第38話 魔法の言葉 ーmagic word *
ジハード編最終話です。 セラとコウヤの物語りです。
その公園は、申し訳程度に盛り上がった砂場と、ところどころ歪で今にも取り壊されてしまいそうなジャングルジムと、こぐと寂しげにきぃきぃと音を鳴らすブランコというレパートリーで構成された小さなものだった。 その中で公園の外周を取り巻く桜の木々だけは、誰かに手入れしてもらっているらしく、生気をふんだんに感じさせる青々とした葉をぴんとした姿勢で整然と掲げていた。
午後7時過ぎということもあろうか、公園内には僕の他には人の気配はなかった。 周囲を囲むマンション群の窓にはポツポツと明かりが灯っているが、その明りの下で行われているであろう家族の団欒の声やあるいはカップルの痴話喧嘩の騒音などは不思議と聞こえてこなかった。 道行く人もなく、午後7時という微妙な時間に一人でブランコに座っている地味目の男子高校生を見咎める視線はなかった。
すると、天を覆う満点の星空と相まってどこか神秘的な雰囲気の漂う空間に、一人の少女のソプラノの声が静かに響いた。
『〈海の中のような静けさ〉ってよく言ったものだよねーー……』
膝に乗せた電子端末から聞こえる声に促されるように、僕も耳をすます。
確かに人の声は一切聞こえない。 だが、人工物と自然現象との交遊によって生じる音は周囲に溢れている。 たとえば、梅雨時の夜の湿った風が寂れた遊具を撫でる音。 劣化した蛍光灯のジジジッというセミの鳴き声みたいな音。
「……雑音結構ないかな?」
『まったく、ロマンがないなぁーー』
スマートフォンの画面いっぱいに映し出された白髪の少女、セラは、大げさに首を横に振ってみせる。
『海の中でだって、水の流れる音を感じたりするかもしれないし、クジラさんの鳴き声が聞こえたりするかもしれないでしょ? だから、〈海の中の静けさ〉って完全なる無音とは違うんじゃないかなってセラは思うの』
なるほどねーと感心しながら空を振り仰ぐと、都会から離れている街の特権ともいえよう星々のきらめきが、僕の目に飛び込んできた。
こちらは〈星の海〉とでも比喩しようか、などと考えていると、視界の右端を仄かな光芒が素早くよぎった……ような気がした。
「あ……流れ星」
『えっ! うそっ、どこ!?』
セラがまるで画面から飛び出さんばかりに顔を突き出して空を見ようとするが、もちろん彼女が「えっ!」と言う間に星屑は残滓もろとも消えてしまっている。
「残念無念、また今度だね」
『うーー、コウヤだけズルい。 セラまだ一回も見たことないのに〜〜』
「僕も市内で見たのは初めてだったよ。 昔家族で秩父にキャンプに行った時は奇跡的に10個くらい見れたけど」
『はぁーー……いいなぁ、いいなぁ』
画面の中で肩を大きく揺らして頬をふくらます彼女の姿に僕は愛おしさを感じて苦笑しながら、〈流れ星ネタ〉としては定番の問いを何となしに口にした。
「セラは、なにをお願いするの?」
声に出して言ってしまったあとで、僕はすぐに自分の発言を後悔した。 セラが願うこと、つまりセラがもっとも叶えたいことは自分の手術の成功に決まっているではないか。 それを彼女の口から言わせるのは忍びない。
そう考えた僕は慌てて話題を変えようとしたが、セラが口を開くのが早かった。 ただ、その慎ましい口から飛び出したのは、予想に反して圧倒的に軽い調子で軽い内容の〈お願い〉だった。
『うーん……じゃあとりあえず最初は、VR部のみんなで秩父に行って、草原に寝っ転がって満天の星空を眺める青春ごっこしたいなぁ』
えっ、と小さく驚きの声を上げてしまった僕を画面の中からすくうように見上げたセラは、目元にちょっぴりいたずらげな気色を浮かべて、ふっふっふっと怪しげな笑い声を発した。
『〈VR部みんなで秩父で青春ごっこ〉っていう夢を叶えるためには、セラの病気を治さなきゃいけない。 だからこの〈お願い〉を叶える過程で病気も治っちゃうという、いいとこ取りなワケなのだ!』
「……それは……なんとも……奇抜な」
