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3話 赤い月の灯りの下で

 辺りは殆ど真っ暗だった。

 空には赤い月が見えていて、俺はメルルちゃんの体になっていた。


「何だ、これ……」


 今の状況を整理する為。俺は改めて、自分の身に起こった事を考えてみる。 


 まず、さっき俺が夢だと思っていたもの。

 あれは本当は、……にわかには信じがたい話だが、どうやら夢ではなかったらしい。

 だったら、ついさっき俺が会話していたあの黒い炎は、もしかしたら本当に、神様的な存在だったのかもしれない。

 少なくとも、確実に超常的な存在であった事は間違いないだろう。そうでないと、俺がメルルちゃんになっている事と、空に赤い月が浮かんでいる事に説明が付かない。


 なら俺は、あの神様(仮)と、一体どんな話をした……?

 そんな事を改めて、頭の中で少しずつ整理していく……。 



 あの神様(仮)に対して、俺がはっきりと望んだ事は3つだった。

 メルルちゃんになりたい。女の子が数人いるだけの学校に入りたい。魔法が使える世界に行きたい。その3つだ。

 それから、流れで決まった事も2つあった。

 スペックは出来る限り高くする。言語の自動翻訳機能が働くようにする。

 それから後は、手鏡も貰ったっけな……。


「何の役に立たないだろうな……これ……」


 あれがマジなんだったら、もっと色んな事を願っておけばよかった……。

 今更、そんな事を後悔をする。


「いや、でもまあ、十分なのか……?」


 けれど、そんな事を思い直す。

 だって、適当に受け答えしただけけれど、俺にとって一番大切な望みはちゃんと全部伝えていたと思う。

 メルルちゃんみたいになりたいという事。女の子しかいない学園に入りたいという事。そんな俺の全てである願いを、ちゃんと伝えていた。


「…………」


 女の子になりたい。

 ここではない世界に行きたい。

 女の子しかいない学園に入りたい。

 萌え4コマみたいな青春を送りたい。

 一生叶う事はない筈だった、夢とも言えないようなただの憧れ。

 そんな願いが、少なくとも今、既に2つ叶っている。俺は今、メルルちゃんになっていて、おそらくもう既に元の世界ではない世界にいる。


「…………かな」


 周囲の景色は、どこまでも暗い。

 けれど、全く何も見えない訳ではない。

 月が凄く大きいので、その月灯りのおかげで、本当に何となくだが、ぼんやりと何があるのかが分かる。

 だから、そんな僅かな光を頼りにして、俺はふらふらと歩いていく。


「……救われて……いいの……かな……?」


 現実感のない気持ちのまま。俺はただ、前に向かって歩いて行った。



---



 そうして、少し歩いた後。

 道の途中に、ぽつんと女の子が立っていた。

 暗くてよく見えないが……。その子は、女の子らしい清楚な感じの容姿をしていて、今の俺と同じくらいの背丈をしていて、パジャマを着ていて、そして、空に浮かぶ赤い月を眺めていた。

