はじまりの物語
ある朝、目を覚ますと、どこからか赤ん坊の産声が聞こえてくる。
ある朝、目を覚ますと、どこからか婚礼の祝福の声が聞こえてくる。
ある朝、目を覚ますと、どこからか死を悼む悲嘆の声が聞こえてくる。
また別のある朝には、共に狩猟の成果を祝う歓声が聞こえ、
また別のある朝には、小川の利権を主張しあう争いの声が聞こえ、
そしてまた別のある朝には、
新たな仲間の誕生を喜ぶ宴の声が聞こえる。
女はそんな声には全く興味がなかった。
ただ、朝が来て、夜が来て、また朝が来る、そんな当たり前の毎日のひとつに興味を示す程の繊細さは持ち合わせてなかった。
女がそんな声を聞き流しているうちに、
女の住む、今にも妖精か何かが小躍りして飛び出してきそうな森のはずれには、見も知りもしない人々が集まり、女の知りもしない生活を送っていた。
こんな近くに生活しているのに、全くの別世界。
女はそんな心持ちで、人々の群れを、森の一番高い木の上で、甘い果実を頬張りながら、眺めるだけの日々を送っていた。
あの日、あの時までは。
「お前が森の魔女だな!?」
女が喉の渇きに気付いたのは、とある曇りの日の昼下がりだった。
台所の龜に溜めておいた水がきれていることに落胆し、水を汲むために湧き水を湛える小さな泉に訪れた。
泉は小屋のすぐ脇にあるのだが、女はこの作業が一番嫌いだった。
重い木の桶を運ぶことが億劫で仕方なかった。
以前一度だけ、水を飲まずにいられぬものかと試してみたことがあったが、一日で身体が思うように動かなくなり、這って泉に水を飲みに行ったことがあった。
それ以来、自分が生きるためには水が必要である。
女はそう悟ったのだが、それでもこの作業が嫌いだった。
その声が聞こえたのは、女が木の桶を泉に浸している時だった。
「お前が森の魔女だな!?」
振り返ると、声の主は子供だった。
身の丈は女の半分より少し大きいくらい。
歳の頃は、女には知る由もなかった。
人間が一体どのくらいの歳月で成長するのかに興味がなかった女には、さして問題ではなかったからだ。
女は桶に水を溜め終えると、立ち上がって小屋を目指した。
「やい!聞こえないのか!?」
子供が女の前に立ち塞がった。
どうやら男の子供のようだ。
女に分かったのはその程度だった。
煤けて薄汚れた、ごくありふれた衣装。
なにやら木で作られた不恰好な被り物を頭に乗せ、同じく木製の棒キレのようなものを手に持って、女の方へと向けていた。
木漏れ日の優しい光が子供を照らしていた。
女は子供に一瞥をくれたのみで、すぐにその存在を忘れてしまったかのような態度で通り過ぎた。
「やい!聞こえないのかって言ってるだろう!」
子供は女の前に回り込み、再び行く手を遮った。
子供は内心、震え上がっていた。
(森には子供を喰う魔女が住んでいる。絶対に近付いてはならない)
彼は、彼の父親からそう教わっていた。
しかし、生まれながらにして好奇心旺盛な彼にとって、その言葉は興味の対象でしかなかった。
故に、子供ながらに丹精込めて作り上げた自慢の武具を手に、こうやって今、魔女退治に森へと足を踏み入れていた。
感情の一切読み取れない視線。
その視線を一身に浴びながら、子供はそれでも彼にとっての名刀を魔女に向けた。
歳の頃は二十代前半だろうか。
生まれてから八年。
未だ、性別というものに無頓着な彼であったが、それでも、眼前に佇む女の異常なまでの美しさは一目で彼を引き込むものがあった。
森で暮らしているとは思えない程に透き通った肌。
艶やかな絹のように流れる黒髪。
そして、まるで神々が自ら手を下して作り上げたのではと思うほどに整った顔立ち。
見たこともない不思議な意匠の身なりは、子供のそれとは全く異なる素材で作られたもので、汚れひとつ付いていない。
思わず自らの薄汚れた服装と見比べた程だった。
射し込む逆光に照らされた女の姿は、神々しくすらあった。
ゴクリ。
子供は生唾を飲み込んだ。
女が再び歩を進めた。
子供は全身に力を込めて、木刀を力強く握り直した。
しかし、そんな緊張を余所に、女はすんなりと子供の脇を通り過ぎていった。
今度は動くことが出来なかった。
驚くほどに全身から汗が吹き出していた。
背後から小屋の戸が開く軋んだ音が聞こえてきた。
「どうぞぉ。」
