若月
月には様々な異名と、それにまつわる恋の歌があります。
これはそれに寄せた、三日月を想う満月の話。
三日月は三日目の月
まだまだ満ちていく想い
恋情を君に
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八重桜が散る帰り道、仰ぐと、三日月が溺れていた。
空色はまだ薄く、それでも徐々に黒味を増すだろう、その時間。
水色の中の白はまだ輪郭を溶かしていて。
雲がさらにその白を隠す。
その姿は朧月というより溺月で。
ゆらりゆらるとその隙間から淡く光る姿に、今日、本棚の隙間から見えた背中を連想して泣きたくなった。
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はじまりは些細なこと。
去年の夏休み、うだる暑さからの避難所は家から徒歩5分。
古典のレポート作成も兼ねて訪れた図書館で見つけた背中だった。
レポート課題は「和歌や俳句をひとつ選び、その訳と背景、感想を書いて提出。作者や時代は問わない。」というもの。
ネットで調べずに、本で調べようとしたのは先生の言葉からだった。
「ネットでも何でも、調べればすぐに訳も背景も出てくるだろう。適当に選んでしまえばそれでおしまいだろう。でも、だからこそ、君たちの心に響いた歌を教えてほしい。」
その言葉は、ちょっとくらい真面目に調べようと自分に思わせた。
夏休みに初日に図書館に行き、和歌や俳句関連の棚を探す。
ためしに1,2冊、和歌や俳句の本を選んでぱらぱらとめくってみるが、文字が頭には入ってこず、しっくりとは来なくて棚に戻してしまった。
結局その日はその後は他の教科の宿題を進め、他の本を借りて帰った。
その後も寝てばかりいるなと家族に起こされ追い出されたので、冷房があるし、他に行きたい場所も無いので、頻繁に図書館へ向かう日が続いた。
宿題をしては合間に館内をうろうろする毎日の中で、ふいに、目が止まった。
黒い服も、背中も、普段の学生服で見慣れているはずなのに、黒い半そで姿に視線が固定される。
なぜだろうと思って気付いた。姿勢だ。あの姿勢ですぐにわかる。若槻君だ。
同級生の若槻くんは妙に姿勢がよく、なおかつ背が高めなので、後ろから見てて「びーん!」という効果音が似合いそうな背中はちょっと面白い。
その背中が今、図書館にある。やはり宿題をしているようだ。
こっそりと横から確認。うん、やっぱり。私服でもわかりやすいなあ。
ぷぷっ。
私服なのに制服のように、いいや、むしろ制服でごまかさずに、
そのかっちりした姿勢を強調している姿に笑いがこぼれた。
でも、綺麗な背中だ。
若槻くんが毎日図書館に訪れて定位置に座ることに気づいたのは、最初に見た日から3日後。
館内を移動するうちに、古典文学の棚から彼が見えることに気づいたのは更に2日後。
本と棚の作る隙間の向こう、かっちりとした姿勢が、時折ページをめくったり、消しゴムをかけるために動く。
休憩したいと思ったら、その姿を見つつ、だらだら本をめくるのが夏休みの習慣になった。
そうして更に5日後。夏休みももう後半。さすがにレポートを書いてしまうべきだ。
けれど困ったことに、いくつか気になるものはあったが、決定打に欠ける。
どうしようかと思って、ふと「彼」から視線を上に向けると、一冊の本が目に入った。
『万葉集』
写真も多く、現代語訳や背景まできっちりついてる。この本もよいかもしれない。
そうして、ぺらぺらとめくっていって、ぱらり、と、ページをめくり、目に入ったひとつの歌。
三日月の さやにも見えず 雲隠り 見まくぞ欲しき うたてこのころ
(まるで雲に隠れてぼんやりとしているいる三日月のように、貴方を見ることができないので、最近、会いたい気持ちがいっそう募るのです)
じわり、と頭の中に月の光が広がる。
何度もその短い文字たちを追い、また視線を本棚の向こうへ戻す。
この歌を詠んだ人は、想い人に会えたら、どれだけ、どれだけじっと見つめるのだろう。
雲の切れ間に月が見えるように、ちらりと隙間からしか見えなくても、目に焼き付けようと視線を離さないのだろうか。
隙間からちらちらと覗く「つき」の背中
君の背中
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そうして夏休み明け、レポートは無事提出できた。
課題の発表が授業で行われたらどうしよう、と後になってびくびくしたけど、先生は誰にも内容を発表させなかった。
ただ、「色々な歌が選ばれていたけど、やはり恋の歌も多かったな。いつの時代も人の心を動かすものだから。」と言っていたのに少し恥ずかしくなって下を向いた。
顔を上げると姿勢のいい背中が見えた。
そうして二学期からは、授業中に黒板以外にも集中してしまようになった。
淡い期待でその後も訪れた図書館の定位置で、やはり座ってるのを見て喜んで。
月曜と木曜に隙間から見える背中を通りすがるふりをしてちらり、と見るようになった。
次の年もクラスが同じなのを一人こっそり喜んで。
三日月の別名を知ったのもこのころ。何でもないことなのにときめいて。
前の席になってしまった時は、姿が見れないことにため息をついて。
ああ、困ったときに耳を掻くくせがあることも知った。目が少し悪くて、目を細めがちなことも。
全部、全部心が君に向いていく。
心の月が満ちていく。
でも、見てるだけで、見てただけで。
いつも見えていたから、月が遠いことを忘れていた。
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「明、今日は待ってなくていいよ。今日は霜降さんもいるんだし。」
「いや、女性だけだとやっぱ危ないし、勉強しながら待ってるさ。いつもより二時間くらい後でいけばいいか?」
「うん。・・・・・・へへ、ありがとう。」
「ありがとうございます、若槻さん。」
他の学校の制服を着た女の子達に名前を呼ばれて。
その人と並んで座って。
笑顔を交わして。
視界の中、綺麗なその背中がぼやけた。
ぼやける背中
ぼやける三日月
霞んで埋もれて滲んで揺れて、見えなくなっていく。
君を見つめて。
君を想って。
君に揺らいで。
君に溺れて。
君が遠くて。
心が沈んでいく。
笑顔ひとつで、こんなに怖くなるなんて。
隣に並ぶ私ではない背中
三日月を隠す雲
桜色の笑顔
春の空の溺月
それでも それなのに 胸の月はとうに満ちていて。
増した光が、淡い心の線を明確にしていく。
君が 好きです。
だから、またあの背中を見にいって。見つめて。
そうして今度は君に話しかけよう。
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満ちた恋情を君に。
霞まぬ姿の君とありたい。
ねえ、君が選んだ歌を教えて。
*若月:三日月の別名
メモのようなこの文章を読んでくださった方へ。
ありがとうございます。