第10話 紫雨 *
時は5:20。
【エクステンドワールド】の中心都市 《ラルーシア》にて。
これはあらかじめ定められていた運命だったのか。 それとも、厄介事を綺麗さっぱり忘れて現を抜かしていた僕への天罰か。
レベル1のニュービーたる僕、コウヤは、アメリカの郊外にありそうなカントリーサイド的雰囲気たっぷりのこの街の中で恐らく誰よりも注目されていた。
理由は、言わずもがな。
「いやあ……どこを探しても晃也君がいないものだから、危うくトップギルドの本部に乗り込んでしまうところだったよ」
と、ほわんほわん笑う眼前の美女、紫宮 歌乃先輩だった。
頭頂部で結わえられた、若干重力を無視した感のある流麗なアメジストの髪と、爛々と輝く同色の瞳。 そして膝の辺りまでの長さがある黒を基調としたロングコートという格好以外は、現実の彼女の姿そのものだ。
と言うよりむしろ、ありったけの破壊力を内包していた美貌にミステリアスな雰囲気が混合されて、女神的風格がさらに際立った気がする。
まあ、アレだ。 結局美人なのである。 紫宮先輩は地球がひっくり返ろうが宇宙がひっくり返ろうが美人なのである。 美人恐るべし。
などと、この一日のほんの数十分の間にトレンドと化してしまったフレーズを脳内で再生する僕に対して、彼女はこのカオスな現状を的確に説明しうるだけのことを語る。
「こちらも少々大変だったんだよ? 勘違いで数百ほどの人を呼び止めてしまったり、3つの怪しげなギルドのアジトを壊滅させてしまったりと色々……」
ほら。 やっぱりやってくれましたよ、このお方は。 すこし大げさにしていたつもりの僕の予想を遥かに飛び超えて。
呼び止められた男の子勢はきっと、意味もわからないままに幸福感に浸ることができたことだろう。 嬉しさのあまり失神してしまう人も出てきたのかもしれない。 だって、先輩の背後に見える賑やかなストリート沿いに、“地味” な格好のプレイヤーが数人倒れているのが見受けられるのだから。
しかもほんの20分の間にギルドを3つも壊滅させるなんて、この人にしてもどれだけ怪物なんだ。 さすがにやり過ぎだろう。
「………」
彼女のコートの端からチラリと見え隠れする、いかにもレア気な軽機関銃に目をやりながら、僕は抗言の一つでも言おうものかと苦悶する。
しかし……しかし僕は結局彼女に対して何ひとつ言えなかった。
「でも……君が無事でなによりだ」
穏やかな、慈しむような眼差しでそんなことを言われたら、文句の一つも湧いてこなくなる。
つまり、アレだ。 美人恐るべし。 紫宮先輩恐るべし、ということなのだ。 それこそがこの世界の理。 そして節理。
相当目立ったことでしょうね。 でなければ、地味で地味で地味でしかない僕にこんなに注目が集まるわけがない。
「あいつが “コウヤ” か」
「どうやらそうみたいだな。 ……《紫雨》の隠し球っつーくらいだから、ケッコーな大物に違いねぇ」
「マジかよ……!? どうみてもレベル1だぜ」
「バァーカ。 能ある鷹は爪を隠すって言うだろ。 あの《紫雨》仕込みなんだ、なおさらだろ」
「どちらにせよ、要注意人物だな」
「ふっ……。 一度この《無限天穿の漆黒魔弾》と手合わせ願いたいものだ」
ーーーーうへぇ。 なんだかトンデモナイ尾ひれがくっついてる。 なんか最後に思いっきり場違いなヒトが混じってた気がするけど。 ……っていうか、《紫雨》ってなに?