さすが奇想天外という言葉を体現するようなお方は考えることが違う。 〈お願い〉を叶える存在であろう神さま的なものにまで喧嘩をふっかけるようなマネを試みるとは。
ただ、さっきロマンがどうこうと僕に説いていたわりに、彼女の〈お願い〉はわりと捻くれていてロマンとは離れているような気がしないでもない。 が、僕はさすがにそこは追求しなかった。
セラは目を爛々と輝かせ、〈願い〉が叶ったあとのセカイについて夢想する。
『セラはね、治ったら色んなことするんだー。 バッティングセンターで千本ノックやったり、ケーキをお腹100倍食べたり、マチュピチュに行ったり……』
「君の夢は一体加速度何Gなんだよ?」
僕が笑ってつっこむと、セラも控えめにはにかんだ。
『平凡な夢もあるからね、ちゃんと。 たとえばーーーー』
そこで彼女の言葉が不自然に途切れた。
「……たとえば?」
僕が何となしに画面を覗きながら問うと、セラはさらに数秒ためらった後に、聞き取れるか聞き取れないかギリギリの音声でボソッと言った。
『……好きな人と、ブランコに乗ったり』
「ふーん……」
(なんと応じればいいか、とてつもなく困る……)
お見合いのような、背中がかゆくなるような沈黙が続いた。
その静寂を破ったのは、心なしかか細く震えたセラの声だった。
『コウヤはさ……』
息を呑む気配。 自分の意見をしっかりともっていて、それを口にすることにあまり躊躇いのないセラにしては珍しい。 その理由は、続く彼女の問いにあった。
『エーデルワイスと、戦ったんだね?』
短い問いかけに、僕は即座に答えられなかった。 なぜならこの問いは、先ほどの歌乃との会話の中で僕が必然的にぶつかり、向き合った事柄につながっているのだ。
セラとエーデルワイスとの因縁。 セラの抱える〈死〉の恐怖。
〈ジハード〉のあの場面で僕とエーデルワイスとの間に割って入ったセラはおそらく……いや間違いなく、僕がエーデルワイスと戦うことを望んでいなかった。 だがーーーー
「……うん」
僕は少し逡巡した後に彼女の問いを肯定した。
そもそも隠す理由が理由が見つからなかったし、それにどうやらセラは確信を持って僕に問いを投げかけたようだった。 そこには憂いたり責めたりといった感情も見られない。
また数瞬ためらうような沈黙があって、セラは次の質問をした。
『……勝ったの? ……エーデルワイスに』
今度の問いには確証はなく、伺うような調子だった。 それもそうだ。 エーデルワイスは〈エクステンドワールド〉の高校生中3位の実力をもつ剣豪であるのに対して、僕は初心者に毛が生えた程度のヒヨッコだ。 ましてや、エーデルワイスは僕が今まで一度も勝てる見込みを見出せなかったセラよりもさらに強いのだ。 勝つ可能性なんて1ミクロンもない。 セラは僕とエーデルワイスが対峙していた状況とジハードが終了した時間とを鑑みてそう推察したのだろうが、信じきれないこともムリはない。
事実として僕は、いろいろな奇跡を経た上でエーデルワイスを強制退去させてしまったわけだが、これを勝ったと言っていいのかは微妙なところだ。
そんな理由があってまたもや僕が逡巡していると、
『……ここで素直に〈負けた〉って言わないってことは、勝ったか、あらぬ方法でログアウトさせたかのニ択になるんだけどいいかなぁ』
セラがぶっきらぼうな声で、さすがの考察力をもって指摘してきた。 確かに彼女の言うとおりである。
「や、ちょっと待って。 もうちょっとシンキングタイムを……」
『もうおそぉーい!』
抵抗虚しく、僕のシンキングタイムはセラの大声によってシャットアウトされてしまった。 彼女はふんと鼻息を立てて、『……喜んでいいのかすっごい困るんだけど……』と、口の中でなにやらもごもごと呟き出す。
「あー、いやー、あれはいろいろなコトが重なりましてーー……」
僕がいかに弁明をしようかとあたふたしていると、セラは不満やら不安やらを一旦ひとまとめにして棚上げするかのように、はぁーーっと長いため息をついた。 そして、唐突に、
『……セラはね、エーデルワイスに憧れてるんだよ』
「え………?」