 赤い月に照らされているのもあるのだろう。その女の子はどこか、神秘的な雰囲気を纏っているように見えた。


「…………」


 怖くて少しだけ迷ったが……。

 とりあえず俺は、その女の子に声をかけてみる事にした。


「…………あの」


 声をかけられた事で、その女の子はぼんやりと、こちらへと振り向いた。

 そして俺の姿を眺めたまま。その女の子は何故か、まるで幻でも眺めているようにぼーっとしていた。


「……あの……えっと……」


 ちゃんと反応してくれているのか分からなかったので、俺は改めて、声をかけてみる。 


「……ああ、す、すいません。どちら様でしょうか?」


 するとその女の子は、何故か少しだけ慌てつつも、俺へと返事をしてくれた。

 ……どうやらとりあえず、会話は成立するみたいだ。


「えっと……」


 とりあえず、俺は怪しいものではないと伝える為に、自己紹介でもしよう。そんな事を思って、俺は普通に口をひらく。


「俺は、岩――――」


 岩倉智樹って言います。

 そんな事を、メルルちゃんのボイスで言おうとして、そして自分自身の本能に、おいちょっと待てと止められた。


「いわ……?」

「ああ、えっと……」


 何故自分の口が止まったのか、それを理性で考えてみる。そして、一瞬で理解する。

 俺の名前は岩倉智樹です。そう自己紹介して、どうするんだ。

 俺は32歳の中年男性で、つい数ヶ月前までは引き篭りニートをしていた、社会のゴミクズみたいな存在です。なんて話してどうするんだ。

 そうじゃない……。俺は、そんな自分でいる事が嫌で嫌でしょうがなかったから、あの神様(仮)と話している時、真っ先に願ったのだ。……自分は、メルルちゃんみたいになりたいと。

 だから、俺は言い直していた。


「……私は、メルルって言います」


 そう口走ってから、自分で理解していた。

 俺はこれから、この世界ではずっと、岩倉智樹としての自分を隠して、メルルちゃんとして生きようとするのだろうなと。


「メルルさん、ですか……」

「はい」


 その女の子は、俺から教えられた『私』の名前を反芻する。メルルという、そんな名前を。 

 疑っている様子はなかった。自分がメルルという名前だと名乗って、それが疑われる事がない。何とも不思議で、おかしな感覚だった。


「それでメルルさんは、ここで何をしていたんですか……?」


 その女の子は、俺がメルルという名前だと信じた後。次に、そんな質問をしてきた。


 ……何をしてるか、か。

 時給900円の工場から帰ってたら、何か異世界に転生してました。俺の身に起こった事を正直に話すと、そういう感じになるのだろう。

 けれど、それを言う訳にはいかない。俺は、岩倉智樹ではなく、メルルちゃんになりたい。だから神様(仮)の事とかは隠さなければならない。


「え……えっと……」


 しかし、黙っている訳にもいかない。

 何故なら、ここで何かを言わないと、会話の流れとして凄く不自然だからだ。

 だから俺は、今ここで嘘を付かなければならない。自分が今ここで何をしていたのか、そんな事を考え出さなければならない。

 考えろ……。この何処だかもよく分からない場所に、何故俺がいるのかという理由……。


「……すいません、自分でも分からないです。気がついたら私、ここにいて」

「気がついたらここにいた、とは……?」

「私、何か記憶がないみたいなんです。だから、えっと、色々分からないんです。自分がどうしてここにいるのかとか、自分が何処からきたのかとか、そういう事が何も……」


 とりあえず、とっさに思いついた、色んな事をごまかせそうな設定を喋っといた。

 ……自分で言っといて何だが、かなり酷い設定だ。こんな奴、怪しい以外の何者でもないだろう。


「……そうなんですか」


 しかしその女の子は、何故か、それで納得してくれている様子だった。

 もしかしたら、あんまり人を疑ったりしないような性格なのだろうか……? それとも単に、この世界では記憶喪失が起こる事はそんなに珍しい事ではないのだろか……?

