邂逅
ヨハンの思惑通り、水道を引く工事は容易に進んでいった。
建築に秀でたパオロが水道の設計図を基に全ての筋道を通し、村の力自慢達が地面を掘り、基礎を固め、細工職人達が資材を揃え、加工し、組み上げる。
十五人の精鋭部隊は、実に効率的かつ迅速に仕事をこなした。
もちろんヨハンも手伝ってはいたが、ほぼほぼ足手まといに近い扱いを受けていた。
「おう、ヨハン!
ここは危ないから、お前は別のところ行っとけ。」
この構想の発案者であるにも関わらず、遂には戦力外通告を受けるまでに至った。
若干の悔しさはあるものの、それはそれでヨハンにとって都合が良かった。
ヨハンの計画の中心はもちろんこの水道作りではあったが、その肝は、住民の協力を得るための食料の調達である。
それがコンスタントに行えなければこの計画は途端に頓挫する。
継続して食料の確保を行うために必要なのは、他でもない砂糖の恒常的な生産の確立だった。
ヨハンはパオロから向こう数日の工程と進捗目標を確認した後、ルイーダの小屋へと足を向けた。
「あ!ヨハンだ!」
最初にヨハンを見付けたのはダニーだった。
砂糖の絞り汁を煮詰める作業を行っていた彼女は、相変わらずの汗まみれだった。
ダニーの他には、水分の飛んだ砂糖の固まりをゴザの上に丁寧に敷き詰めて乾かしている女性と、茎を一生懸命に臼で挽く女性だけだった。
「調子はどう?」
手を振りながらダニーに近付いた。
「うん!暑い!」
「ごめんよ。こんな大変なことを手伝ってもらって。」
「ううん!楽しいよ!
いつも話し相手はお馬だけだし、いっぱい色んな人とお話し出来て楽しい!」
ダニーはにっこりと笑った。
大体の人は笑顔が一番だとは思うけれど、この少女ほど格別の笑顔を見せる人もそうはいない。
ヨハンは思った。
「どうしたの?」
気が付くと、かなり長い時間を上の空で過ごしていたらしい。
ダニーの顔で視界がいっぱいに埋め尽くされて、そこで初めてヨハンは自分がどこか遠いところへ行っていたことに気が付いた。
「あ、えっと、ルイーダはどこ?」
照れ隠しに忙しなく鼻をこすりながら、周りを見渡した。
「んとねぇ、ルイーダは砂糖の草の畑にいるよ!」
「そっか、ありがとう。行ってみるよ。」
ヨハンが足早に立ち去ろうとしたところ、
「あ!ちょっと待って!」
ダニーがヨハンの手を取った。
「忘れてた!
私も一緒に行かなきゃ!
ラナさん、いい?」
「行っといで。」
「ありがと!」
何やらよく分からなかったが、ダニーが同行を申し出た。
「え?いいよ。一人で行けるよ。」
「いいの、いいの!」
困惑するヨハンを余所に、ダニーはその手をグイグイと引っ張って歩き始めた。
ルイーダの畑は森の奥、小屋から歩いてしばらくの場所に作られていた。
毎朝、ヨハンと二人で訪れるあの場所だ。
ヨハンからしてみれば、通い慣れた自分の庭にも等しい場所。
何を今更、同行が必要なものか。
ヨハンは少し不満だった。
(子供扱いするなよな。)
心中は穏やかではない。
彼も年相応の男子だ。
同じ年頃の女の子に世話を焼かれるのは、あまり好ましいものではなかった。
そんなヨハンの男心など知る由もなく、ダニーはあたかもスキップするかのような足取りでヨハンを引っ張って歩いた。
「ここ、すごい良いところだね!」
ダニーの声はとにかく大きかった。
すぐ近くにいるにも関わらず、まるで遠くにいるヨハンに話し掛けているかのようだ。
「ダニーは森が好き?」
「うん!大好き!」
振り返ると、またあの格別な笑顔。
こういう子なんだな。
ヨハンは妙に納得していた。
「ダニーはフランツと一緒に旅をしてるの?」
「そうだよ!フランツと、皆と一緒!
船に乗ってね、色んなところに行くの!」
「小さいのにすごいね。」
その言葉にダニーは急に立ち止まると、ヨハンの頭をじっと見つめた。
「え?」
ダニーの顔にはさっきまでの素敵な笑顔は無く、真顔に変わっていた。
(怒らせちゃったかな?何か嫌なこと言ったんだろうか?)