その告白は、僕に少なからぬ驚きをもたらした。 僕はてっきり、セラはエーデルワイスに対して負の感情を抱いていると思っていた。 〈死〉という言葉をある程度の現実味をもって交わし合う以上、ポジティブな感情を抱く余地はないように思っていたのだ。
『エーデルワイスはね、〈エクステンドワールドの高校生中三番目に強い〉っていう肩書きを持ってる。 そのことも十分にスゴイと思うし、セラはその実力にも純粋に憧れてる。 でも、それ以上に……』
セラが小さく吐息をついた。 それこそ恋する乙女のように。 その蒼穹のような瞳のきらめきは、彼女のエーデルワイスに対する憧憬を証明していた。
『エーデルワイスは一度も死んだことがないんだ。 あのセカイで』
「…………!!」
その言葉に僕が驚かないはずがなかった。 つい数刻前に、僕はまったく同じ信条をもった人物の話を歌乃から聞いたばかりだったからだ。 その人物とは紛うことなく、僕が今まさに電子の壁を隔てて語り合っている少女、セラだ。
『エーデルワイスは3位にとどまってる。 でもその〈3位〉は他の誰よりも確たるものなんだよ。 エーデルワイスは3位以下のプレイヤーには絶対に負けない。 エーデルワイスは、少しの〈奇跡〉も認めない』
だからこそエーデルワイスは3位にとどまってる。 アルフレッドとアヤメというプレイヤーには〈確実〉には勝てないからというそれだけの理由で。
「……奇跡を、認めない……」
『それだけ聞くとイヤな感じがするけどね。〈奇跡を認めない〉っていうのは、〈努力に忠実であるべき〉っていう考えの裏返しなんだよ。 ……セラと同じ〈死〉を避け続けるっていう目的のためには、ある意味では決定的に重要な事項だと思う』
そう。 確かに〈死〉のリスクを最小限にしたいならば、〈奇跡〉という不確定な要素は危険極まるものだ。 なぜなら、〈奇跡〉はリスクを最小限にする努力そのものを無に帰すのだから。
〈奇跡〉で負けるわけにはいかないから、〈奇跡〉で勝たない。 これも裏返し。
『セラにはね、エーデルワイスの気持ちがスゴくわかるんだ。 似てるんだと思う。 セラとエーデルワイスは。 ……だからセラはエーデルワイスにどうしようもなく惹かれちゃうし、どうしようもなく助けたいと思っちゃうんだ』
「……助ける……つまり、無感情、無関心な人形になろうとしてるエーデルワイスを止めるってこと?」
僕が先日の戦闘を通して感じたことを口にすると、電子の画面の中にいるセラはサファイアのような瞳をまん丸に見開いて驚き、そして片頰を膨らませてそっぽを向いた。
『コウヤはもう気づいたの!? ……なぁーんかムカつくようなムカつかないような』
「な、なんだよそれ!」
僕が画面を小突くと、セラは頰に詰めた空気をぽんっと吐き出して、「まあそこは置いといて」と軽い調子で、しかし重大な覚悟を乗せて囁いた。
『エーデルワイスとセラは似ている。 だからセラは思うんだ。 もし少しでも置かれた環境が違ってたら、今のセラがエーデルワイスで、今のエーデルワイスがセラだったかもしれない。 だからこそね、セラはエーデルワイスの〈奇跡の否定〉を止めにかかる。 奇跡は捨てたモノじゃない。 捨てていいモノじゃないって』
「…………」
なぜ、と僕は単純に疑問に思った。 〈死を避ける〉その目的のために奇跡を忌避するというエーデルワイスの理論はおおよそ正しいように思えたからだ。 セラは一体どんな理論で〈奇跡を肯定〉するというのだろうか。
『コウヤは奇跡を体験したことがある?』
突然問いが飛んできたので、僕はとりあえず自分の疑問を棚上げして記憶を遡る。
直近の例を取り出すならば、僕がエーデルワイスという圧倒的剣士を戦闘によってログアウトにまで追い込めたことこそ、まさに奇跡の産物と言えるだろう。 もっと些細なものに目を向けるとすると、中学時代の部活の大会でも優勝候補の選手が思わぬところで敗退してしまう場面は珍しいものではなかった。 僕自身、受験直前まで圧倒的に学力レベルの届いていなかった黎明高校に入れたり、そこで一生に一度出逢えるか出逢えないかというくらい素晴らしい女性たちとこうして出逢い、日々を共にしている。 おみくじで3年連続末吉を引いたこともある。 ……いや、これは別にありえないことじゃないか。 僕のキャラか。
