第1話 プリンセスは突然に? *
イラストは2015年10月現在に挿入し直したものですので、今後絵がいきなりド下手になってもビックリしないでください。
ソードアート・オンライン16巻の挿絵を参考にしました。
僕、壬狩 晃也は勉強もできなければ運動神経がいいわけでもない。 加えてユーモアもなし、雑学に詳しくもなしときている。
さて、そんな僕は今それぞれの学級がある本校舎と隣接した旧校舎1階の、とある部屋の前に立っている。 時刻は4:30。 本来であればとっくに帰路についている時間だ。
それならばなぜ、僕はこうして片側のドアが封印されているいかにも怪しげな教室の前で呆然と意味もない思索にふけっているのか。
悩みの種は、言わずもがな半強制的な部活動見学である。
そうだ。 このミッションさえ完遂してしまえば、のち一週間は執拗な追求を逃れることができる。 あのズボラな理科教員が顧問をやっているくらいなのだ、相手は何の変哲もない生物部か何かに決まっているはずだ。
「………」
しかし……なぜだろう。 本校舎のそれと比べていくぶんくすんだベージュのドアの向こうから、美しいピアノの旋律が聴こえてくるのは。
前述の通り、僕の頭脳には雑多な知識さえもあまり内蔵されていない。 もちろんピアノの演奏の良し悪しなど分かりようもないのだが、そんな僕でもはっきりと認識できる。 この演奏は生半可でなくうまい。 繊細なタッチ、流れるような連弾。 本当に人が10本の指で弾いているのかと疑わせるほどだ。
「ここで、あってるんだよね……?」
僕は右手に目を落とした。
そこに握られている地図……のようなモノは、我らが1年2組の担任、山崎先生 (あだ名はクラス即決でザッキー)が後で手渡してくれた一品だ。 チラシの裏に殴り書かれた粗雑な代物で、あと一歩間違えばどこぞの魔界の見取り図となりかねない混沌さを醸し出していたが、まだなんとか読み取ることができる。 先端の曲がった歪な矢印は、確かにここを指し示していた。
「でも……なぁ」
できれば、見学をするのはやる気がない位ののほほんとした部活が好ましかったのだが、現実は大幅にかけ離れていたようだ。 こんなにも見事な音色を奏でることができる人物が本気でないわけがない。
中学時代は、今思えば無駄なほどに一生懸命部活動に励んでいた僕からしてみれば、何かに真剣に打ち込んでいる人の邪魔をすることはできれば避けたかったのだがーーーー
「仕方ない……かぁ」
まるで七色の流泉のように響いてくる音の一つ一つが、周囲の様々な喧騒と切り出されて聴こえてくる。 僕はなににともなくため息を漏らし、陰鬱な気分で現実を見つめ直した。
見学をしないで逃げ帰れば、明日あの教師にネチネチ文句を言われるのは目に見えている。 それでどんどんと期限を引き伸ばしていってしまえば、結局部員の方々に迷惑をかけることとなってしまうだろう。 あくまでザッキー先生が困る分にはいいのだが。
それではせめて邪魔にならないようにそーっと終わらせよう、と妙な決意を胸に抱き、僕は手にしていた地図兼チラシを適当に折りたたんだ。
最早本来の役割は果たしようもないが、まだこいつには重要な使命がある。 “山崎先生” 改め “ザッキー” いわく、このチラシを見せれば部員の方々は快く見学させてくれるらしい。 アラサー男性の廃品の割にはなかなか嬉しい特典である。
「……それじゃあ失礼します」
そんなわけで右手に薄汚い身分証を装備した僕は、教室の中で素晴らしい演奏をしている彼または彼女にそっと謝り、ドアに手をかけた。
一瞬、右肘にピシリと疼痛が走った。
物理的なものではない。 記憶による一種のトラウマだ。 ほんの半年前、中学校生活最後の最後で受けた深い傷痕。
「……今回だけだから」
しかし僕は自分に言い聞かせるようにそうつぶやき、惨めな逃避から生じる仮想の痛みを振り払った。
自分でも分かってはいる。 記憶の奥底へ捨てたつもりの悪夢に囚われて部活を毛嫌いするなんてことは、子供の非合理的なわがまま同然だ。 このどうしようもない痛みは、いつか乗り越えなければならない。
だが、それはおそらく今ではない。 僕には、必死に努力する人と肩を並べて歩んでいくことができるという自信も、その権利すらもないのではないか。 そう思えてならなかった。
とにかく、今回は気合で乗り切ろう。
