主婦子さんと冬の魔物
オコジョは可愛い。可愛いは正義。あと、コタツは魔物。
吾輩は主婦である。
名前はまだない。
嘘だ。
だが、結婚してまだ一年、新米主婦に名乗る資格などない。
「主婦子さーん(仮名)、主婦子さーん、俺、もう寝るから」
わが愛しい旦那様が、書斎から顔をのぞかせて声をかけてくる。
今週の旦那様は夜勤で働いている。
日はまだ高いが、夜勤で12時間労働の旦那様にとって、睡眠は健康的な食事と同じくらい大切だ。
旦那様ににっこり笑ってから、吾輩は洗濯したバスタオルを干す作業に戻る。
某電力会社の「耳長騎士10」プランに加入しているため、夜間に洗濯をしたほうがよいのはわかっているのだが、夜勤明けの旦那様が帰宅してからまとめて洗濯をしたいので、割高だと思っていても、ついつい今日くらい…と言い訳しつつ洗濯機を回してしまう。
目下のところ、吾輩の悩みなど、「お値段以上ニチョリ」のキッチンマットよりも、かわいいが値段はいまいち可愛くない「鐘メゾン」のキッチンマットを買おうか迷うことくらいの、平和で幸福な主婦生活を満喫している。
旦那様と吾輩の間にまだ子供はいない。
現在、我が家にいるのは、小鳩のようにかわいい旦那様と、吾輩と、冬の魔物のみである。
冬の魔物は、旦那様が雪が降る季節になると、いそいそと押入れから出してくる。
こやつは様々な魔法を使うのだが、特筆すべきはその恐ろしいまでの睡眠導入効果である。
ちょっとした精神科のお偉い先生が処方してくれる導入剤より効果的な魔法を駆使してくる。
ちなみに我が家の冬の魔物の出身地は先述した「お値段以上ニチョリ」である。
しまった。
吾輩は、旦那様の靴下を干しているときに、ようやく気が付く。
冬の魔物の中に吾輩の、脱いだ靴下を洗濯し忘れたことに。
冬の魔物はぬくぬくと獲物を抱え込む巧妙な捕食者であるが、奴は自分の生息圏内に様々なものを集めることを良しとする。
リモコンとか、雑誌とか、冬の味覚のお蜜柑さまとか。
そうして獲物を快適な環境下におき、すかさず発動する睡眠魔法。
ぬくぬく。すやすや。
しかし、冬の魔物の体内はともすると熱くなりすぎてしまうため、吾輩は時々そこに囚われたのちに、つい自分の靴下を脱ぎたくなってしまうのだ。
仕方がない。
吾輩はため息をつきつつ、靴下を回収せんと、冬の魔物の肌をまくる。
ホカホカした空気に手を突っ込んで、暗闇をさぐる。
ぐにゃりと柔らかいものは、目的の吾輩のあったか靴下(ポリエステル製)であろう。
ぬいぐるみにもよく似た感触のそれを引っ張り出す。
「ミュウ」
…。
あったか靴下をつかんだはずの吾輩の手には、見たことのない生物が掴まれていた。
猫ではない。犬でもない。オコジョさんや、ウサギでもない。
が、それらに共通するなんらかの保護欲を掻き立てる生物である。
色は、吾輩の靴下と同じようなサーモンピンクである。
「靴下が…不思議生物になった…?」
いやいや、落ち着こう、吾輩。
現在、子供はほしいが、子供はできない。だからといって、今ここでお猫様を飼ったら、なんだか一生子供ができない気がする、という吾輩の思いで、憧れのお猫様との生活を諦めているくらいだ。
だからといって、お猫様を飼えない不満によって靴下が不思議生物に変わるわけがない。
靴下は靴下だ。
魔法は使えない。
目の前の不思議生物は、暴れもせずにこちらを見つめている。
黒目がちというより、白目の見当たらぬ容貌は、オコジョさんをほうふつさせる。
ひげはなく、鼻もない。
なんだか、あれだな。某太鼓の達人にこんな容貌の太鼓、いたような…
不思議生物を、そっとカーペットにおろして、吾輩はもう一度冬の魔物の中を探る。
ホカホカ空気はもったいないが、そんなことを言っている場合ではない。
皮を大きく持ち上げると、魔物の脚(木目調)の横に固まる吾輩の靴下があった。
ちゃんとワンペア(右足用+左足用)そろっている。