『ふんふん……』
僕がたどたどしく並べあげたそれらのいくぶんスケールの小さい〈奇跡〉を、セラは真剣な顔で聞き、吟味して、質問を重ねてきた。
『じゃあさ……コウヤはその奇跡は、何が呼び寄せて、何が呼び覚ますと思う?』
「奇跡の要因……?」
抽象的すぎる問いかけに、僕は思案しながら口の中で色々な言葉を転がしてみる。 しかし、あまりしっくりくるものはない。 〈努力〉……とかではありふれている気がするし、なんだかこの場では軽薄な気がする。 そもそも、奇跡を起こさないと勝てないほどの相手なら、自分と同等かそれ以上に〈努力〉をしているはずなのだ。 それなのに奇跡が自分にしか適応されないというなら、それはいくぶん不公平だ。
1分ほど考えたあとで、僕はお手上げのポーズをした。 それを見たセラは、なぜか満足そうに微笑んで答えを教えてくれた。 ……〈答え〉と言っていいのか、途轍もなく怪しい〈答え〉を。
『そんなのは未知だよ。 奇跡って力自体が未知であるように。 未知未知、みーんな未知。 このセカイは、未知で溢れているのです』
画面の中の彼女は、電子の壁を超えて、星空から落ちてくる何かを受け止めようとするかのように両手を広げた。
『それは努力が引き寄せるものなのかもしれない。 友情が引き寄せるものなのかもしれない。 愛が引き寄せるものなのかもしれない。 憎しみが引き寄せるものなのかもしれない。 ……とにかく、実態はどこまでいっても掴めないの。 でも確かに存在する、不思議な力。 時に神秘的で、時に残酷な力。 だからこそ、この世界は、そしてあのセカイはキラキラしてるんだ。 主人公が絶対に勝てない物語なんて読み飽きちゃう。 悪役が絶対に勝てない物語なんてカカオ120%のゲキ苦チョコレートだよ。 これとおんなじ。 奇跡のないセカイでは、すべての戦いは予定調和の虚しいものになっちゃう。 すべての絶望は、救いようのないままに終わっちゃう』
たしかにね、と。 セラは声をひそめて言う。 自分に確認するように。
『たしかに、未知は怖いよ。 奇跡は怖いよ。 でもセラは、未知のないセカイの方がずっと怖い。 奇跡のないセカイの方がずっと怖いんだ。 ……だからセラは奇跡を肯定する』
「……それは…………」
セラの主義を、信念を、彼女の口を通してじかに聞き終えて、僕はこの命題がとてつもなく難しいものだと思った。
例えるとしよう。
エーデルワイスが肯定しようとしている奇跡のないセカイでは、絶望的とされた病人の命はどんなに頑張っても絶対に救われない。 その代わりに、絶対に助かるとされた命は、絶対に、間違いなく救われる。 一方でセラの肯定する奇跡の存在するセカイでは、絶対に助かるとされた命がなんらかのアクシデントによってぽっくりと失われてしまうことがある。 その代わりに、どんなに絶望的とされた命にも、たとえほんの一滴ほどわずかだとしても救われる可能性がある。
どちらの方が正解か、どちらの方が正当かなんて、おそらく答えはないだろう。 出せるはずもない。
「…………だから君は、エーデルワイスの理論を否定はしないんだね?」
今改めて思い返してみれば、セラや歌乃は自分の意見をはっきりと主張することはあっても、それを押し付けようとしたことはなかった。 最初からずっと。
『うん。 この理論ってもはや趣味とか宗教とおんなじで、他人が強引に変えていいようなものじゃないと思うんだ』
好き嫌いは人によって違う。 信じるものは人によって違う。 自分が100%正しいなんてことはあり得ない。 唯一正しいのは、自分が正しいと思い込まないことだけだ。
『……でもね、エーデルワイスを見てると思うんだ。 セラは奇跡の希望と絶望を両方知った上で奇跡を肯定することを選んだけど、エーデルワイスはそうじゃないんだって。 エーデルワイスは一度だけ決定的な〈奇跡による絶望〉を見ちゃって、それきり奇跡を拒絶しちゃったんだと思う。 だからね、セラは奇跡による希望をエーデルワイスの心に届けてあげたいの。 セラが〈エクステンドワールド〉でなんども見てきた、信じるだけの価値があると思う奇跡による希望を。 突っ走るのはその後でいいんだ』
