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6話 長い一日の始まり

 眠っていると、窓から朝日が差し込んできた。

 だから、今日も仕事に行かないといけないと思った。

 朝になったら家を出ないといけない。そんな強迫観念みたいなもので、何時も通り目を覚ました。


「………………」


 けれど、俺がいた場所は自宅ではなかった。

 馴染みのない部屋。馴染みのないベット。馴染みのない風景。

 そして俺の隣には、すやすやと心地よさそうに、女の子が眠っていた。


「…………ぁぁ」

 

 少しだけぼーっとした後、思い出す。

 その女の子は、スズネさんという人で、昨日とても親切にしてくれた人だ。

 そんなスズネさんの寝顔を眺めつつ。俺は同時に、自分の身に昨日起こった事も思い出す。 

 工場から帰っていたら、トラックに轢かれて即死した事。その後神様(仮)に転生させて貰って、メルルちゃんの姿になった事。スズネさんと会って、聖女学園に入学する事になった事。そうして明日に備えで、一旦2人で眠りに付いていた事。

 そんな夢みたいな事を、寝ぼけた頭で段々と思い出していく……。


「……いひゃい」


 頬をつねってみると、痛かった。

 はっきりとした痛覚と、空気が肌寒い感覚と、隣で眠るスズネさんの安らかな寝顔。そんなものが、これは夢ではないという事だけを告げている。

 ……昨日からずっと、全然現実感などがない。

 けれど、日本でも地球でもないらしいこの異世界は、相変わらずこれが夢ではない事だけを告げていた。



---



 ベットの上で少しの間ぼーっとした後。

 俺は段々と、意識がはっきりしてきて、何か活動をしたい意欲が高まってきた。

 なので俺は、まだ眠っているスズネさんを起こさないように、そろーっとベットから降りさせて貰う。

 そうして地面に降り立った後。俺はとりあえず改めて、この部屋全体を見渡してみる事にする。


「…………鏡」


 昨日も見た、整った感じの綺麗な部屋。

 そんな部屋の片隅に、簡単な作りの鏡台が置いてあるのが見えた。

 

「…………」


 俺は、その鏡の前に移動する。

 そして改めて、そこに映っている自分を眺めてみる。

 その鏡の中には、『はっぴーらいふ☆メルルちゃん』の主人公である、可愛いらしいメルルちゃんの姿が映っている。そしてその鏡の中のメルルちゃんは、向こう側にいるこちらを、ぼーっとしたまま眺めていた。


「改めて見たら、やっぱ違うな……」

 

 鏡を見ながら、俺はそんな事を思う。

 容姿の再現度は完璧だと思う。あの神様(仮)が頑張ってくれたらしく、今の俺は、メルルちゃんをそのまま形にしたような姿をしている。

 ……けれど、纏っている雰囲気みたいなものが、一目で分かるくらい違う。


 まず、表情が全然笑ってない。

 目がぱっちりと開いていなくて、本物のメルルちゃんと比べたら、人としての生気みたいなものが薄い。

 それから、なんていうか目に光がない。綺麗なものだけを映しているメルルちゃんの瞳とは違って、醜いものだけを映してきた俺の瞳は、どこかドブのように濁ったものになってしまっている気がする。


 そしてあと、姿勢も縮こまってしまっている。

 本物のメルルちゃん、は活発で明るいという設定の女の子だ。なので何時も、一目見るだけでそれが伝わってくるような態度や仕草をしていた。

 けれど鏡に映っている俺は、全くそういう人間ではない。なのでディフォルトで、背を丸めていて、少しだけ俯いていて、一目見るだけで自信がなさそうな人だと分かるくらいにオドオドしている。


