8月31日、夏の夜、幼馴染みと
2人で花火しよう!
エクスクラメーションマークひとつでは表しきれないほどの勢いで、幼馴染みの少女はそう言った。
花火の袋を抱えた彼女が家まで訪ねてきたのが午後8時過ぎ。
玄関先で興奮気味に誘いを持ちかける少女に、少年はあっさり返答した。
「ごめん。無理」
「えぇっ」
ぜぇぜぇと乱れる呼吸を整えながら──おそらく、お互いの家まで3分足らずというこの距離を全力疾走でやって来たのだろう──少女は、呆気にとられたように目を丸くする。
「なんで?」
「俺、宿題がしゃれにならないくらい残ってんだ。今まさにピーク時」
本日8月31日。全国の学生達にとっては悲しく忙しい1日だ。
この少年にとって、今年は特に忙しい夏休み最終日になった。中学入学と同時に入部した柔道部で迎える、初めての長期休暇。
毎日朝から晩までひたすら部活に打ち込んでいた少年が余裕を持ってこの日を迎えられているはずもなく。
少年は、自分に残されている「やるべきこと」を指折り数えた。
「あと数学の問題集半分と、読書感想文と、英語のプリントと……そうそう、自由研究も。あぁ、残り12時間じゃ確実に終わんないな。つーわけで、本当、ごめんな」
「あっ! 待って!」
閉じられかけたドアを不審者の如くこじ開けた少女は、ギラギラと妙な圧力を発しながら言った。
「今日、夏休み最後だよ!」
「知ってるよ」
「夏といえば花火でしょ! 最後にひとつ、風流な思い出作っといたほうがいいと思うんだけど!」
「今日の思い出より明日提出の宿題が……」
「て、手伝うから! 徹夜でもなんでも責任持って終わるまで手伝ってやるから! もし終わらなかったら一緒に先生に謝るから! だからちょっとだけ、1時間、いや30分でいいから……駄目ですか」
「でも手伝ってもらうのはさすがに悪いし」
「お願い! 30分……いや20分!」
異常なまでの執念だ。どうやらよほど花火がやりたいらしい。
幼馴染みがこんなに花火好きだなんて、長い付き合いになる少年は全く知らなかった。
「お願いします!」
必死に頼み込む少女を前に、少年は思った。
──これは、断れないな……。
鮮やかな色を纏った光が弾ける。細い棒の先でパチパチと小気味良い音をたて、闇の中へ散っていく。
「わぁ、綺麗」
感嘆の声をあげた少女の横顔も、その光に淡く照らされている。
結局この幼馴染みの誘いを断わりきれなかった少年は、「じゃあ少しだけ」と返事をした途端すごい勢いで手を引かれ、近所の公園へと入った。そして今、こうして夏の終わりの花火を楽しんでいるわけなのだが。
「うん。余り物にしては綺麗だよな」
「え? な、なんで知ってるの?」
「その花火の袋、中途半端に開いてたじゃん。どうせ夏休み中に友達とやったのの残りなんだろ」
「……大正解」
バレちまったか、とでも言いた気な彼女の表情を見て、少年は「へいへい。どーせボクは余ったついでですよねえ」と付け加えておいた。あくまで冗談っぽく。毎日のように交わしているくだらないやり取りだ。
なのに。
「ち、違うよ! 全然、そんな、ついでとかじゃないよ」
思いの外、少女は真剣に返してきた。
予想外の反応に少年の方が面食らってしまい、持っている花火の火が消えたことにもしばらく気付かなかった。
「いや、そりゃ確かに残りもんだけど……でも私は、今日、2人で花火したかったんだよ、本当に!」
目の前の少女は怒りと悲しみが入り混じったような複雑な表情で、今にも掴み掛からんばかりの勢いだ(というか本当に肩を掴んだ。ついでにガクガク揺すった)。
「お、おー……わかった」
慌ててコクコク頷くと、少女はようやく落ち着いたように深呼吸をした。
「……本当だからね。そこんとこ、よろしこ」
「よろしこ……古っ」
ツッコミを受け、少女はヘッと最高に可愛くない笑い方をした。
だけど、さっきのように悲しげな表情の彼女よりも、こっちの方が良い。とてもとても純真無垢な乙女(?)とは思えない可愛気のない笑顔だが、なんとなく好きだ。少年はそう思ってしまうのだった。
もちろん特別な意味の「好き」ではなく、単なる幼馴染みに対する気持ちだが。
少女が2本目の花火を袋から出し、少年にも新しく取ったものをくれた。
火を付けると再び周りが明るくなる。
「なんかさ、今年は夏休み全然遊べなかったから、寂しいかも……」
「そうだな。やっぱり中学入ると忙しくなるな」
中学最初の夏休みは、とにかく毎日が部活だった。もちろん充実はしていたが、やはり遊ぶような暇はほぼなかった。
「でもお前、クラスの友達といっぱい遊べたんだろ?」
「え?」
途端、少女が顔をあげた。しばらくきょとんとした表情で少年を見ていたが、やがてやっと話を飲み込めたように頷いた。
「あ、あぁ、クラスの女の子たちね。うん、いっぱい遊んだよ。プール行ったりお祭り行ったり、楽しかった」
「へぇ。なら良かったじゃん」
「うん。良かったよ」
「……」
「……」
しばしの、沈黙。
花火が発するパチパチという音だけが、妙に響いて聞こえた。
──なんか、よくわかんねぇな。
少年は心の中で呟いた。
最近、この幼馴染みの少女といてしばしば思う。隣で俯き加減に花火をしている彼女のことが、少年はたまに「よくわからない」のだ。
昔は、喧嘩も多いが基本的には仲の良い遊び相手で、顔を見れば何となくお互いの考えていることがわかったものだ。
しかし今は、少女が何を思っているのかなんてわからない。急に泣きそうになるし、また急に怒りだすし、かと思えばすぐ後には機嫌良く鼻歌なんか歌っている時もある。
全くもってわからない。ついでに、さっきから続いているこの沈黙の意味も。
「………」
あぁ、もう!