 俺が頭の中でそんな事を考えている中。その間にも目の前の女の子は、引き続き俺に対しての質問を続けていく。


「ところでメルルさん。先ほどから、あなたの体内に、魔力のようなものがあるのを感じます。もしかしてあなたは、魔法が使えるんですか?」

「魔法……?」


 何を言われているのかよく分からなくて、俺は首をかしげる。


「……?」


 すると相手の女の子も、何故伝わらないのか分からないと言った感じで、首をかしげる。


「ああ、えっと……。お、じゃない、私は、記憶がないみたいなので、魔法というものがよく分からなくて……」


 一瞬俺と言ってしまいかけたが、何とか取り繕いつつ、記憶喪失で忘れているという事にしておく。


「そうだったんですか」


 かなり怪しかったかもしれないが、その女の子は何とか、普通に俺の言葉を信じてくれた。


「見ていて下さい」


 そう話した後。その女の子は、宙に向かって手をかざした。


「……魔法とは、こういうもののことです」


 そして手の平から、何もせずに火を灯した。

 火の灯りが、暗かった周囲を少しだけ照らす。それは明らかに、物理法則を無視したような現象だった。


「すごい……」


 確かに、これは魔法だ……。ここが地球の世界では無いのだと、そんな事を改めて確信する。

 そういえばさっき、俺は神様(仮)に対して、魔法のある世界に行きたいみたいな事を話していた。……だから俺は魔法がある世界に来たのだろう。

 俺がそんな事を考えている中。その女の子はその間に火を消してから、再び俺へと話しかけてくる。


「メルルさんも、これが出来たりしませんか?」


 出来ませんけど……。

 一瞬そう言いそうになったが、口を開く前に思い直す。

 さっきの神様(仮)との会話の中で、俺は願っていた。生まれ変わった先の俺は、出来る限りハイスペックな状態にしておいて欲しいと。

 だったら、使えたりしないだろうか……? だって明らかに、使えた方がハイスペックなものだろう。これは。


「……魔法って、どんな感じにすれば使えるんですか?」


 とりあえず、そんな事を尋ねてみる。


「普通に、念じれば出来ますけど」

「念じるとは……?」

「えっと、イメージをするんです。例えば、さっき私がやったのだと、手の平から火を出すイメージです」


 なるほど、イメージか……。


「えっと、やってみますね……」

「はい」


 イメージをすれば魔法が使える。

 そんな情報を頼りに、俺はとりあえずチャレンジしてみる事にする。

 えーっと……。手の平から火を出すイメージ……。手の平から……火を出すイメージ……。


 宙に手をかざし、そんな事をイメージしてみる。

 すると、体の内側から何か、力のようなものが沸き上がってくるのを感じた。

 よく分からかないが、これを放出したらいいのではないだろうか……?

 直感で、何となくそう感じたから、俺はそのまま湧いてきた力を解き放った。


「おおっ」


 すると、さっきその女の子がしたのと同じように、俺の手の平から火が現れれた。

 その火は、少しの間ユラユラと燃え続けた。そして、俺がイメージするのをやめたら、その瞬間幻だったように消えていった。


「……えっと、出来たみたいです」


 そんな事を呟きながら、隣にいる女の子の方へと振り向く。

 するとその女の子は、何故か、凄く目をキラキラとさせていた。


「メルルさん! やはり、あなたも聖女だったんですね!」


 そしてまた、そんなよく分からない事を話してきていた。


「聖女……?」


 魔法以上に、よく分からない単語だ。

 一体、どういう意味なのだろうか……?

 俺がそんな事を疑問に思っていると、その女の子は意外そうな顔をする。


「ひょっとして、聖女が何かも分からないのでしょうか……?」

「はい、まあ……」

「……本当に、何も記憶がないのですね」


 その女の子はまるで、当たり前の常識が通じなかったみたいな反応をした。

 どうやらその聖女というものは、この世界の中では、知らないなんてありえないという感じのものだったらしい。

 これだけ通じない事が出てくるとなると、自分が記憶喪失って設定にしといたのは、案外ファインプレーだったのかもしれないな……。

 俺が頭の中でそんな事を思っている中。その女の子は律儀に、聖女というものについての説明をしてくれる。


「えっとですね……。この世界で魔法を使える人は、200万人に1人くらいしかいないんですよ。そして魔法を使える人は、必ず女性しかいないんです。ですので、魔法を使える人は聖女と呼ばれていて、とても奇異な存在として扱われているんですよ」

「へー……」


 何気に、衝撃的な情報だ。

 200万人に1人くらいしかいない。それは日本で例えると、国民全部を見渡しても60人くらいしかいないって事だ。

 という事は、俺や目の前にいるこの女の子って、ひょっとしてとんでもなく特別な存在なんじゃないだろうか……。

 俺がそんな事に驚いている中。その間にその女の子はまた、俺に対して新しい疑問を投げかけてくる。


「というかメルルさんは、それを知っていて、ここに来た訳ではないのですか……?」


 やばい。質問の意味が全く分からない……。

 聖女の事を知っていたら、ここに来る事になるのか……? ここは何か、魔法にでも関係する場所なのか……? というかそもそも、さっきからずっと疑問だったのだけれど、俺は今どういう場所にいるんだ……?