 全体的に、鬱々とした感じがある事。

 それが、本物のメルルちゃんと、鏡に映っているメルルちゃんの体を借りた俺との違いだろう。

 鏡の中の俺は、なんか鬱々した感じのオーラみたいなものが滲み出てしまっていて、なんというか、幸が薄そうな感じの印象しか受けなかった。



 そんな鏡を見ながら、俺はふと思う。

 本物のメルルちゃんと、この鏡に映っている俺との違い。それはただ単にテンションから来るものなのだろうと。

 ……本当に、容姿の再現度自体は完璧なのだ。

 ただ問題は、俺の表情がメルルちゃんとは違って、全く笑っていないという事だけ。


 だから、俺は次に思った。

 ……もし鏡の前で明るい表情をしたら、メルルちゃんに会えるのではないだろうかと。


「…………」


 鏡に向かって、俺は出来る限りにっこりと笑いかけてみる。

 すると鏡には、さっきの鬱々としたオーラを纏っている俺の姿がなくなって、まるで本物のメルルちゃんがそこにいるように感じられた。


「おお……」


 自分がメルルちゃんになっている。そんな事実に、改めて何か感激のようなものを覚える。

 どうやら鏡の前で無理やり笑えば、少なくとも形だけは、メルルちゃんがそこにいてくれるように見えるらしい。

 

「…………」


 鏡に映るメルルちゃんは、相変わらず凄く可愛い。

 だから俺は、そんなメルルちゃんの可愛いさに、今日も癒されるような気持ちになる。

 そして、そんな鏡を少しの間眺めた後。俺はせっかくだから、何か一つ、メルルちゃんっぽい動作をしている所も見てみたいと思った。


「えっと、確か……」

 

 まず、右手を丸める。

 それから、親指と人差し指だけを真っ直ぐ立てる。

 そうする事によって、右手にはピストルのような形を作が作られる。

 そしてそれを、少し斜めに傾けてから、人差し指で自分を指すようにしつつ、顔の横へと移動させておく。

 次に、思いっきり楽しそうな表情を作る。

 そして次に、左目だけを閉じて、ウィンクしている状態にする。

 そしてその次に、首の角度を少しだけ、指のある方へと傾ける

 そして、最後に……。


「きゅるり~ん」


 そう呟く。

 OP前にも挟まれる、メルルちゃん特性のはっぴー☆のおまじない。

 『はっぴーらいふ☆メルルちゃん』の中で、メルルちゃんはこのおまじないを、ほぼ毎朝起きる度に、鏡に向かってやっているという設定になっている。

 その効能は、きっと毎日を幸せに過ごせる事。

 ……俺がこれに癒されてきた回数は、もう計り知れない。


「メルルさん、何をしているんですか……?」

「うひゃい!」


 急に話られて、変な声が出る。


「お、おお、起きてたんですか……スズネさん……」

「はい。メルルさんがベットから離れた辺りから……」

「……ぅ……ぅぅぅ……」


 起こさないようにベットを降りたつもりだったが、あの時起こしてしまっていたらしい。

 見られた……。さっきの一連のやりとりを、全部見られていた……。

 自分がやった事が、とったんにとんでもなく恥ずかしく思えてくる。そして変なうめき声を出しながら、俺は顔を背けてしまう。

 うぁぁ……。何やってるんだ……俺……。


「か……可愛過ぎます……」

 

 そんな俺を見ながら、スズネさんは何故かかつてない程に目を輝かせていた。



---



 一旦落ち着いた後。

 まず、あれが何だったのか尋ねられたので、記憶が曖昧で自分でもよく分からないと話しておいた。

 俺は記憶を失っているが、何もかも忘れている訳ではないらしい。だから、さっきのは記憶の奥底に眠っている何かだったらしい。ただそれだけだったので、忘れていいですお願いします忘れてください。

 そんな事を話して、何とか事なきを得ておいた。

 ……今はただ、忘れてくれる事だけを祈りたい。



 そうしてとりあえず弁明が終わった後。

 話が一段落した事で、スズネさんが別の話題を始めてくれた。


「メルルさん。この後はまずは、朝食の時間となっています。ですからまずは、寮の中にある食堂に行きましょうね」

「……分かりました」


 この後、とりあえず俺は朝食を食べにいく事になるらしい。


「それと、他の生徒の方々も、朝食を食べに食堂へと集まってきます。ですので食堂に行けば、そこで、他のみなさんとも会う事になると思いますよ」

 