子供は飛び上がった。
女の声は、鼻にかかったような少し低い、それでいて心地よい、聞こえの良いものだった。
恐る恐る振り返ると、女が戸を開けたまま立つ女と視線が絡んだ。
「お茶でもいかが?」
その言葉に、子供は今にも逃げ出したい気持ちに駆られた。
とって喰われるものと思い込んでいた彼には、その意外な誘いの言葉は恐怖を一気に増殖させるに十分だった。
子供は弾けたように走り出した。
がむしゃらに走った。
一体自分がどこに向かっているのかも分からないまま、それでも走った。
心臓が悲鳴を上げ、全身が重くなり、遂には足がもつれて下草に倒れ込むまで。
草むらから、小さな羽虫が一斉に舞い上がった。
全身で息をしながら、その小さな虫を一匹、また一匹、目で追いながら数えていた。
段々と息が落ち着いてくると、
子供は頭の中があの魔女のことで埋め尽くされていることに気付いた。
完全に呼吸が整った頃、子供はゆっくりと立ち上がった。
帰ろう。
ズキン。
倒れた時、膝を擦りむいていた。
痛い。
子供は今にも泣き出しそうだった。
普通であれば、このまま大人しく帰るべきであろう。
大抵の子供ならそうする。
しかし、この子供はとても風変わりだった。
恐怖を力に変える気力と胆力を兼ね備えていた。
そして何より、この女に対する興味が膨れ上がってしまった。
子供は放り出した木刀を拾い上げ腰紐の隙間にねじ込むと、元来た道を引き返し始めた。
魔女の小屋まで辿り着いた子供は、それでも一瞬迷いながら、勇気を振り絞って戸を叩いた。
「開いてるよぉ。」
中から、先程と同じ鼻にかかった柔らかい声が聞こえてきた。
少し力を込めただけで、戸はいとも簡単に開かれた。
小屋の中は手狭ながらも、子供の自宅とは異世界の如く、綺麗に手入れが行き届いた、清潔感溢れる空間だった。
何の匂いかも分からないが、仄かに香る甘い匂いが鼻をくすぐった。
一間しかないその部屋には、小さな釜戸。
一人用のベッド。
オーク材とおぼしき衣装ダンス。
そして、中央には小綺麗なテーブルとイス。
イスは二つ置かれ、一つには魔女が腰掛けていた。
「さぁ、お茶をどうぞ。」
魔女は子供に席につくよう、仕草で促してから、小慣れた手付きでティーポットからカップにお茶を注いだ。
途端に、未だかつて子供が薫ったこともないような素敵な香りが部屋中を満たした。
「お砂糖はおいくつ?」
子供はその意味が分からなかった。
だから首を縦に振った。
「ふふ。」
魔女は小さく微笑んだ。
そして、ティースプーンに白い綺麗な砂をすくいとると、二回、カップに滑り込ませた。
子供はゆっくりと、しかし警戒は解かずにイスについた。
それを見届けると、魔女は満足そうにカップに口をつけた。
恐る恐る、子供もカップを手に取った。
琥珀色の透き通った液体を湛えたカップからは、あの素敵な香りが絶えず昇っていた。
とろけるような気持ちになりながら、子供はそっと口をつけた。
ほろ苦く、微かに甘く、そして美味しかった。
その感動は全身の毛が逆立つのを強く感じるほどだった。
「お菓子もあるわよ。」
魔女はそう言いながら、子供に小さなバスケットを差し出した。
キツネ色にこんがり焼けた、子供の拳ほどもある大きなビスケットが三枚。
子供は一枚手に取ると、少し時間をかけながらかじりついてみた。
「ふふふ。」
魔女はまたしても笑みを浮かべた。
今度は少し大きな声を出して。
自分自身では知る由もないが、子供の表情はそれほどまでにとろけきっていた。
魔女もビスケットを手に取ると、乾いた音を立てさせて半分に割り、その一方をカップに浸してから口に運んだ。
子供は今度はそれを真似、同じくカップに浸したビスケットにかじりついた。
天にも昇る心持ちだった。
「美味しい?」
魔女が口を開いた。
子供はビクりと体を震わせた。
「そんなに驚かなくてもいいのに。」
「だ、だって、お前、子供を喰う魔女なんだろ?」
「ふーん。私ってそうなの?」
「お前、俺の父さんや母さんが子供の時からずっとこの森に住んでるのに、ずっと変わらないって。
子供を捕まえて食べてるから、ずっと変わらないって、父さんも母さんも言ってた。」
「ふふ。
そうね。
ならおねーさん、若さを保つためにあなたを食べた方がいいのかしら?」
ガタン!