周囲から漏れてくるひそひそ声に自分が飲み込まれた状況を突き付けられながらも、疑問たっぷりといった表情で隣の紫宮先輩に説明を求めると、彼女は困ったようにはにかんだ。
「ああ。 アレは私の通り名みたいだ。 私としては恥ずかしいだけなのだが……」
「と、通り名……。 ちなみに、レベルはどれくらいなんですか……?」
通り名を持っていると聞いた時点で、僕は思わずその質問をしてしまった。
他人に、しかもかなりの人数に知られるだけの愛称を持っているということはつまり、その強さがそれだけ周知のものであるか、あるいはその行動原理が特異であることの証明である。
例えを挙げるならば、おそらく僕の通り名は《眠れる獅子》的なものになるであろう。 ……いや、ないな。
なんて無駄な思考を巡らせる僕の前で、《紫雨》の愛称をもつ美女は凛とした微笑みを湛えてさらりと言った。
「今は62だよ」
ーーーーうへぇ。
やはりここでも、僕は内心で奇怪なうめき声を上ずにはいられなかった。
いやはや、僕に対してレベル30であることを誇ってきたいつぞやのヒース一行の存在感が眩む。
発売開始から4カ月ほどの現時点で、そのレベルが高いのかそれとも低いのかは僕自身にはさっぱりわからなかったが、おそらく紫宮先輩はかなり強いヒトの部類にはいるのだろうと思われる。 この数刻のやり取りの間に僕の中で構築されたイメージでは、彼女が誰かに負ける姿がいかんせん想像できない。
「そんなことより、あまり時間もないのだから目一杯の部活動体験をしようじゃないか」
しかし、例のごとく思考時間はそう与えられない。 僕のモヤモヤまで一気に吹き飛ばしてしまいそうな笑みを湛えながら、彼女が僕の手を引く。
「むむむぅ……」
そこには、つい数分前まで手を繋がれただけで思考のオーバーヒートを起こしていたはずのシャイな少年、コウヤの姿はもうなかった。
リアクションに疲れ果ていた、というのも理由の一つにあげられるが、その時の僕はもはや派手に恥ずかしがったりするどころではなくなっていた。
なにせ、周囲の視線がチクリと……いや、グサグサッと絶え間なく僕に突き刺さってきていたのだ。
先ほどまでの好奇のそれとは圧倒的に違う。 殺気、だ。
もう言う必要はないと思うが、紫宮先輩は現実でもこのVRの世界でも美女である。 しかもとびっきりの。
そんなオヒトを、いきなり現れた何処の馬の骨とも知れないひよっこが占有しているーー厳密に言うとされているーーのだ。 彼女に憧れやらそんな類の感情をもっている男性からしてみれば面白くないのは当然だろう。
しかるに、今日、5時23分。 中心都市 《ラルーシア》にて、幾人もの男たちの心の声が、僕にだけはっきりと知覚できる思念を持つほどに完全に共鳴することとなった。
「「「あの野郎、ぜってぇー潰す!!!」」」
僕のVRデビューは、こうして惨憺たるものとなったのである。
「晃也君、晃也君! ここがこの《ラルーシア》の超有名スポット、【千貫の鐘楼】だよ。 どんなに遠くのフィールドにいても、定時に響くこの鐘の音だけは聴こえるんだ」
「わーすごいです」
「晃也君、晃也君! ここはね、【リベリード広場】だよ。 クエストの受注や討伐メンバーの募集は全部ここでやるんだ。 千差万別のレベル層のプレイヤーが集まる数少ない場所だね」
「わーすごいです」
「晃也君、晃也君! ここが武器屋だよ。 剣から槍、ナタ、そして拳銃にライフルまでなんだってある。 しかも目の前に、ばぁーんと!!! 凄いだろう!」
「わーすごいです」
「そうだろう? 喜んでくれてこちらも嬉しいよ」
先刻からこのやり取りが繰り返されること12回。
僕の返事が定型分なのは、なにも紫宮先輩とのトークに嫌気がさしたわけではない。 周囲のギャラリーから向けられた、好奇と殺気が1:9の視線に気を取られているからである。