気休めにしかならないが、そんなありふれていて馬鹿げた感情論で僕は自分自身を鼓舞した。
ーーーーそして今まさに、僕の高校生活を180度逆転させることとなる運命の扉を開いた。
若干古ぼけた感のあるドアは思っていたよりも幾分滑らかにスライドした。 身体が余裕を持って通れるほどの隙間ができたところで、部屋の内部へそろりと身を滑らせる。
後ろ手にドアを閉め、壁越しでなくなった分さらに凄みを増した演奏に圧倒されながら顔を上げた僕は果たして、目にした光景にはっと息を飲んだ。
春先の放課後。 未だに日の短い小春日和のそれが創り出す紅蓮の夕陽が、何の代わり映えのない教室を照らし出している。 ただそれだけだ。 しかし、僕にはなぜかこの景観が現実のものとかけ離れて遥かに幻想的に見えた。
「………」
呆気に取られたまま周囲を見回すと、この部屋全体に少々奇怪な点が散在していることに気づいた。
まずはこの部屋の狭さだ。 普通の教室よりかなり……具体的に言うと半分くらい小さい。
その理由は僕の右方向にある、天井に届かんとする超巨大な金属棚が部屋を二分しているからのようだった。 だが、すっぱり完全に区切っているというわけではなく、メタリックの巨体は部屋の4分の3地点で途切れていた。 その端と窓との間にはちょうど人2人ぶんくらいの隙間が残されており、そこにペールブルーの薄いカーテンがかけられている。
なるほど、片側のドアが封印されていたのはこのためか。 件の謎の部活の核心は、この壁の向こうにあるということなのだろう。
そしてその謎をさらに引き立てているのが、半分になった空間の中心部を占拠するメガトン級のグランドピアノーーーー
「あっ……」
瞬間。 僕は思わず声を漏らしていた。
いつの間に演奏を終結させたのか、チェアに腰掛けた伴奏者であろう人物がこちらに目を向けていたのだ。
頭頂部やや後ろで結わえられた艶のある黒髪。 若干色白くはあるが健康味を感じさせる肌。 そしてその上で映えるほんのりと紅く小さな唇、整った鼻梁。
見事な演奏の余韻がそれほどまでに洗練された印象を僕に受けさせたのか。 …… 否。 涼やかな雰囲気で僕を見つめるその人物は、紛れもなく美女という部類に入る……もはやそれでもなお表現にこと足りえぬ程の美貌をもつ女性だった。
彼女は腰まで垂れるほど長く一切乱れのない黒髪をわずかに傾け、鋭さとそれ以上に知的なイメージを想起させる黒曜石のような瞳をゆっくりまばたかせた。
途端、僕は思わず逃げ出しそうになった。
相手の女性からしてみれば、僕は不審者同然のはずなのだ。 なにせ音もなく部屋に侵入し、挨拶もなく無遠慮に観察を敢行していたのだから。 きっと今に彼女の美しい相貌に嫌悪が現れ、僕を訝しむに違いない。
いかに僕が生来のいじられ体質であるからといえ、入学早々変態少年のレッテルを貼られるのは堪え難い。 漫画でしか見たことがないが、 “お昼休みはトイレへゴー!!” 的な未来がちらりと脳内をかすめる。 「迷子になっちゃいました! てへ」とでも言えばごまかせるだろうかーーーー
「やあ。 どうしたのかな、後輩君?」
しかして、彼女は僕の瞬間的脳内シュミレーションが導き出した全ての最悪な予測を裏切り、至って自然に、女性にしてはやや低めの凛とした声でそう問うてきた。 何とその口元には、微笑みのような気配まで漂わせているではないか。
「え……あっ」
予想外の事態に当惑しながらも、彼女を真正面から改めて見た僕は場違いながらある一つの噂を思い出していた。 確かほんの1週間前、入学したてであったピカピカの1年生の話題は、男女問わずある一人の先輩の話でもちきりだった。
才色兼備、文武両道、質実剛健……などなど、どんな褒め言葉を当てはめても思わず首を縦に振ってしまうような、超絶完璧エクストリーム美女がいると。
好奇心ゲージ及びコミュニケーション能力のバカ高い何人かのメンバーが先輩方々に問い合わせたところ、誰もが顔を綻ばせてーー時には鼻息を荒げる者もいたらしいがーー彼女がいかに素晴らしいかを熱弁してくださったという。
例をあげると、こうなる。
「カノのんは可愛すぎだよ〜〜。 女子でも恋しちゃうレベル! 法律と校則がなければ今すぐにでも食べちゃいたいな〜〜」
「ハァ……うん、もうあの子はマジ天使ってやつだよね。 ハァ……例えるなら今の売れっ子女優なんかじゃあ、ハァ……足りないよ。 ハァハァ……そうだね……ぜぇ……しいて言うなら、はぁ……アフロディテ? 見たいな? ゼェゼェ……」