その言葉に仰天し、子供はイスから転げ落ちた。
「うふふ。
なぁに?その大袈裟なリアクション。
そんな驚かなくてもいいじゃないの。」
「ばばばば、ばか!
驚いてなんていないぞ!ただイスが滑りやすかっただけだぞ!」
「ちょっとワックス塗りすぎてたかしら。
あー面白い。
あなた、面白いわねぇ。
こんなに笑ったの久し振りだなぁー。」
魔女は笑いながらカップのお茶を飲み干すと、ポットから二杯目を注いだ。
子供のカップにもお茶を継ぎ足して、菓子の残っているバスケットを子供に勧めた。
「あら?
あなた、怪我してるの?」
魔女は子供の膝に目を留めた。
ついさっき、森で転んだ際に擦りむいた傷だ。
「こんなの唾つけとけば治るよ。」
「ちょっと見せてごらんなさい。」
そう言いいながら立ち上がると、魔女は釜戸の上の戸棚から何かを取り出してきた。
「これを塗ってあげましょう。」
「いいよ!大丈夫だよ!」
「さぁ、遠慮せずに。」
魔女が取り出してきた小瓶に指を差し込むと、中からキラキラと輝くクリーム状の液体を掬い上げられた。
それを子供の膝に優しく塗布する。
「っつ!」
「滲みる?始めだけだからね。」
魔女の言うように、痛みを感じたのは最初だけだった。
すぐにズキズキとした感覚は鳴りを潜めた頃には、魔女の手の動きにすっかり目を奪われていた。
「はい。おしまい。
明日にはすっかり治ってるから。」
言い終えると、魔女は小瓶を戸棚に戻し、再びイスに腰を下ろした。
子供はテーブルの上のバスケットに手を伸ばし、最後のビスケットをつまみ上げた。
ビスケットを手に取ると、力を込めて半分に割った。
そして半分を口に運び、半分を魔女に差し出した。
日暮れが近付き、
子供は魔女に見送られ、森の小屋を後にした。
ほの暗くなりつつある森の道。
子供が迷わぬよう、朧に光を放つリンドウの花が道を指し示した。
子供はそんな事に気が回ることもなく、夢見心地で森を歩いた。
「一体全体、こんな時間までどこをほっつき歩いていたんだい!?」
母親は、子供が帰るなりそう喚き散らした。
一番下の弟を前に、次の妹を後ろに紐でくくりつけた格好で、母親は食事の支度をしていた。
「さっさと手伝うんだよ。」
母親に促され、子供は食器をテーブルに並べた。
「まったく、今日だって父さんはろくな獲物を獲って来れなかったって言うのに、あんたまで遊び呆けて。
ろくな大人になりゃしないよ。」
子供の母親の口癖だった。
いつもの事だ。
子供は無言で七人分の食器を用意すると、まだ遊びたいと駄々をこねたり、小さな玩具の取り合いで喧嘩をする弟と妹を食卓に座らせた。
母親が少しばかりの豆のスープで食器を満たした頃、父が帰ってきた。
「今日は兎は獲れなかったが、向かいのパオロからパンを分けて貰えたぞ。」
そう言いながら、小さなパンを食卓の上に置いた。
母親はそのパンを大きく切り分け、父と自分に、そして残った少しを子供たちに分け与えた。
子供の食は進まなかった。
ひとつ下の弟が、
「食べないなら僕が食べる!」
そう言って子供のパンをかっさらった。
普段なら喧嘩になるシチュエーションだったが、その日の子供は違った。
何も言わずにそれを見送った。
「どうしたんだい?具合でも悪いのかい?」
それを見た母親が怪訝そうな顔で子供の顔を覗き込んだ。
「ううん。平気。」