 朝食の話の中で、スズネさんはそんな事も俺に聞かせてくれていた。

 ……昨日スズネさんから聞いた人達が、実際にどんな人達なのか。それも、食堂に行けば分かる事になるらしい。

 頑張って仲良くしたいと思うが……。うう……やっぱり他人と会うと思うと……どうでも心の中で緊張する気持ちが湧いてくる……。


「ですのでメルルさん。まずはこれをどうぞ」


 俺が一人で緊張している中。スズネさんはクローゼットの中から、謎の服を手渡してきた。


「何ですか、これ……?」


 俺がそう尋ねると。


「ルリミピス聖女学園の制服です。この学園に入学するなら、メルルさんもそれを着る事になるんですよ。ちなみにその服は、私の予備のものなので、メルルさんに着て貰っても大丈夫です」


 スズネさんは俺へと、そんな事を教えてくれた。

 ……どうやらこの学園には、指定の制服というものがあったらしい。


「とりあえず、着てみてください」

「えっと、はい……」


 俺はとりあえず、言われた通りにする事にする。

 メルルちゃんの体で服を脱ぐという事に対して、なるべく変な緊張をしないようにつつ……。俺はスズネさんに指導して貰いながら、パジャマからその服へと着替えていった。



 下着を履き替えて、服も着て、言われるままにニーソックスも着用する。

 そして、何とか無事に着替え終わった後。俺はとりあえず、鏡に映った自分の姿を確認してみた。

 ……その制服は、なんか、凄い感じの服だった。


 まずその制服は、上下一体の構造になっている。

 それから、下は少し短いスカートになっていて、着用義務のあるらしいニーソックスがスカートとのバランスによって絶対領域を作り出している。

 胸元にはタイが付いていて、手やスカートの先端にはフリルが付いていて、全体的にびしっとしているけれどふわふわもしているというような、そんな感じの雰囲気をしている。

 色使いは、真っ白を基本にしながら、所々に少しだけ黒を混ぜたような感じ。……デザインも独特だが、色使いもかなり独特だと思う。

 あと、右腕と左腕の上腕部の所に、黒い色で、火柱のような模様が書かれている。……よく知らないが、これもなんか異質な感じがするし、意味のあるデザインなのかもしれない。

 そして後は、服全体が柔らかい材質で出来ている。だから服が、全体的にひらひらとしていて、それがより一層可愛らしさや不思議な感じを演出しているように思えた。


 ……学園生活とかより、結婚式とかに似合いそうな感じの服。

 その制服は、なんというか独創的過ぎて、そんな感じのデザインに思える

 いやでも、普通の結婚式にこれを着ていったらドン引きされるかもしれない……。

 だってその制服は、なんというか、とにかくもの凄く可愛らしい感じのデザインでもあった。


「な、何でこんなに挑戦的なデザインなんですか……」


 俺は、たぶん最もな質問をする。


「聖女らしい姿、というものをイメージしてるらしいですよ。具体的には、可愛らしい天使様のイメージならしいです」

「そ、そうなんですか……」


 そう話すスズネさんは、俺が鏡を眺めている間に自分も着替え終えていた。

 スズネさんは当たり前の事のように、堂々とそのひらひらした制服を着こなしている。しかも、美人な上にどこか神秘的な所もあるスズネさんには、その制服は結構似合っているような感じもする。