「あの方のおかげでボクはアニオタを卒業できたんだ!!! 彼女を一目見てからは、“魔法少女ギガンテスちゃん”なんてただの平面図形にしか見えなくなったね! 彼女のどこが素晴らしいって? まずは、あの一分の乱れもない螺旋を描くつむじからいこうか。 実を言うと、これまたあの濡れたように艶やかな髪質ありきでーーー(以下略)」
混沌だ。
一体どうしたらこんなにも人に好かれるのだろうか。 少なくとも、現代社会において両性から愛される人物なんてそうそういない。 しかし、その先輩の完璧さはどうも折り紙付きらしい。
いま僕の眼前に、清水のせせらぎでも聴こえてきそうなまでに涼やかな雰囲気で佇むこの女性が一概にその絶世の美女だとは言い切れない。 言い切れないのだが、僕にはほとんど確信に近いものがあった。
だからであろう、女の人とのコミュニケーション能力など全く必要としないような中学生活を歩んできた冴えない男児が、そんなプリンセスにかける言葉など即座に思いつくはずもなく、結局のところ僕は総括的に、端的に思ったことをそのまま口にした。
「きれいだな……って思って」
「……そうか。 お褒めに預かり光栄だよ」
僕のごく正直な言葉をどう受け取ったのかはわからないが、彼女は顔にかかった髪を払いながら俯き加減で言い、椅子から腰をあげた。 逆光の中からでもわかるほどにキラキラと輝く瞳を再度僕に向け、ピアノの端に手を置きながら、最初と同じようにくいっと首を傾げる。
「ところで、どう言ったご用件なのかな?」
「あ……えっとーー」
そう問われて、僕はあっと思った。 この時のために、右手に必殺のアイテムを装備していたのではないか。
「あ、あああ、あの、これっ!!」
両腕を盛大に振り、口をあわあわと動かすといういかにも怪しげな言動を取りながらも、僕はしゅばっと右手に握っていたそれをかざす。
ーーーー発動、ザッキー先生のチラシ!!
ビールの特価セールうんぬんの部分に採点用の赤ペンで丸がついているという、前所有者の生活様式を存分に感じさせる身分証明書兼チラシを、黒髪の美女はじっと見つめた。
僕が見学に来たのはあくまでザッキー先生の強制でなにも干渉するつもりはないので、そこのところを分かってもらえると嬉しいのですが。
僕がそう念じる先で、彼女は窓から差し込む朱と紫紺のコントラストを背に、まっすぐな瞳を僕に向け、
「……すまないね。 こんなに珍しい恋文は初めてで……」
申し訳なさそうに苦笑いをしながら首をひねった。
ーーーーザッキィィィィッッッ!!!
僕がこの時そう叫ぶのを堪えたのは奇跡だ。
信用できない先生だと思っていたら、あのヒゲ面男はさっそくやらかしてくれた。 なにが「これが貴様の身の潔白の証になるだろう(大幅な補正あり)」だ。 部活動見学の旨がまったく伝わっていないではないか。 それどころか、さらなる誤解を産んでしまった。
なるほど、男女問わずかなり多くの人にモテるであろう彼女は、今まで数えきれないほどのラブレターをもらってきたことだろう。 それゆえに初対面の、しかも挙動不審な少年にある意味エキゾチックな紙片を差し出され、反射的に自分へのラブレターだと認識してしまったに違いない。
いや、この状況では仕方ないことだ。 悪いのは山崎せん……ザッキーだ。
「その……つまり君の要件というのは……」
「あっ、別にそういうことじゃなくて……」
彼女は若干困ったような表情をその凛々しい顔に浮かべ、言葉を濁す。
僕は、いかんいかんとザッキーに対する脳内での止めどない文句を押しとどめ、しどろもどろになりつつも必死に弁明を測った。 しかしどうにも、空気が立ち直らない。
そうか、早い所僕がここに来た理由を明確にすればいいのか。
そう考えた僕は何とか頭の中の情報をゴチャゴチャと取り出し、切れ切れながらようやく言葉を発することに成功したのだが、
「……ここの、部活……?にちょっと興味があって…………」
そこまで言ったところで、今の今まで曖昧かつ複雑な表情をしていた彼女の黒目が異様なほどにキラリと瞬くのを見た。
刹那。 その細身の肢体が夕闇に霞んだかと思ったら、いつの間にか僕の鼻先に彼女の淡麗な相貌が現れていた。 そこに輝くのは先ほどまでの凪いださざ波ではなく、若干獰猛とさえ見える爛々とした炎………
ーーーー喰われるっ!!?