ヨハンにとっては意外なダニーの顔に、一気に不安が襲った。
しどろもどろになるヨハンだったが、ダニーはそんなことには構う様子もなく、ずいっと一歩踏み出した。
ダニーの唇がヨハンの目の前に迫った。
途端に汗が吹き出した。
「えと、えと。」
ダニーはすっとヨハンの手を離すと、ヨハンの頭の上に手のひらを乗せ、それをそのまま自分の眉の辺りまで引き寄せた。
「私の方が大きいよ!」
どうやらダニーはヨハンの言葉を、その言葉通りに受け取ったのだということに気付いた。
「は?」
「ヨハンの方が小さいよ!」
ヨハンは腹を抱えて笑った。
至って真面目にそう言った、ダニーのその顔が面白くて仕方なかった。
「え?なに?なにが面白いの!?」
あまりにもヨハンが笑うものだから、初めは戸惑っていたダニーも段々と面白くてなってきて、遂には釣られて笑いが込み上げてきた。
二人は森の中でうずくまり、気が済むまで笑いあった。
それから二人は冗談を言い合いながら森の中を進んだ。
互いに互いのことはよく知らない仲だったはずが、この短い間にまるで生まれた時からの幼馴染みのように感じていた。
ヨハンはこれまでに体験したことのない、不思議な幸福感に包まれていた。
楽しい時間ほど過ぎるのは早いものだ。
「あ、見えてきた。」
ヨハンは前方を指差した。
いつの間にか畑のある場所まで辿り着いていた。
ルイーダの畑はそう大した広さではなく、彼女とヨハンの二人が生活するのに苦労しないくらいの、申し訳程度のものでしかなかった。
少なくともヨハンの認識ではそんなものだった。
「あ!」
ヨハンは驚愕した。
目の前に広がっていたのは、ヨハンの知っている小さな畑ではなかった。
少なくともヨハンの村と同じ程度の規模はあるだろう。
遥か彼方まで砂糖の草で埋め尽くされていた。
しかしただ無造作に生えているわけではなく、ところどころに人の通り道が引かれているのが見てとれた。
畑は通路によって規則正しくブロック状に区分けされ、よく見るとブロックを囲むようにいくつかの木の柱が立てられているのが分かった。
等間隔に置かれた柱からは屋根を作るように垂木が伸び、それを支える梁が張られていた。
それはまるで、透明な家の中に畑があるような、そんな不思議な景色だった。
「こ、これは・・・・。」
ヨハンは畑に向かって駆け出した。
「あ!ダメ!」
背後でダニーが悲鳴を上げた。
しかし、残念なことに少女の制止は間に合わなかった。
「ぐぇっ!」
何かに顔を強かに打ち付けられたヨハンは、たまらず背後に倒れ伏した。
「わっ!大丈夫!?」
「何かに、ぶたれた!
危ないよ、ダニー!何かいるよ!」
身体を抱き起こされながら、ヨハンは周囲をグルグルと見回して警戒した。
ダニーに手出しはさせないと言わんばかりの勢いだが、実際には彼女にすがり付いたような情けない格好だったことに気が付いてはいなかった。
「ヨハン、鼻血が!」
懐からハンカチを取り出すと、ヨハンの鼻に押し付けた。
「あぁ、よかった!
鼻は折れてないみたい!」
「それよりも危ないよ!」
「大丈夫、落ち着いてヨハン!
何もいないから!
ヨハンがぶつかったのはギヤマンの壁なんだよ!」
「ぎ、ギヤマン?」
「そう、よく見てみて。」
ダニーはヨハンの手を支えるように持ち上げると、そっと空中に導いた。
そこにあるはずの無い何かに触れた。
「何かある?
これがギヤマン?」
ひんやりと冷たい。
よく目を凝らすと、ところどころ光が空中で煌めいているのが見えた。
ヨハンは遂にそこにある物の正体を認識した。
「透明な板?」
「そうだよ。
見えないけど、この畑は全て透明なギヤマンの板で覆われてるんだよ。」
「す、すごい。」
ヨハンは思わず唾を飲んだ。
鼻血が出ていることを忘れて。
喉の奥で鉄の味が広がった。
「ルイーダは奥の方にいるよ!
会いに行こう!」
ダニーはヨハンを引き起こすと膝を払ってやった後、再び手を引いて歩き始めた。
勝手知ったる様子で、透明な壁で挟まれた通路を迷い無く進んでいった。
いくつかの曲がり角を曲がった後だった。
奥に見える畑で、草の刈り入れ作業が行われているのが目に入ってきた。
「あ!ルイーダ、いたよ!
おーい!ルイーダぁー!」
ただでさえ声の大きなこの少女の大声は、本当によく通った。
隣で聞かされたヨハンは耳が痛くなった程だった。
積み上げられた草の山の裏側から、ルイーダが顔を出した。
「を、二人とも、おかえりぃー。」
ルイーダと三人の女達は、ちょうどこのブロックの草を刈り終えて、やっと一息ついたところだった。
ヨハンとダニーが透明の建物に足を踏み入れると、草の山の陰で共に休むよう促された。
土の上に綺麗な模様入りの毛布を敷いて、そこにはルイーダお気に入りのティーセットが並べられていた。
「はい、どーぞ。」
カップにお茶が注がれ、ダニーと、そしてヨハンの前に差し出された。
ヨハンがカップに口を付けた時だった。
「はい。」
ルイーダがヨハンに向かって頬を突き出してみせた。
「え?なに?」
「あれ?ただいまのキスは?」
「やめてよ!そんなのいつもしないでしょ!」
「えー?いつもチューしてんじゃぁーん。」
「してないから!そんなのしてないから!」
「ルイーダとキスするの?
