづく。