 ……どうやら、何かの冗談とかではないらしい。

 冗談とかではなく、どうやらマジで、これがこの学園の制服ならしい……。


「それよりメルルさん。やっぱり、凄く似合ってますね……」


 鏡に映った俺を眺めながら、スズネさんが少しだけうっとりとする。

 ……まあ確かに。鏡に映る姿だけを見たら、俺も凄く似合っているとは思う。

 だって、鏡の中にいるのはメルルちゃんだ。メルルちゃんは尊いくらいに可愛いから、この可愛いらしい服を着ていると凄くよく似合う。

 けれどこの中身は、俺な訳で……。


「あの……スズネさん……」

「はい、何でしょうか……?」

「あの……、俺ってもしかして、これから学園に行く度に、この制服を着ないといけないんですか……?」

「はい、そうですよ」

「おお……」


 鏡に映る、お人形みたいに可愛いメルルちゃん。

 彼女は、真っ白なヒラヒラとした服を付けたまま、照れと苦悩だけで一杯一杯になっていた。



 その後、俺達は引き続き朝の準備を済ませた。

 部屋の奥に設置してある洗面台。そこで、樹脂とかで出来てるらしい粉末状の歯磨き粉を紹介されていたり、木とブラシで出来た歯ブラシを使って歯を磨いたり、魔法で出した水を使って顔を洗ったり、あとついでに寝癖を整えたりしていった。

 そうして、そんな朝の準備も終わった後……。


「それではメルルさん、食堂に向かいましょう」

「はい……」


 スズネさんに連れられて、俺はまずは、部屋の外へと出て行ったのだった。



---



 昨日は暗くて見えなかった廊下。

 その道の様子が、明るくなった今ならわかる。

 まずその廊下は、そんなに長くはない。端から端まで移動しても、たぶん10部屋ちょっとくらいしかないと思う。

 そんな短い廊下には、窓と扉が等間隔で並んでいる。窓からは朝日が差し込んでいて、その外には昨日いた運動場の景色などが広がっている。


「この左の突き当たりが、食堂です」


 俺が窓の外を眺める前に、スズネさんがそんな事を話す。

 昨日は、ここから右端に行ったらお風呂場に着いた。だったらお風呂と食堂は、ちょうど真逆の位置にあるらしい。 

 ……つまり、部屋から出た所から見て、寮の右端がお風呂場になっていて、左端が食堂になっている訳だ。


「そ、そうですか……」


 食堂には、他のみんながいる。

 さっきスズネさんが話してくれたそんな事を、改めて思い出す。

 ……緊張してくる。

 凄く、緊張してくる。


「行きましょう」

「はい……」

 

 余裕のない気持ちの中。俺はただ俯きながら、スズネさんの後ろへと付いていった。



 そうして、廊下の突き当たりに着いた後。

 食堂へと続いているらしい扉の前で、スズネさんはふと立ち止まる。

 

「メルルさん。顔色が悪そうですけれど、大丈夫ですか……?」

「…………」

 