当の紫宮先輩はこの現状に全く気づいていない。 自分の大好きな【エクステンドワールド】を他人と共有できることが嬉しくて仕方ないようだ。 そこがまた厄介というか、許されるべくして成される罪もあるものですね。
ちなみに……というにも遅かろうが、例のフーデッドケープの二刀流女騎士様の消息であるが、実は彼女、《ラルーシア》に到着し僕を放り投げるなり、「ここで、お別れ。 ……また、あとで逢えるといい」と言い残し、颯爽と去っていってしまった。
登場も退散も風のごとし。 名前もレベルもわからず仕舞い。 結局最後までわけのわからないヒトだった。
色々と詳しそうな先輩に聞いてみようかとも思ったのだが、謎の騎士様のもう一つの言伝がそれを妨げる。
「わたしのことは、誰にも秘密。 また逢う時までの、秘密」 と、唇にか細い指を当て、無表情ながらもどことなく可愛げな素振りでしぃーっとやられては、聞くに聞けなくなってしまう。
一体彼女はナニモノだったのだろうかーーーー
「どうしたんだい? 晃也君」
無限に溢れんばかりの知識を披露し続けていた紫宮先輩が心配顔で問いかけてきたので、そこで僕は思考を中断した。 こちらの顔を真正面、至近距離から見つめてくる美顔には、過剰なまでの憂慮の気配が見て取れる。 相手の動向に敏感になっているのだ。
僕は思わず、先ほどから考え込んでいたことを口に出してしまいそうになったが、ギリギリのところで飲み込み、適当な言葉を探した。
「いや……なんか変な感じがして……」
「?」
口をついて出た僕の言葉に先輩は首を傾げた。
僕は、多くの人で賑わう広場をゆっくりと見渡す。 冒険の要所とも言えようこの場所には、彼女の言うとおり簡素なスケイル装備の者から荘厳なプレートアーマーを着込んだものまで、多様なレベル層のプレイヤーが見受けられる。
しかし、いかに低レベル、地味装備のプレイヤーであっても、そこには絶対的な非現実の要素が存在する。 その身に装備した武器防具、そしてなんといっても否応無く見て取れる各々の雰囲気が、ここにいるプレイヤーのすべてを【エクステンドワールド】の住民へと変質させているのだ。
だが、なぜなのだろうか。 今の今まで散々理不尽かつ非現実的な事象を体感してきたのに、ぼんやりとではあるが、この世界を一つのリアルとして受け入れている自分がいる。 子供の頃でさえ、ゲームと現実の区別はしっかりとついていたはずだ。 あるいは、この世界の途方もないほどのリアリティが、僕を飲み込まんとしているのだろうか。
だとしたら、それは過剰なまでの価値添加なのか? それとも誇大妄想?
「……晃也くん。 それは私だって同じだよ」
紫宮先輩の女性にしてはやや低めの声音が、僕の想いを静かに受け止めた。
目を向けると、彼女は宝玉のような紫紺の瞳の内に無数の星を瞬かせながら、僕同様に広場に溢れるプレイヤー群を眺めていた。 その口からぽつりぽつりと、深い叡智を感じさせる声音で言葉が綴られる。
「人は日進月歩。 常に進化し続けている。 時が流れて “遊び” という概念が大きく変化したが、その本質は全く変わっていない。 蹴鞠が、貝独楽が、アーケードゲームが……人類の発展に伴って代わる代わる誕生してきたが、そのどれもが年齢に関係なく人々に時間を忘れさせ、没頭させたんだ。 ……敗れれば悔しいし、勝てば嬉しい。 そもそもそう思える時点で、形は違うにしろ、人々は勝負の “世界” に入り込んでいたのではないのかな」
恐らくは長い思索の末に辿り着いたのであろう紫宮先輩の言葉には、一種の確信のようなものが感じられた。
彼女の【エクステンドワールド】への想いーーつまり「この世界をもう一つの現実と見る」という姿勢は彼女自身の中でとうに確立されており、揺るがないのだ。 過多な自己投下などではなく、純粋なもう一つの “生” をそこに見ている。 もはや誇りとして。
今の僕の目には、紫宮先輩が現実と仮想の見分けがつかない愚か者に見えているだろうか。 否、決してそんなことはない。
