名
すっ飛ばしています。
「御使い様、どちらまで行かれますか」
「御使い様、次は何をなさいますか」
「御使い様、こちらのお召し物はいかがでしょう」
「御使い様、こちらの甘味などお食べになりませんか」
「御使い様」
「御使い様」
神殿奥部の一角では、通常の静謐さが見られず、今では人声の絶えない現状であった。
たった一人の女性をあれやこれやともてなしていた。
(贅沢な生活だなぁ。私なんぞに勿体無い。姫生活、思っていたほど気が休まらないもんだね。ちょっと構われすぎて鬱陶しいし。そんなこと思っちゃお世話になっとるのに悪いんだろうけどね)
何人かの付き人がいたが一人になりたいと離れてもらった。
(何も役に立ってないのに我儘放題だな)
苦笑いがこみ上げる。
少し歩くと庭に出た。心地良い日差しと風を感じる。目を細めて自然を感受する。
「元気そうだな、女」
不遜な声音に振り返り言い返した。
「あのねー、私にはっ……」
言葉が途切れる。
「私には……」
「どうした?」
エメスは常とは違う様子の女を見やる。いつものやり取りだったはずだ。
エメスが『女』と呼びかければ『私には名前があるんだから名前で呼べ』と。
それが七日前までのこと。エメスはこの一週間、事後処理に駆け回っていた。情報伝達、管理、警備体制の編成に、本質を理解できていない馬鹿共への教育的指導など。
その間、守ると約束はしたが神殿奥部では神に仕える者たちの中でも上層にいる者たちで『神の御使い』に対し害意を持つ者はいないので安心して残務処理に離れていたのだった。
(この一週間に何があった?離れたのは失敗だったな)
エメスは舌打ちを漏らすと女に近付く。
「……私の……わたしの……」
青褪めた顔、震える体を自らの細い腕で強く抱きしめていたが震えは治まっていない。その姿は何か悪いことが起こっているのを知らせる。
エメスは徐に女の顔を両手で挟むと目を合わせるように上向かせた。その顔を見て、息を呑んだ。
(なんて顔してやがる)
エメスは後悔した。離れるべきではなかったのだ。
女は青褪めた顔をしていた。震える唇は浅い呼吸を繰り返す度、小さく開閉している。潤んだ瞳は揺れ、不安定さが溢れている。
(このままスッと消えそうだ)
エメスは不安に駆られ手に力を込めた。縋るように見てくる目から視線は逸らさないように。
深く息を吸い込み、声を出す。
「何があった?何でもいい言ってみろ」
浅い呼吸を繰り返すと声を絞り出す。
「……わたしの……なまえ、よんで」
「名前?」
「よんで、なまえ。わからないの、わたしっ自分の名前わからなくなっ」
「ミヤコ。お前の名前はミヤコ・ヤマダ。ミヤコ・ヤマダだ」
叫ぶ彼女を強く抱きしめ何度も名前を呼ぶ。落ち着くように背を繰り返し撫でる。
「みやこ、やまだみやこ……山田都。米司と明美の娘。都、だ。私の名前、つけてくれたなまえ」
「そうだ。ミヤコ。お前の名前だ」
「私の名前、忘れたくない……何も忘れたくないよ……覚えていたいよぉ……」
溢れる涙はそのまましがみつく彼女を抱き締め続けた。その涙が止まるまで、ずっと。
空には淡く光る星、その中の二つ小さな叶え星が輝いていた。
一つは忘れることを願われたもの。
一つは覚えていたいと願われたもの。
忘れることを願われた星は徐々に輝きを減らしていく、やがて小さな光は大きな輝きを持つ星に吸い込まれていった。
涙を流し願われた思いは叶えられた。
彼女に名は、家族の姿は返された。
ざっくり行きます。
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