 ドキドキしている。

 なんだか無償に、胸が苦しくなっている。

 呼吸が過剰になって、頭がふらふらとしている。

 ……怖い。

 ただ、そんな感情だけが沸き上がってくる。

 怖い。怖い。怖い。怖い……。


「す……いません……。緊張……して……しまって……」


 早く行かないと、スズネさんを待たせてしまう。

 それは申し訳ない事だと思う。だから、あまり心配をかけないように、もっとしなければいけないだろう……。

 俺がそんな事を思っている中。スズネさんは扉をじっと見つめてから、その場から1歩だけ後ろに下がった。


「扉、メルルさんが開けますか……?」

「え……?」

「緊張しているんですよね……。だったら、心の整理が付いてからの方がいいと思いますよ」


 別にここで、スズネさんは扉を開けてもよかった。

 やめて欲しいとも言われていないし、スズネさんがそうするなら俺はそれに付いて行くだけだった。

 けれどここで、スズネさんは俺の事を気遣ってくれていた。


「い……いいんです……か……?」

「メルルさんのペースで大丈夫ですよ」


 スズネさんは、俺へと優しく微笑んでくれる。

 昨日もずっと浮かべていた、ニコニコとした暖かい笑顔。それを見ると、俺はまた安心感に包まれる。


「……ありがとう……ございます……」


 嬉しかった。

 そして、本当にありがたかった。

 たぶん今のまま扉を開けていたら、俺は極度の緊張と恐怖の中で、他の人達との顔合わをしなければならなくなっていた。

 そして、もしそうなっていたら……。もしかしたら、一生後悔するような、そんな何かをやらかしてしまっていたかもしれない……。


 なんとなくした何気ない気遣い。

 スズネさんにとっては、ただそんなものだったのかもしれない。

 けれど俺にとって、今スズネさんがしてくれた事は、自分の人生すら助けてくれたかもしれないような事だった。

 スズネさんがここで、俺の顔色を見て立ち止まってくれるような人である事。それが、本当に良かったと思う。

 この世界で最初に出会えた人が、そんな優しい人だった事。それも、本当に、本当に良かったと思う……。


「すぅ……」


 俺は、一旦深呼吸をする。

 そして、まずは気持ちを落ち付ける事にする。


「…………」

「…………」


 スズネさんは、ただ黙ったまま、のんびりと俺がしている事を眺めてくれる。

 だから俺は、そんなスズネさんの好意に甘える形で、そのまま考え事を始める事にする。


「…………」


 どうして今俺は、こんなに不安に支配されているのか……。

 まずはそんな所から、焦らずに少しずつ、俺は考え始めるのだった。



---



 自分が何故、ドキドキとしているのか。

 それは、まあ間違いなく、この後の事への不安からく来るものだろう。


 他人と接する。

 対人恐怖症である俺にとっては、それだけでとても大変な事だ。

 しかもその上で、これから接する相手はただの他人ではない。

 これから俺は、この学園に転入する事になる。だから今から会う人達は、おそらくこれから長い時間、関わっていく事になる相手になる。


 だから、それに緊張する。

 嫌われないか、緊張する。 

 自分が愛されるか、緊張する。

 何か不備がないか。何か怒られたりはしないか。何かで幻滅されてしまったりしないか。そんな事に、緊張する。

 これから会う人達の存在。それはあまりにも大きいから、凄く緊張するのだ。


 だったら、こんな気持ちになってしまうのもしょうがないのかもしれない。

 目の前にある、この扉を開ける事。それは俺にとって、凄く重要な意味を持つ事なのだから。


「………………」


 ……いや、それだけじゃない。

 それだけが、この恐怖の大きさの理由ではない。

 確かに普通の人でも、今の俺と同じシュチューエションになれば、ある程度は緊張するのかもしれない。

 けれど俺は、その度合いがおかしい。

 普通の人は、緊張すると言ってもそこまでではないと思う。

 でも、俺はそうではない。対人関係などで何か緊張する事があった時、俺は人より遥かに大きく、不安を感じてしまう。

 俺個人の、心の弱さ。……それが、俺がここで恐怖という感情に支配されてしまっている事の、本当の理由なのだと思う。


「………………」

 

 俺は、人より不安が大きい。

 本当に、普通の人よりも遥かに大きい。

 ここまでそれが大きいと、たぶん性格的な問題だけではなく、物理的な問題とかもあるのだと思う。


 恐怖遺伝子、という単語をネットで聞いた事がある。

 人が恐怖を感じる度合いは、遺伝子によって決められているというような考え方ならしい。

 例えばロシア人は、遺伝的に、その恐怖遺伝子を持っている量が少ない。だからロシア人は、高い所で遊んだりするのが好きだったり、ロシアンルーレットなんてものを発明したりする。

 ……あまり詳しくはないけれど、確かそんな感じの話だ。


 そして俺は、それが大きいのではないだろうかと思う。

 何かに恐怖を感じる量。俺はそれが、たぶんなんか、もう生まれつき物理的に大きいんだと思う。 

 性格とか以前にまず、もう物理的に脳の構造がそうなっている。俺は自分に対して、そんな感じなんじゃないかという事を思っている。


 だって、普通の人は引きこもらない。

 普通の人は、怖すぎて他人の目を見れなかったりしない。

 怖いという気持ちが大きすぎて、自分の人生すら台無しにしてしまう事。普通の人間はたぶん、そんな事をしない。

 ……俺は要するに、まず普通のレベルに達していないのだ。


「…………っぅ……」


 ストレスが大きすぎて、変なうめき声が出る。

 ……世の中には、当たり前の事が出来ないような人がいる。

 普通だと思われる事。みんなが普通にやっている事。それが出来ないような人がいる。

 