「人々は往々にして、進歩した遊び……つまりここでは “ゲーム” になるわけだが、それを熱烈に批判したがる。 しかし、なにもそれは必ずしも “ゲーム” そのものの批判などではないのだよ。 要は、より依存性が増し、人々が他の重要な事物を疎かにする傾向に陥ったがための部分否定が全体化してしまっているだけだ。 非があるとすれば、それは間違いなく私たち自身だ。 だから、私たちの意志行動次第でいくらでも変えていくことができる」
「自分たちの、意志だけで……」
「そうだよ。 ……たかが “ゲーム” なんかじゃない。 楽しまれるべくして生み出された産物を、当のプレイヤー本人が享受せずしてどうする? 晃也くんのその感情は、一人のプレイヤーとして間違いなく真摯、そしてまっとうなものだと私は思うよ」
「………」
紫宮先輩の言葉は、僕の心のどこか深いところにぐっと響いた。
彼女にとって、魅せられた “何か” に心酔することは決して恥などではないのだ。 彼女にとって、“何か” に心酔することは、なんであれその “世界” に入り込むことなのだ。
突き詰めてしまえば、彼女の言っていることはつまり、「好きだから楽しむ」 という何とも当たり前のことではないか。 そして、紫宮先輩はその “何か” を獲得する上で、現実において重要なことを一つも犠牲にしていない。
『子供としての無垢、大人としての規律』
この姿勢は、獲得こそ果てしなく困難だが、いかなる場合においても肝要となるはずだ。 事実そんな風にして、彼女自身が一つの “世界” となり、周りの人々を惹きつけ、影響を与えているのだから。
だとすれば、そうだとすれば、この人の側にいれば、僕も変わることができるのではないだろうか?
「あの……先輩、僕ーーーー」
得体のしれない感情に動かされた僕が発しようとした言葉は、しかし、多重に折り重なった美しい鐘の音色に紛れて消えてしまった。 【千貫の鐘楼】が時を知らせるために、どこか哀愁漂う音楽を声高く唄ったのだ。
「おっと、もう6時か……。 そろそろログアウトしないと下校時間を過ぎてしまうね。 ……やはり誰かと共にする時間というのは、残酷なほどに早く感じられるものだね」
僕の消え入るような声は届いていなかったらしく、紫宮先輩は相も変わらぬ笑顔に残念そうな気配を滲ませて言った。 次いで、紫紺の空を一度振り仰いだあとで、そのグラデーションをトランスしたかのような宝玉の瞳で真っ直ぐに僕を見つめた。
「それじゃあ、時期尚早極まりなくて申し訳ないが……一応、君の返事を聞いてもいいかな?」
返事……つまり、『VR部』に入るか、否か。 僕のみに限って言えば、過去のトラウマを乗り越える勇気があるのか、否か。
この時、ピシリとした仮想の痛みが、僕の仮想の右肘を再度駆け抜けた。
僕が、こんなに一生懸命な人と一緒に一つの目標を共有してもいいのだろうか、という迷い。
彼女と共にいれば、臆病な自分を変えることができるかもしれない。 しかし、僕にそんなことが許されるはずもないーーーー
矛盾する二つの思考の狭間で彷徨い、その果てに僕は、今の自分には答えが出し得ないことを悟った。
しかし、今は今はと言って、結論を延ばし続けるわけにはいかない。
「……今週の間だけ、待ってください。 必ずお返事します」
ゆえに僕は精一杯の誠意を込めて、頭を下げた。
もしかしたら、変われるチャンスはここしかないと、頭の隅で思っていたからかもしれない。
果たして、『VR部』の部長たる紫宮 歌乃先輩は、その顔に落胆や失念といった表情を一切見せず、あくまで最初とそっくり同じ穏やかな笑顔を湛えてアメジストの髪を流麗に揺らした。
ごめんなさい。
今更ですが、フーデッドケープの二刀流女騎士様もヒロインではありません。 僕自身こんなに引っ張るつまりはなかったんです(多分)。
このままだとアレなんで一応ヒロイン登場回を予告しておきますと、恐らく12話になるかと……。
10話過ぎてもヒロイン出てきてない小説ってどうかって思います、よね……?