僕の動物的本能が彼女のあまりの異常行動に反応し、緊急防御体制に入らんとする。
だが、「清楚な女の人がいきなり口裂け女に変貌して喰らい付いてくる」なんて変事は起こらず、黒髪の美女は突如として僕の両手をぎゅっとホールドしたかと思うと、更に顔を近づけて興奮気味にこう言った。
「入部希望者なんだね!?」
「はぃ……!!?」
僕のなかでの彼女に対するわずか数秒前までの文学少女的イメージは一気に崩壊した。 ドンガラガッシャン‼ という盛大な破壊音は、僕の中の幻想が粉々に砕かれたものか。
それが鳴り止まぬ中、僕が戸惑う余裕すらなく硬直していると、彼女はまたしても風のような素早さで、部屋のほぼ右半分を占めているであろう例のカーテン越しの謎の空間へと姿を消した。 数秒の間をおいて、ガチャガチャ、ゴソゴソ、コポコポと多種多様な音がそちらから響いてくる。
「えっとーーー……………」
そして実に30秒の思考停止状態の末に我に帰った僕は、何やら妙に肌触りのいい座布団の上に座っていた。 眼前にセットされた簡素な丸テーブル上のカップの中では透き通った琥珀色の湖面がキラキラと揺れている。
自分用の紅茶を準備し終えた美女は、そのきらめきに負けじと言わんばかりの視線を僕に注ぎながら、これまた鼻歌でも聞こえてくるような調子でひらりと向かいに腰掛けた。
「両親は大の紅茶好きでね。 私もその影響を受けて、茶葉には少なからぬこだわりがあるんだ。 これは私のお勧めのもので、××××円程の品なのだが、湯を沸かす余裕もなかったので今朝作って持参したものにさせてもらった。 君の口に合うといいのだが………」
さらっと告げられた眼前の紅茶一杯の脅威的価値に、僕は何を考えるともなくいい香りにつられるがままに口に運びかけたカップを危うく取り落としそうになった。
だが、彼女はそれにも気づかない様子で優雅に香りを味わいながら感慨深そうに言った。
「………苦節一年。 ついにこうして歴代の部の方々が接客用に使用したという、伝説のラウンドテーブルを使うことになるとは…………」
「いや、普通の折りたたみ式四足テーブルですよね」 なんていう空気の読めないツッコミはとにかく飲み込んでおいて、ようやっと気を取り直した僕は早急に訂正すべきことを述べようと口を開く。
「あのーー。 一応見学のつもりだったんですけど……」
「ん? けん、がく………弦楽か。 なるほどなるほど、私とのセッションをご所望のナイト様であったか。 まあ、それもこの部に入ってからゆっくり……」
「え? いや。 そうじゃなくて。 見学ですよ、見学! 僕はバイオリンとか全く弾けませんから!」
恐らく無意識であったのだろう。 何やら都合よく誤変換された上にさらにややこしくなりそうだったので僕は無理やり止めに入ったのだが、それでも彼女は瞳をパチリパチリとするだけで落ち着いた物腰のまま妙な方向へと話をもっていこうとする。
「ものは試しというではないか。 きっと君も、すぐにこの部を気に入ってくれるはずだ」
くっ。 こっちの言いたいことが全部打ち消されてしまう。 なんだこの「yes」と答えるまで質問してくるゲームのNPCみたいなテンションは。 このままだとどう反抗しても最終的には入部にもっていかれてしまうのではないか。
そう判断した僕は、「そ、そうだ! 今なら何と、特選ティーセットを特別価格の898円(税込)でつけよう! ハチキュッパ!」とか「あ、あの入ってくれたら、それはもう嬉しいな……」など、先輩がぶっ放してくる精神的ダメージ大の全自動マシンガンをなんとかかわし切り、唯一の打開策を実行した。
それは、この部屋に入る直前から僕がずっと胸に抱えていたとある疑念を口にすること。
つまりーーーー
「あの……。 そもそもここって、なに部なんですか………?」
「………へ?」
その言葉を聞いたプリンセスはしばし硬直していたが、何か思い当たったかのように大きく肩を浮かせ、次の瞬間には顔を真っ赤に爆発させた。