 50点が平均点のテスト。

 それで90点くらいを取れるのが、物語の主人公というものだろう。

 それに対して普通の人は、高くても70点くらいしか取れなかったりする。そして駄目な人は、30点くらいを取ってしまったりする。

 ……けれど、そういう次元の話ではない。

 世の中にはそれで、30点を取って嘆いている人の隣で、3点を取っているような人がいる。


 30点を取って、「なんでこんなに低い点数を取ってしまったんだ」と嘆いている人。

 30点を取って、「俺はバカだからこんなに低い点数を取ってしまったよ」とそれをネタにしだす人。

 そんな人の隣で、一人だけ、壊れた世界に生きている人がいる。

 経済的な困窮。家庭内の不和。性格のせいでの孤独。そんなものからくる、慢性的な鬱や疲労。そんなもののせいで、普通の人がまず前提として確保出来ているものすら、欠落しているような人がいる。

 それによって、普通の人はたぶんもう想像も出来ないくらい、生きている世界が壊れてしまっているような人がいる。

 30点を取っている人の隣で、誰にも何も言わず、誰にも何も見せず、誰にも触れられず、誰にも気にすらされなく、誰にも笑って貰えすらしないまま……、一人で3点を取っているような人がいる。


 駄目とか、そんな一言では言い表せられないレベルの人。

 そしてその上で、そのテストとは別の所に才能があったり、ぼんやりしているけれど実は本気を出したら凄かったりとか、そういう事もしない人。

 本当にただ何の取り柄もなく、人間として普通の人が当たり前のように持っている何かが壊れてしまっているだけの人。

 頑張って、頑張って、頑張って、その人が自分なりに必死に頑張った結果の点数。

 自分の一生すらかけた、そんなテストの点数。

 それが、3点しか取れないような人がいる。


 ……俺も、そんな人間の中の一人だと思う。

 俺はそんな人達の中でも、更に上位の駄目さを持っているのかもしれないなとすら思う。


「…………っ………ぅ……………」


 自分が、ずっと引きこもりだった理由。

 それが、ただ理由だけなら、今の俺には何となく分かる。

 普通の人なら、多少の緊張はしつつも、ごく普通に開けられるこの扉。

 ……この扉が、俺にはずっと、ずっと、気が遠くなる程ずっと、どれだけ頑張っても開けられなかったのだ。


「………ぅ…………ぅぅ…………」


 苦し過ぎて、段々と涙が出てくる。

 俺はどうして、ここまで心が弱いのだろう。

 世の中の凄い人たち。そんな人達は、大きな偉業を成し遂げたりして、煌びやかな人生を送っていたりしている。

 世の中の普通に生きている人たち。そんな人達は、会社に行ったりして、普通の人生を送ったりしている。

 それなのに俺は、ただ目の前の扉を開けるという事だけで、こんなにも苦しんでしまっている。


 普通の人間が、重量挙げの記録に挑戦している中。

 俺だけが、10キロのものを持ち上げるのに、必死になって苦労している。

 ……そんな感覚が、イメージとして湧いてくる。

 