 全然分からないから、とりあえず誤魔化しておく事にする。


「いや本当に、私は気が付けばここにいただけで、だから何も分からないんです……。というかそもそも、私が今いるこの場所って、一体どういう所なんですか……?」


 するとその女の子は、ただ素直に、ここが何処かだけを答えてくれる。


「ここは、ルリミピス聖女学園という場所です。魔法を使える人が、色々な事を学ぶ為の学園なんですよ」


 学園。

 そんな単語に、俺の心が反応する。


「え、えっと……、こ、ここって、学園なんですか……」

「はい、そうですよ」


 俺は改めて、辺りを見渡してみる。

 辺りの景色は、相変わらず、暗くてぼんやりとしか確認する事が出来ない。

 けれど、俺はそれでも頑張って、よく目を凝らして周囲を見てみる。

 すると言われてみたら確かに、自分がいる場所は、何か学園の運動場みたいな場所に思えなくもない気がする……。

 校舎に当たる建物は、暗すぎるせいで確認する事は出来ない。けれど別に、こんな嘘を付かれる理由も思い当たらない。だからたぶん、その言葉は事実なのだろうと思う。


「学園……だったのか……」


 俺が神様に望んだ、3つの願いの内の1つ。

 女の子が数人いるだけの学園に入りたい、という願い。

 その学園はもしかしたら、俺が今立っている、この場所の事なのではないだろうか……? 

 だって、そうだろう。さっき目の前のこの子は、聖女は女しかいなくて、とても数が少ないと言っていた。そしてここは、その聖女が勉強をする為の学園だと言っていた。

 だったら、その聖女学園とは、俺の要望を全て兼ね備えている事になる。

 女の子が数人いるだけの学校、という事になる。

 ……興奮しながら、俺は尋ねる。


「この学園って、生徒の数は何人くらいなんですか?」

「5人ですれけど」


 5人……。


「聖女の人は、全員女の人なんですよね?」

「はい。聖女になり魔法が使えるようになるのは、先ほど言った通り、女性だけですので」


 女の子だけの学園……。


「あのっ……」


 興奮を抑えきれないまま、俺はその女の子へと尋ねる。


「じゃあ俺……じゃないっ、私って、この学園に入学したりする事が出来るんです……か……?」


 うおお、や……やばい……、焦って思いっきり俺って言ってしまった……。

 目の前の女の子は、突然『私』が俺と言い出した事に、一瞬不思議そうな顔をしていた。

 ……しかし。とても幸いな事に、あまり気にせずに会話を続けてくれた。


「はい。というか、嫌でも入る事になると思いますよ。聖女は聖女学園に入らなければならない、そう法律で決まっていますから。……メルルさんが入学すれば、この学園の生徒の数は6人になりますね」


 マジか……。

 マジか…………。

 マジなのか…………。

 自分の憧れが、もはや確定的に現実になる。

 そんな事を認識し、その認識が現実味を帯びてきた時。俺のテンションはピークに達した。


 なんだよこの状況。

 こんなの意味分からんぞ。

 ついさっきまで、俺はゴミだった。

 底辺として、社会の底辺を、ただ底辺らしく這いずり回っているだけだった。

 それは生まれた時から、ずっとそんな感じだった。だから、俺は救われたいと思いつつ、本当は救われる事なんてないと心の中で理解さえしていた。諦観と共に、そんな現実を受けざるを得ない。それが俺の人生の全てだった。