僕は思わず目を背けた。 セラの言葉の明るさに。 セラの顔の眩しさに。 彼女の生き様は誰よりも儚いけれども力強い。 その輝きが、僕には羨ましくて、それ以上に誇らしかった。
「………君は強いね」
僕の口からは自然と、そんな言葉が漏れ出ていた。
「どうしてそんなに強くいられるの? なにが君をそこまで突き動かすの?」
『……〈強い〉かぁ。 うーん、ちょっと違う気がする。 セラは楽観的なだけだよ。 さっきの〈奇跡の理論〉を堂々と言えちゃうくらいに』
にゃはは、とセラはセミロングの白髪を傾けて苦笑した。
『動き出さなきゃ他人の奇跡には巻き込まれないけど、奇跡を起こすこともない。 逆に動き出したなら奇跡のスクランブル交差点にジャンプイン!だよ。 ……どっちがいいかなんて言えないのはセラにも分かる。 でも、どっちがいいかなんて言えないんだったらさ、〈なんとかなる〉って思って進めるセカイの方がいいと思わない? そっちの方が絶対に楽しいよ。 絶対にキラキラしてるよ。 ……セラはそう信じてるから、いつだって突き進むんだーーーー』
そこでセラは一旦言葉を切った。 そして電子の画面の中で、蒼い瞳に揺るぎのない力を灯して僕を真っ直ぐに見つめる。 その相貌に、黒い髪に黒い瞳、頰にえくぼのある少女の顔が重なった。
『Que Sera, Seraってね』
スペイン語で「なるようになる」という、投げやりではなくポジティブな心象を表すそのフレーズ。 セラが口癖のように言う言葉。 僕がへこたれた時にいつも投げかけてくれた言葉。 もはや彼女の一部になっているようにさえ思える言葉。
「…………」
僕は彼女の言葉に頷きかけた。 が、そこで彼女の〈奇跡の理論〉の一つの大きな齟齬に気づいた。
それは、今のセラ自身の中にあった。 彼女自身が、自らが抱える病の〈死〉という可能性を含めた未知を前に立ち竦んでしまっているという事実。
もしかすると、セラは自身の〈奇跡の理論〉を信じることができていないのではないだろうか。 あるいは、彼女の〈願い〉のカタチが〈奇跡の理論〉なのかもしれない。
そうあってほしいと願う現実。 しかし、その存在証明は彼女自身ではできないーーーー
(そうか……)
そこまで考えたところで、僕は唐突に一つの仮定に辿り着き、そしてそれを確心した。 VR部のもう一つの目的。 歌乃先輩の目的。 大会での優勝は、ただの青春物語でも、ただの想い出づくりでもなくーーーー
その考えは僕の口をついて出ていた。
「それじゃあ、僕が奇跡を起こして、黎明高校VR部が優勝すれば……それって君の〈奇跡の理論〉の存在証明ってことになるかな?」
これこそが歌乃が密かに抱く期待なのではないだろうか。 そして、今確かに、僕の大きな目的の一つになった。
当のセラは、数秒の間沈黙していた。 それから、ふんと鼻を鳴らして、セミロングの銀髪に顔を隠した。
『……もう、第三位を倒すっていうミラクル起こしてるクセに』
「うっ……」
その話は、僕の痛いところである。
『いったいどんな未知の力を使ったんだか』
「うぐぐっ……!」
それはもっと、100倍くらいに痛いところだ。
〈愛と勇気の力さ〉とでも言ってごまかすか、と僕がどこかで聞いたことのあるフレーズを引用しようかと考えたが、口を開くよりも早く、
『まったく……。 コウヤ、ちょっと顔こっちに近づけて』
「は、はい……?」
セラの突然の要求に僕は一瞬ためらった。 彼女が僕に対してしてくる〈お願い〉に、ロクなものがあった試しがないからだ。 しかし、ここでまたノロノロしていると余計な説教をくらいそうなので、僕は言われた通りにおそるおそる顔を近づけていく。 両手にしっかりと包んだ、一人の少女と僕とをつなぐ媒体に。
『……も、もうちょっと近く』
「……もうちょっと、ですか……」
(まさか、電子の壁をも超えて物理攻撃をかましてくる気か……?)