 みんなが当たり前にやっている、大前提な事。

 冒険でもなんでもない、ただ当たり前でしかなような事。

 俺はそんな事に、苦難が、苦痛が、恐怖が、ハードルが、無理さがある。

 ……そんなものがあるのが、俺という人間なのだとただ思う。


「………………………」


 だったら、無理なのだろうか……。

 俺はこの目の前の扉を、32年間の人生の中で、とうとう一度も開けられなかった。

 そんな普通なことが、きっと殆どの人が気にも止めず素通りしてしまうような事が、俺には出来なかった。

 ……だったら、それをいきなり今日ここでやれと言われても、それはもう無理なのではないだろうか。


「…………………………」


 けれど、それでも沸き上がってくる思いがある。

 それでも、それでも、こんな俺にだって願う事くらいはある。


「…………………………………」


 ……開けたい。

 俺は、この扉をそれでも今開けたい。

 こんなにも何かを頑張りたいと思った事は、今までの人生の中で一度もない。

 別に、誰かを見返したい訳でもない。凄い能力を見せて、誰もが目を見映るような活躍がしたい訳ではない。

 ただ俺は、目の前の扉を開けたい。


「…………………………………………」


 ここを開ければ、俺は、別の生徒の人に会う事になる。

 ……仲良くなりたいと思う。

 絶対に、何があっても仲良くなりたい。

 だって、萌え4コマとはそういうものなのだ。

 萌え4コマの優しい空間。あれは何よりも、みんながお互いに仲が良くて、仲良し同士でいるからこそ成立しているのだと思う。

 だから、俺は好きだったのだ。メルルちゃんのお話が。そんなお話が沢山書かれている、あの萌え4コマというオタク向けの優しい文化が。


「…………………」


 ……だから、頑張りたいと思った。

 頑張って、この学園の人達と仲良くなってみたいと思った。

 俺はこんな人間だから、どこまでやれるのかは分からない。……けれどそれでも、目を不自然に逸らさない事とか、言葉をちゃんと交わし合う事とか、それくらいの事はやろうと思った。


 俺は女の子になりたかった。

 ここではない別の世界で、可愛い女の子に生まれ変わって、女の子しかいない学園に入って、萌え4コマみたいな青春を過ごしてみたりしたかった。

 そんな事を思うのは、俺が重度の対人恐怖症で、32歳になるまで引きこもっていたような人間だからなのだろう……。

 それは、一生叶う事は無い筈だった、夢とも言えないようなただの憧れだった。

 けれどその願いは、あの日トラックに轢かれた事で、本当に叶う事になってしまった。


 だから、後の一歩だけは……。

 自分の運命を決める、この最後の一歩だけだは……。

 ちゃんと自分の意思で、歩み出したいと、そう思った。

 

「……スズネさん」

「……はい」

「……開けますね」

「……そうですか」


 スズネさんは、今までずっと律儀に待っていてくれた。

 俺が一体どれくらいの間、この扉の前で顔を真っ青にしていたのかはわからない。

 けれどそれでもスズネさんは、俺の気持ちが少しだけでも落ち着くまで、嫌そうな顔一つすらせずに、ずっと俺の事を待っていてくれていた。


「メルルさん」


 そんなスズネさんが、俺に向かって少しだけ話してくれる。


「どうやらメルルさんは、あまり他人が得意な方ではないみたいです……。ですから今日はきっと、メルルさんにとって、とても大変な一日になるのだと思います」


 ……確かに、そうだと思う。

 俺が今日、朝起きてからやった事。

 それはまだ、着替えて、部屋を出て、廊下を歩いた事くらいしかない。

 ……けれど既に俺は、今日が始まってから凄く色々な事があったような気分になっている。

 たったこれだけの時間しか立っていないのに、そんな気分になっている。だったら今日は本当に、想像も付かないくらい、長い一日になるのかもしれない……。


「……ですが」


 そしてスズネさんは、またニコニコと、あの優しい笑顔で笑いかけてくれる。


「それでもメルルさんが、頑張りたいと思えるなら……。頑張って下さいね、メルルさん」


 応援。きっと、そんなものを送ってくれたのだと思う。

 スズネさんはそんな俺の事を、ただどこまでも優しく、気遣ってくれていた。


「……はい」


 応援して貰えた。

 普通の人なら、そんなの別にそこまで感動するような事ではないのかもしれない。

 でも俺は、こんな人間だから……。

 そんな事ですら、泣きそうになるくらい嬉しかった。



 そして、俺は目の前の扉に手をかける。


「……よし」


 もう、決心した。

 なんというか、腹をくくった。

 だから、さっきまでよりは大丈夫だと思う。

 これから始まる、きっと凄く長い一日。俺はそれに対して、少なくとも頑張りたいとは、心の中で強く思う。



 優しい世界で萌え4コマみたいに過ごす事。

 そんな憧れを、胸の中に抱きながら……。

 今までずっと、ずっと開けられなかった扉。その扉を、俺はやっと開けていたのだった。

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