「靴下突然変異説は却下された…」
吾輩はつぶやくと、もう一度、不思議生物を見た。
「ミュウ」
鳴いている。
撫でてみる。ふっさふっさ、もっふもっふ。
…絶妙である。絶妙なモフモフ加減である。
この恐ろしいまでの魅力の持ち主。もうなんというか、スキル:魅了 みたいな。
たかが新米主婦では、この不思議生物から出される神スキル(魅了)には到底太刀打ちできない。
旦那様に報告したいところだが、今は旦那様にとっては貴重な睡眠タイム。
邪魔はできない。
お弁当すら冷凍食品のお世話になっている吾輩にとって荷が重い問題ではあるが(つまりはお弁当問題でさえ、他者の冷凍保存魔法に頼っている新米主婦)、ここで引いては駄目な時くらいはわきまえている。
この問題を解決せねばならぬ。
吾輩は、ぐっと両手に力を込めた。なせばなる。なさねばならぬ、なにごとも。だから冬の魔物の中から不思議生物が出てきても…
なんとかせねばならぬのだ。
―――結果からいえば、なんともならなかった。
様々な方法を試してみた。
まずは基本として吾輩の頬をつねる…は、顔に皺ができる原因になる可能性があるのでやめて、内腿をつねってみたり(痛かった)、冬の魔物の中に、生物を入れて、戻れ戻れ―と念じて一分後、皮をまくってみたり(消えてなかった)、不思議生物に「貴方の名前は何?」と聞いてみたり(ミュウと鳴かれた)、ネットで不思議生物の返却方法を検索してみたり(不思議生物 返却 で検索してみたが、なぜか中間テストに対する文がでてきた。生物のテストの記述に引っかかったらしい)。
空振りだった。
吾輩が繰り出した技は、不思議生物の前で、まったく無力だった。
時間は過ぎてゆく。
ちょっと現実逃避してネットの海で遊びすぎたのも敗因の一つだと、いまなら潔く認めよう。
もうすぐ旦那様の目覚めの時間だ。
旦那様は朝の一食目を食べない人なので、用意をする必要はないが、それでも解決のための時間はもうあまりない。
どうする、吾輩。
とりあえず旦那様が仕事に出かけてしまえば、また時間は稼げる。
しかし、それで事態は解決するのか。
ご近所やネット掲示板に相談することはできない。前者ではしばらく回覧板が回ってきても、そっとポストに入っているだけ、もっていっても応答のない日々が続きそうだし、後者なら炎上と荒しコメントが続くだけだろう。
市役所に相談しても、別の心配事相談窓口に回されるだけだ。
思わぬ形で、現代社会の孤独に気が付くが…こんな問題で気づきたくなかった。いや、どんな問題でも気が付きたくなどないが…
ピピッピピッというかすかな音が寝室から聞こえる。
旦那様の目覚まし時計である。
あああ、タイムリミットが来てしまった…
吾輩はどうしようもない無力感に襲われながらも、最後のあがきをする。
不思議生物をそっと抱き上げ、冬の魔物の中にしまう。
吾輩が物心ついてより使ってきた「都合の悪いものはしまっちゃおう」の技である。
割ってしまった母の茶碗、食べてしまった弟のチョコレートの包み紙、などなど、様々な存在に使って来た必殺スキルではあるが生物に使うのは初めてである。
旦那様が寝室で着替えて、吾輩に笑顔で呼びかけてくる。
「おはようー主婦子(仮名)さん」
「お、おはよう、旦那様…」
吾輩はちょっとひきつった笑顔で答える。
「寒いねー、あれ、エアコンつけてないの?」
「え、あ、うん、あ、コーヒー飲む?」
「うーん、じゃあ、もらおうかなあ」
洗顔に向かう旦那様を見送り、急いでエアコンをつける。
吾輩はまったく寒さを感じていなかったが(心理的圧迫は時として人間の感覚を麻痺させる)寒さを感じた旦那様が出勤前のひと時を冬の魔物の中で過ごすことになったら…もれなく不思議生物発見の夜明けとなろう。
どうして冬の魔物の中に隠した、自分!せめて押入れやリビングクローゼットなど、開けそうにない場所くらいいくらでもあったはずなのに…!!