 何も幸せな事なんてないまま、そのまま終わる筈だった。

 どんなに憧れても、憧れに手なんて届かない。違う自分になって人生をやり直したりなんて、そんな事は出来ない。それが俺の世界というものなのだと解っていた。


 それが、何だろう。

 気が付けば、俺はメルルちゃんになっていて……。

 今までとは違う世界に、生まれ変わっていて……。

 ついでに、魔法なんかも使えるようになっていて……。

 そして、今まさに目の前に、きっと自分の居場所になってくれるような場所が広がっていて……。

 だから、俺はきっと、この場所でもう一度人生をやり直す事が出来て……。

 ……何だよそれ。ありえないだろ。ありえるのか。ありえてしまっていいのか。

 …………ありえて、くれるのか?


「マジか……マジ……か……」


 冗談みたいな状況に、俺はすっかり浮かれていた。


「あの……、ところで、メルルさん……」

「あ、す、すいません……。何でしょうか……」

「……先ほどから、ずっと気になっていたのですけれど」

「はい?」


 ……だから、その女の子が次に話す一言が、俺は全く予想出来ていなかった。


「どうしてずっと、私と目を合わせてくれないのでしょうか……?」

「……え」


 言われて、始めて気が付いた。

 この子に会った時から、俺はまだ一度も、この子と目線を合わせていなかった。

 相手と話しているのに、その相手の足元だけを眺めていた。

 癖になっていたのだ。他人と目を合わせない事が。……それはもう、俺にとって常識みたいなものになっていた。


「あ、す、すいません……」


 俺は、とっさに顔を上げた。

 そうしないと駄目だろうと思った。

 他人に対して失礼だし。それに、それ以外の思いもあった。

 メルルちゃんは、対人恐怖症なんて患っていない。だから、俺がメルルちゃんであるならば、人の目線を避けるような事をしているのはおかしい。


 ……しかし、俺は見てしまった。

 そこに、他人の目がある事を。


「……っ」


 恐怖を感じた。だから、目を逸らした。


「ぁ……」


 ほぼ条件反射で、一連の行動を終えた後。

 一瞬で変な事になった空気と、激しい後悔だけが、俺の感情を飲み込んでいった。

 何やってるんだ馬鹿。ただただ、そんな事だけを思う。

 しかし、一度目を逸らしてしまった以上、簡単に目を合わせるのも不自然な気がして、それ以上何もする事が出来ない。


「…………」

「…………?」

「…………」

「…………」


 沈黙。

 気まずい沈黙によって、俺の感情が狂わされていく。


「その……俺……」

「……?」


 何か話して、ごまかさなければいけない。

 そんな事を思ったのだろう。

 その女の子の足元を眺めたまま、俺はとりあえず声を発した。

 しかし、その声はとても震えていた。それは、メルルちゃんがおおよそ出していいものではないような、うわずった、恐怖に塗られた声だった。

 その声を聞くと、体まで震えてきた。


「……ぁの……俺……っ……ぁの……っ……」


 メルルちゃんの声色で、異常な感情の篭った声が漏れる。

 そして段々と、心に現実が襲いかかってくる。


「……ぁ……」


 俺はさっきまで、一体何を舞い上がっていたのだろうか?

 俺は本当は、人と目を合わす事すら出来ないような人間なのだ。

 今震えている、醜くて、情けなくて、綺麗さや純粋さとはあまりにもかけ離れた存在。これが、本当の俺の姿なのだ。

 それなのに、これから幸せになれるなんて、どうして一瞬でもそんなおこがましい事を考えてしまったのだろうか……?