そんな、現実味はないがセラならやりかねないことに恐怖しながら、要求されるがままに顔を携帯端末の画面に限界まで近づけると、頬を画面に密着させる形となっていた。
「こ、これでいいでしょうか……?」
『……うん』
僕の質問に対して、視界に収めることができなくなった画面の中から、少女のか細いソプラノが応じた。
数秒の間、沈黙が続いた。 セラがどんな表情をしていてなにをしようとしているかは、僕からは見えない。 僕は恐怖にビクビク、こそばゆさにモゾモゾしながらなんらかのアクションが取られるのを待つしかなかった。 もしここで顔を動かして画面の中を覗こうものなら、ツルの恩返しさながらに何か大切なタイミングを逃してしまうような気がしたからだ。
そしてそのタイミングはやってきた……ようである。
『すぅーー……っ』
セラがまるで水中に潜ろうとするかのように大きく息を吸い込む音が聞こえた。 そのままためる気配。 何かの準備をしているのか、躊躇っているのか。
このあとにくるものといったら、大声での叱責か、それとも盛大なため息か、と僕は経験から思わず身構えたが、続いて僕の耳を撫でた音声は予想から大きく外れたものだった。
ほんの少し湿った柔らかいものが、何かに触れて離れる些細な音。
マンガで擬音語にするなら、〈ちゅっ〉という単語の並びがもっともそうな音。
そして、思考能力の一瞬止まった僕の五感は、無意識のうちのそんな認識からか、頰に仄かな感触と温かみという情報を僕に伝えてきた……ような気がした。
僕は、ギギギ……と出来損ないの機械仕掛けのごとくとてつもなくぎこちない動作で端末から顔を引きはがし、そしてさらにその10倍くらいの遅さで端末の画面へと視線を向ける。 しかし彼女はいつの間にか電子の画面の中から消えていた。
「セラ……」
僕は唖然としたまま、端末の枠の外のどこかにいるであろうセラへ呼びかける。 思いのほか僕の声はかすれていた。
『……ありがと』
「え…………」
『…………いろいろありがと』
小さく震えた、消え入りそうな声とともに、少女の白髪が画面の枠の下の方から浮き上がってきた。 ただ、鼻から下は隠したままだ。 長い睫毛の下から、真夏の海の水面のように煌めく瞳が僕を見上げた。
その言葉は、僕の耳にはなぜかこそばゆかった。
少しだけ思案すると理由が分かった。
驚くべきことに、僕は今までセラから「ありがとう」という類の言葉を正式に頂戴したことがなかったのだ。 誤解を避けるために言っておくと、それは僕が彼女に色々な面で迷惑をかけっぱなしだったからだ。 僕は彼女にたくさん助けられて、たくさん教えてもらって、たくさん構ってもらってきた。 その反面、よくよく考えてみると、僕が彼女にしてあげられたことなんて、ほとんど皆無なのではないか。
しかしそんな僕にも、歌乃の話を鑑みれば、実は自分の意図せざるところでセラに何かを与えることができていたらしい。 あるいは僕の “なにもできなさ” が、セラの心を開く一助になってくれたのかもしれない。
今のセラの言葉は、そういった本当に “いろいろ” を踏まえた上でのものであるのだと、僕は感じた。
(…………僕の方こそだよ、セラ)
僕の方は、君の耳が中耳炎になっちゃうくらいに「ありがとう」って言いたい気持ちでいっぱいだ。
その思いを僕は形にしようとしたが、今日のセラはとことん僕の先回りをしてくるのだった。
『……セラにはこんなことぐらいしかできないからさ』
彼女は、彼女にしてはとっても珍しく自虐的に、そんなことを早口で言った。 だが僕には、その言葉を反射的に否定できるくらいにはその言葉が間違っていることが明らかだった。
「そんなことないよ」
『そんなことあるよーー』
「ないって」
僕は、歌乃先輩と同じようにセラからたくさんのものをもらっていたのだ。
もしセラにVR部に入る勇気をもらっていなければ、僕は何もない学校生活を求め続け、そんな人生を送っていただろう。 そして、それ以外の人生の選択肢を考えることもなかっただろう。