「ならいいけど。食べたら鶏に餌をやるんだよ。」
「分かった。」
子供はスープを飲み干すと、食器を台所に運びんでから、家の外に出た。
それから鶏小屋に向かい、餌の雑穀を撒いてから糞の始末をし、小川に手を洗いに向かった。
ふと空を見上げると、星が綺麗だった。
家にに戻ると、母親が食器を洗っていたのでそれを手伝い、小さい子供たちを寝かし付けた。
弟たちが寝たのを見届けると、納屋へと向かった。
父親が、明日の狩りの準備で矢を削り出していた。
隣に座ると、それを手伝いながら、父親に話し掛けた。
「ねぇ、森の魔女って、本当に悪い奴なの?」
「お前まさか、森に入ったんじゃないだろうな?」
「まさか。ただ気になっただけ。」
「森には近づくなよ。
もし魔女に出会ったら、子供は生き血を啜られて、肉を焼かれて喰われるんだ。」
「魔女はなんで子供を喰うの?」
「うん?それはだな・・・・」
父親は言葉に詰まったが、その後の答えは子供が想像していた通りだった。
「子供を喰うと魔女の寿命が延びるにちげぇねぇ。
だから魔女はずっと昔からあの森に住んでるんだ。」
「そっか。」
「だから絶対に近づくなよ。」
「分かった。」
それからは二人とも無言で矢を削った。
子供は一心不乱に矢を削った。
狩りで使う分の完成の目処がたち、父親は子供に寝るように促した。
家に戻ると、母親が子供にキスをした。
子供も母親にキスを返し、それから床についた。
湿気を吸った、居心地の悪いベッドに潜り込むと、窓から星空を眺めた。
思い浮かぶのは、甘い匂いと、ビスケットの味。
子供にとって、生まれてから何よりも心に刻み込まれた一日だった。
翌朝のことだった。
まだ日も昇らぬ時刻。
子供は誰よりも早く目を覚ますと、父親と母親に気付かれぬよう細心の注意を払いながら身支度を整え、家を抜け出した。
どうしてもあの至福の時間を忘れられなかった。
森へと続く夜露に濡れた畦道を、何かにとり憑かれているかのように進んだ。
不思議なことに、子供が歩を進める毎に足元のリンドウの花が朧げな光を放ち、まだ暗闇に包まれたままの森の中でも迷わぬように導いているようだった。
しかし、その光が子供がそこにいることを知らせてしまっていたのだが。
花の光に導かれ、子供が魔女の家に辿り着いた頃には、辺りを覆っていた暗闇は取り払われ、柔らかな朝が訪れていた。
木戸の前に立つと、何故だか足が震えた。
理由は分からない。
とてつもなく怖くなった。
両親を裏切ったことへの恐怖なのか。
魔女への恐怖なのか。
それとも、自分を抑えられなかったことへの恐怖なのか。
あるいは全てか。
とにかく足が震えた。
「随分と早いお着きで。」
背後からの突然の声。
慣用句ではなく、本当に口から心臓が飛び出してしまうのではないかと思うほど、子供は全身を硬直させて驚いた。
朝日を浴び、朝露を煌めかせたままの野菜や果物をたっぷりと詰め込んだバスケットを肘にかけ、魔女は子供を背後から見下ろしていた。
「朝ごはんは?まだ?」
微動だにせず立ち尽くす子供を避けつつ、魔女は戸を開いた。
「どうしたの?お入りなさい。」
先に小屋の中に入ってから振り返り、手招きをする。
「お、俺。俺。」
子供が口を開いた。
「お、俺。ヨハン。」
「ヨハン。」
魔女が小さく繰り返した。
そして、にっこりと微笑んだ。
「私、ルイーダ。」
つづく。