「……よく……分かりませんけれど……」


 俺が何も出来ないでいると、その女の子が、俺の傍へと近寄って来た。

 そしてそのまま、ぬっと、俺へと手を伸ばしてきた。


「ひっ……」


 触られる。

 何かをされる。

 だから、そんな事が怖くて、俺はとっさに体を縮込めた。

 そして、その女の子がとった行動。……それは、抱擁だった。 


「何か、悲しい事があったんですね……」


 俺を抱きしめた後。その女の子はただ、俺を優しく抱きしめ続けた。


 その時の俺は、魔法が使えた時よりびっくりしていた。

 だって、魔法とかはまだゲームとかで使った事がある。夢とか妄想の中で、バンバン撃ってた事がある。

 だから、それ以上に、生まれて初めてだった。不安な気持ちでいる時に、人に抱きしめて貰った事なんて。

 魔法以上に、遠い世界の事だと思っていた。自分の気持ちを、誰かに分かって貰えたような気になれるなんて。

 ……それはもう、あまりにも遠い世界の話すぎて、もはや憧れすらしていなかった。


「…………ぁ……」


 冗談みたいに、涙が溢れた。

 変だと思うから、直ぐ泣き止もうとする。けれど、安心とか、希望とか、そんな一生手が届く筈のなかった感情が、一気に揺さぶられ過ぎたのかもしれない。

 その涙は、しばらくの間、簡単には止まってくれなかった。

 その女の子は、初対面の相手にいきなり泣き出されたのに、何も言わず、ただ俺を抱きしめたままでいてくれた。



---




 やっと気持ちが落ち着いてきた後。

 俺は、その女の子と改めて話をしてみる事にする。


「……その……、あなたは……、名前はなんて言うんですか……?」

「私は、スズネって言います」


 この女の子の名前は、ズスネさんというらしい。


「……きっと長い付き合いになると思いますけれど、これからよろしくお願いしますね、メルルさん」


 スズネさんは、俺へと笑いかけてくれた。

 泣いている時に、こんな風に笑いかけて貰えるなんて、夢ですら想像出来なかった。

 さっきスズネさんが抱きしめてくれた事。それはたぶん、空っぽだった俺の人生の中で、一番嬉しかった事だった。

 だからなのだろう。俺はこの人を見ていると、とても温かい気持ちになれた。

 俺はスズネさんに対して、とても大きな好意を抱いていた。


「とりあえず、先生に会いに行きましょう。寮の中にいるので」


 そう告げた後。スズさんは、夜の道を歩いていく。

 俺は少しだけ、それに付いて行く事に躊躇してしまう。


「……来ないんですか?」

「あ……え……えっと……」


 何となく、思ったのだ。

 俺は本当に、この人に付いて行っていいのだろうかと。

 ……だって、俺はアレだ。

 簡単に言えば、美少女になっただけのコミュ障ゴミ人間だ。

 何の取り柄もなく、生まれつき対人恐怖症で、ただ32歳になるまで引きこもり続けたような人間。

 しかもその上で、ごく稀にいる人みたいに、引きこもりだった割りには何故か妙に気が強かったりもしない。駄目な人生を送っていたけど、何時か周囲を見返してやりたいとも思っていた……、みたいな強い向上心を持っていたりもしない。引きこもりだった筈なのに根っこの部分では何故か能天気で、どんな状況になってもなんとなく自己肯定感に満ち溢れている……、みたいな事も全然ない。

 唯一俺にあると思えるもの。……それはたぶん、萌え4コマが好きだったという気持ちくらいしかない。


「………………」

「………………」


 俺は確かに、萌え4コマみたいな世界に生まれ変わりたいと願った。

 そして、その願いは唐突に叶ってしまった。

 ……けれど、こんな人間にこれから一体、どんな事が待っていてくれるというのだろうか。


「……行きましょう、メルルさん」

「あ……、は……はい……」


 スズネさんは、俺の手を取った。

 だから俺は、導かれるような形で、そのままスズネさんの後ろを歩いて行った。



 どこまでも広がる、真っ暗闇な場所の中。

 そんな世界を、赤い月の輝きだけが、ほんの僅かに照らしている。

 それは、決して満足な光源ではない。だから辺りの景色は、本当にぼんやりと見える程度でしかない。

 そんな、明かりとも言えないような、赤い月の灯りだけを頼りに……。

 俺達は、どこかへと向かって歩き始めていたのだった。

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