だが、セラと出逢って、歌乃と出逢って、VR部と出逢った僕、壬狩晃也にはもはや〈何もない〉人生なんてありえない。 ただの高校生Aであったとしても、ただのプログラムAにはなりたくない。
VR部での日々は、〈何でもアリ〉の日常は、僕にそう思わせるには十分すぎるほどに輝いていたのだ。
ーーーーつまり何が言いたいかというと、セラは僕の人生観、人生そのものを、電車のレールを切り替えるようにガッチャーンっと変えてしまったのだ。 間違いなく僕のためになる方向へ。
もしこれを〈こんなこと〉と言うのなら、僕が彼女にしてあげられていることも〈こんなこと〉に違いない。
「じゃあさ、お互いに〈こんなこと〉同士でおあいこだ」
『……そうやってさ、いっつもさ、セラがナーバスになってるときに限ってさ、ウマイこと言ってさ』
僕の言葉に対して、セラはセミロングの銀髪に瞳を隠してぼやく。
『……ズルいんだよ、コウヤは』
そして彼女は、言うことを言って、やることをやって疲れたかのように沈黙した。
今まで夕食時にしてはいくらか賑わいのあった公園が、見事な静寂に包まれる。 リリリ……と、なにかの虫の鳴く声が聞こえるか聞こえないかというくらいの絶妙なボリュームで静寂を静かに彩る。
その静寂の中で、僕とセラは画面越しに見つめ合っていた。 夜という大海の中に、僕とセラは二人きりだった。
その、浮遊感さえ覚えるような空間の中にあって、僕の心の中をどうしようもなくあったかくて柔らかい感情が満たしていった。
あとあと考えてみると、僕はこの見事なまでに完璧なシュチュエーションに酔ってしまっていたのだと思う。 でなければ、この僕が、下記のような発言を、さらっと言うはずがなかった。
僕の声は、夜の澄み切った空気に思いの外明瞭にこだました。
「……セラ。 僕は君のことが好きなのかもしれない」
『は……はあ!!!?』
セラの白い顔が一気にゆでダコのように上気して、そしてタコが岩の中に俊敏に身を隠すようにビュッと画面下に引っ込んだ。
それを見た僕もようやく、自分の口がいかにトンデモナイ発言をしていたのかを悟る。
告白だ。
この15年の人生の中でまだしたこともされたこともなかった、学校生活においてとてつもなく重要なウェイトを占めるイベントを、僕はさらりと、特に深く考えるともなく実行してしまっていたのだ。
「あ……あっ、今の……」
僕は大慌てで自分の発言を取り消そうとしたが、すんでのところで踏みとどまった。
現実世界での言動は、SNSやゲームのセカイのように自分の自由にリセットや消去ができるものじゃない。 だからこそ、自分の言動には誠実であるべきだ。
これも、セラから教わったこと。
『……ぅ…………』
不意に画面の外から聞こえてきた小動物の鳴き声のような音声に、僕は思わず肩をビクッと震わせた。 そんな僕の緊張が感染ったわけではなかろうが、画面下から再浮上してきたセラの口から溢れる声もか細く震えていたのだった。
『……もぅ……これでもセラにとっては十分な奇跡なんだよ……』
その極小のつぶやきを聞いた僕はというと、その言葉をどう解釈したらいいのか分かりかねた。
責めないで欲しい。 僕はーーあるいはセラもーー恋愛経験を一切したことがなく、それを小説や漫画の上で知っていただけのしがない高校生だった。 加えて僕は、自分は人に好かれるほど立派な人間ではないという卑屈な考えを持っている、厄介極まる朴念仁だったのである。
要するに、僕はセラの感情に応え損ねた。 その隙に、悲しいかなセラの感情パラメータは、僕に対するポジティブなものから、気恥ずかしさの責任を僕に押し付けるネガティブなものーーつまり〈怒り〉にシフトチェンジされてしまった。
咲き刻を過ぎた朝顔のようにしおらしくしていた彼女の瞳が、ギラリと燃え上がる。
『だいたい! 〈かもしれない〉って! なに! コウヤはいっっっつも優柔不断過ぎるんだよ!』
「え……えぇぇ」
僕は、天気雨のような心模様とは、その身勝手さとある種の神秘性ゆえに、まさにセラにぴったりだと思った。