いいなぁ、ヨハン。
ダニーもルイーダとチュッチュしたいなぁ。」
「え!?」
「どぅっへっへぇ。
でしょー?ダニーもチュッチュしたいよねぇ?」
「やめて!どぅへどぅへ言うのやめて!」
「なんだよ、思春期かよぉー。第二次成長期かよぉー。
まだ九歳のくせにぃー。」
「また俺の知らない言葉使って!
言い返せないからやめて!」
その場が爆笑の渦に包まれた。
「あはは!お腹いたーい!
ルイーダ面白ーい!」
「やめて!笑わないで!」
特にダニーはそうとうツボに填まったらしく、転げ回って笑っていた。
ヨハンは耳まで真っ赤にしてダニーに怒ったが、そんなことでダニーの笑いは収まらない。
むしろ余計にダニーのツボを刺激した。
ルイーダはニコニコしながらそんな二人を見つめていた。
ヨハンからしてみれば、ルイーダは人が嫌いなのだと思い込んでいただけに、皆と談笑するルイーダの姿を見るのはとても嬉しいことだった。
実際、ルイーダはヨハンにすぐ馴染んだし、フランツとも割りと早めに打ち解けていた気がする。
ヨハンが思い込んでいただけで、ルイーダという女性は案外に普通の感性の持ち主なのかもしれない。
ダニーに怒りながらも、ヨハンは頭の別の部分でそんなルイーダのことを想っていた。
「さて、そろそろ仕事に戻るとするかね。」
女の一人が立ち上がり、他の二人もそれに続いた。
刈り取った草を荷車に積み、それを運ぶのだ。
「ごめんね、私ちょっとヨハンと話しあるから。」
「いいよいいよ。ゆっくり話しといで。」
ルイーダに手を振りながら、三人は各々が仕事に戻っていった。
「んー、じゃあ、私も!
アンナマリアさん達と一緒に戻るね!」
ダニーも立ち上がると、二人に手を振り、先に仕事に戻った三人を追い掛けて行った。
「ねぇ、ルイーダ。」
ヨハンはルイーダのカップにお茶を注ぎながら意を決して切り出した。
「怒ってる?」
ルイーダはそのカップを手に持つと、静かに口に運んだ。
「なんでそう思うの?」
「なんとなく。」
「ヨハンは私に怒られることしたの?」
「んー。分からない。」
「ねぇ。ヨハン。」
「うん。」
「私ね、嬉しかったんだよ。
ヨハンが私の為に立ち向かってくれたの。
でもね。」
「でも?」
「でも、寂しかったのも本当。」
「寂しかった?って、どういうこと?」
「分からない。
なんだろう。あぁ、これでヨハンは私のところからいなくなっちゃうんだなぁ。って。」
「俺はどこにも行かないよ。
それよりも、ルイーダとずっと一緒にいたいからこうしたんだよ。」
「うん。
そうだよね。」
そうだよね。
ありがとう。
「ルイーダ?」
「なんでもない。」
ヨハンの目には、それが涙に見えた。
でも、何故だか分からなかった。
「ねえ、ヨハン。
ここ、どこだか分かる?」
ルイーダの突然の質問。
またしてもヨハンには意味が分かりかねた。
時折、ルイーダの言葉は、とても難しかった。
「ここって、ここ?」
「そう。ここ。」
「どこって畑でしょ?
なんか突然広くなったけど。
どんな魔法を使ったの?」
「ブッブー。はずれ。」
「ん?どういうことさ?」
「ヨハンはここに来たの初めてだよ。」
「え?本当に難しいよ。どういうこと?」
「ここ、ヨハンが思ってる畑じゃないから。
ここに来る時、ダニーと話してたでしょ?
だから気が付かなかっただけで、ここは私達の畑とは別の場所にある違う場所。」
「え?」
「ふふふ。
森はね、生きてるんだよ。
ほんの少し通る道を変えるだけで、知ってると思ってたところとは違うところに辿り着く。
を、私今とっても哲学的だったねぇ。
すごいねぇ。」
「もう!ちゃんと分かるように話して!」
「でっへっへ。
いつもの通り道にはね、ギヤマンで造った鏡っていう物が置いてあったの。
その鏡の後ろに、ここに繋がる道を隠しておいたの。
ずっと昔からね。」
「え!?」
「いくら私でもこんな広い農園をたったの何日かで作れるわけないでしょー。
ここは私の秘密の場所なんだよぉ。
何かあった時の為に、ずっと昔から作ってた、とっておきの秘密だよ。」
「秘密の場所って、え!?え!?」
「ヨハン。私に怒ってるかって聞いたよね?
ううん。
怒ってなんかいない。」
そう言いながら、ルイーダはヨハンの頭を胸元に抱き寄せた。
「怒ってるなら、この場所をヨハンの為に使おうなんて思わないんだから。」
「他にも秘密、あるの?」
「あるよ。
私にはいっぱいいっぱい秘密があるの。
だけど、」
「だけど?」
「もう隠さない。」
つづく。