あまりのもどかしさに、少年はちぎれそうなほど首を左右にぶんぶん振った。
歳を重ねる(といってもまだ中学生)ごとに、わからないことが増えていく。ひょっとしてこれが大人になるということなのか?
もし、怒った数秒後にはニヤニヤ笑いながら鼻歌を歌う事が「大人」なのだとしたら──駄目だ俺、大人になれねぇわ。
そう思った少年は、秘かに溜め息をついた。
「……あぁ、無情」
ぼそりと、沈黙を破ったのは、いつもより控え目な少女の声。
「何? むじょう?」
「私が寂しいって言ったのは、あんたのことなんだけど」
「は?」
まただ。また、彼女がわからない。
「……いや、つまり私が言いたいのはさ。……あんたと遊べなくて寂しいってことだよ」
「え? 俺?」
「そう、あなた。……おわかり?」
それだけ言うと少女は、ふっと目を逸らしてしまった。
少し怒ったような顔だった。
「あぁ……はい」
今度はわかった。
そういえば去年までの──小学生の頃の夏休みは、もっと彼女と遊ぶ機会が多かった気がする。
公園でセミを採ったり、市民プールで泳いだり、小銭を握りしめ駄菓子屋に行ったり、どちらかの家でかき氷を食べたり、またどちらかの家で宿題を片付けたり。
それが今年はなくなった。
つまり彼女が言った「寂しい」は、それらしい。
「……あ、もう20分経っちゃうね。じゃあコレで最後にしよ」
少女が取り出したのは、細く短く、すぐに終わりそうな線香花火。
それぞれ1本ずつ持ち、ゆっくり火を着けた。
オレンジ色の丸い粒が、先端でぼうっと光る。
さっきまでの花火とはまるで違う、静かで深いチリチリという音だけが微かに聞こえた。
「お、なんか派手さはないけど、これはこれでいい感じだね」
隣の少女が嬉しそうに言う。
ほんの10秒前までは 怒ったような顔だったのになぁ──と、少年は思った。
やっぱり最近の彼女はわからない。
どんな時に怒って、どんな時に笑うのかも。
でも、さっき1つだけわかったこと。
どうやら彼女は、夏休み中、もっと幼馴染み同士で遊びたかったらしい。
「じゃあさ、来年はもっと早い時期にやろう」
その静かな少年の言葉に、少女はびくっと肩を震わせた。
「え?」
「8月の最初の方とか、もっと宿題に余裕がある時期に。そしたらゆっくり花火できんじゃん」
少年はニッと笑う。
少女はというと、よほどこの線香花火が気に入ったらしい。表情が伺えないくらいに下を向き、オレンジの光を眺めている。無言で、少年の言葉には一切反応を示さない。
「ん? ……なぁ、聞いてる?」
ここでようやくただ一言、
「そうだね」
と呟くと、少女は顔を上げた。満面の笑みだった。
「うん。来年は、もっとゆっくりやろうね」
その幼馴染みの笑顔を見て、少年は思った。
なんだ、ちゃんと可愛くなくもない笑い方できんじゃん──と。
「わからない」ことだらけな毎日。
何かが変わり始めているのだ。
少しずつ。しかし、確実に。
だけど。
来年も再来年も、一緒に花火ができたらいい。
隣で笑い合えたらいい。
それが今の、小さな約束。