確かに彼女の言うことはもっともだ。 しかしなぜこのタイミングで、まるで二重人格であるかのように怒り出すのか、僕には理解ができなかった。 要するに、その時の僕はセラが照れ隠しで起こっていることに気づかなかったわけである。
「じゃ、じゃあどうすればいいんだよ」
今度は僕がふてくされた声を出す番だった。 告白をお説教で返されれば、ふてくされて当然だろう、と僕は思っていたのだが、
『そんなの決まってるじゃん』
それに対して……いくぶん弟的な僕の態度に対して、セラは打って変わって、驚くほどにあっけらかんとしていた。
『……優勝して、ココロの整理ができたら、もう一回教えてよ。 ……コウヤのキモチ』
そう言った彼女はぐんと上半身を前に突き出して、顔を画面に近づけた。 そして、僕の目をまっすぐに見つめ、細い右手の小指を画面の中から僕に向けて突き出して、
『ゆびきり』
「え……あ、うん」
不意の要請を受けて、僕も無意識のうちに同じようにして端末の画面に右手の小指の先をちょんと当てていた。
僕は、そのまま一緒に〈ゆーびきーりげーんまーん〉という、なじみ深い、しかしよくよく考えてみると15禁レベルでグロテスクな歌でも歌うのかと思った。 が、違った。
『じゃあ、せーので一緒に〈ぎゅーっ〉ていってね』
「は……〈ぎゅーっ〉?」
『そう。 〈ぎゅーっ〉』
「〈ゆびきりげんまん〉じゃなくて?」
『うん』
セラはそう、とても真剣なまなざしで応えるのだった。
僕は数秒の間、セラの奇妙な要求の意味を理解しかねて首を傾げたが、気づいた。
セラは埋めたいのだ。 僕とセラとの間に厳然として存在する、どうしても埋めることのできない距離を。
いくらデジタルテクノロジーの助けを借りて、こうして感覚的にはパネル1枚分まで距離を詰めることができたって、僕はセラに触れることはできない。 セラは僕に触れることはできない。 パネル1枚の壁は、僕らの想像の範疇を簡単に超えて圧倒的に厚い。
だからせめて、届けられる情報で、その距離を埋めたい。 〈音〉を代替物として、擬似的にでも誰かと触れ合いたい。 現実に近づきたい。 そういう想いがセラにはあるのだ。
この考えに至った途端、僕の頭からは恥ずかしさや罪悪感なんてものは消え去ってしまっていた。 そんなものを感じるという選択肢自体が、頭の外側へ吹き飛んでしまった。
「うん、いつでもいいよ」
僕は、セラの宝石のような瞳をしっかり見つめ返してゆっくりと言った。 右手の小指の先、ほんの1センチメートルに、想いを乗せる。 この壁を越えろと願う。 小指の先の触覚が、電子端末の発する熱ではない、不思議な温度を僕へと伝えた。
セラの瞳の、さらに奥へと僕の意識は吸い込まれる。
画面の中で微笑んだ彼女の、その頬に。 幻想などではなく、現実の彼女とまったく同じ慎ましいえくぼが浮かんだ。
『……それじゃあ、いくよ。 せーのー』
僕たちの声は、まるで〈ゆびきり〉の歌の真実を知らない無邪気な子供のように、夜の公園の静寂に響き、浸透していった。
僕とセラは二人で、青春ごっこよろしく飽きることなくその沈黙に耳を傾けていた。
別れの合図は、夕飯時を大きく超えても帰宅しない僕の行方を心配したラブリーチャーミーな我が母からのスタンプ爆撃だった。 セラは僕と母のやり取りを大げさに笑い、一通り楽しんだところで『帰ろっか』と自然に切り出した。
こんな形でロマンチックな (?) 夜が終わってしまうのも、僕たちらしいと言えば僕たちらしかった。
別れ際、僕とセラは別々の空間から、それでも確かに一緒に満天の星空を見上げて、つぶやいていた。 示し合わせたわけではなく。 同じ言葉を。
もうすぐ〈夏〉が始まるんだ、と。
投稿が息も絶え絶えになってしまい、ほんとうに申しわけありませんでした。 ここまで辛抱強く読んでくれたみなさんには、感謝の一言です。 これからも文を作ることはやめないつもりなので、もし次の作品ができた時は、読みに来てくれたら嬉しいです。 とっても。
最後にもう一度。 長い間付き合ってくれてありがとうございました。