自分で言い出した手前、コーヒーは用意せざるを得ない。
幸いなことに、旦那様は洗面所でかなりの時間を使う人だ。
対して、コーヒーは由緒正しいメスカフェ黄金ブレンドなのでインスタントで一分もかからない。
さっさと用意して不思議生物を寝室の押入れに避難させよう。
と、思っていた吾輩に、それは訪れる。
「主婦子さーん、トイレットペーパーがなくなったよー」
おうっ。
どうやら旦那様はいつもの洗顔タイムのために洗面所に向かったわけでなく、トイレに行っただけだったらしい。
あわててめくろうとしていた冬の魔物の皮を押さえつける。
もぞもぞと伝わる振動が、私の心を跳ね上げる。
「ご、ごめんね、旦那様…じゃ、コーヒーこっち、ダイニングテーブルにおいたから飲んで。トイレットペーパー交換してくるから」
そそくさとコーヒーカップを移動させながら、吾輩はテレビをつける。
これで多少の鳴き声はごまかせるはず。
トイレットペーパーをセットして戻る。
旦那様はのんびりと夜のニュースを見ながらコーヒーを飲んでいた。
セーフだ。吾輩。
「あ、しまった、今日の仕事、始めに同僚との打ち合わせが前倒しであるんだった。ごめん、コーヒーもういいや、やばい、もう行くね」
旦那様が慌ててカバンとコートを掴んで立ち上がる。
いや、むしろありがたい。前倒し打ち合わせ、ありがとう!
吾輩は心の中で旦那様の仕事の同僚に感謝を叫びながら、旦那様を玄関で見送る。
行ってらっしゃいのキスをする。
行ってらっしゃいのキスをしている家の男性のほうが出世が早いらしい。
吾輩も旦那様の有能さが会社で認められるのはやぶさかではない。
旦那様を手を振って見送り、鍵をかけ、そして吾輩はリビングに駆け戻った。
冬の魔物の皮をまくる。
そして、そこには…なにも なかった。
「え?」
慌てて周りを見回すが、不思議生物は見当たらない。
ソファの影やカーテンの裏を探す。
いない。
「…夢、だったのか…?」
吾輩は耳を澄ます。何の物音もしない。
疲れているのだろうか。夢だったのか。
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「だいたい、あなたが悪いんですよ。あきらめて長期単身赴任形態で働いてください」
メルローズはそういうが、新婚一年目で、単身赴任なんて辛すぎる。
「召喚魔法の設定が甘いんだよ、設計ミスだろ、自分で調整しろ」
セルヴァが投げやりに図面を投げつけてくる。
カバンをのぞけば、ミーミョのつぶらな瞳と目が合う。
「まさか召喚魔法で自分以外の生物もついてくるなんて思わなくってさー、いやあ、あせった…一瞬で目が覚めたよ」
俺は、ぐったりとソファに座り込む。
「おかげで顔も洗うことも、吹っ飛んだ。やばい、歯磨いてくるの忘れた。可愛い奥さんに不潔って思われてたらどうしよう」
俺の真剣な悩みにもセルヴァは「ハッ」と鼻で笑ってくる。
独り身魔法使いにはこの新婚期の悩みなどわかるまい。
「そんなクソみたいな悩みなんてどうでもいいんですよ。まだまだ魔族の残党が残っているんですから。今日もきっちり12時間、働いてもらいますからね」
メルローズがカバンの中からミーミョをつまみだし、窓から投げ捨てた。
250歳を過ぎたメルローズはエルフで結婚して150年は経つと聞いていた。
倦怠期なんかぶっちぎって、もはや同居人となっているらしい熟年者にも、新婚期の悩みは共感してもらえるはずもない。
「あーあ、なんだかなー、もう、早く帰りたいなー」
俺はつぶやいて、今日もしょうもない勇者稼業に従事することにした。
裏設定だと、主婦子さんは、勇者に記憶を消された魔王(女性)。一人称吾輩は、夏目漱石リスペクトじゃなかったっていうね。