政略結婚の初夜、夫婦そろって「別に好きな人がいます」と告白しました
「先に申し上げておきたいことがございます。私には、好きな方がいます」
結婚式を終えた日の夜。
これから夫婦として最初の夜を過ごすはずの寝室で、セシリア・グランフェルトは新しい夫にそう告げた。
言ってしまった。
口にした瞬間、心臓が嫌な音を立てた。
向かいに立つレオナルトは、手にしていた水差しを静かに卓上へ戻した。怒るでもなく、呆れるでもない。ただ、何かを考えるようにセシリアを見ている。
つい数時間前に夫となったばかりの男性である。
グランフェルト侯爵家嫡男、レオナルト。
背が高く、寡黙で、感情を顔に出さない。社交界では氷だの彫像だのと散々な呼ばれ方をしているが、本人が気にした様子はない。
そんな男を前にして、セシリアは膝の上で指を組んだ。
「もちろん、この結婚に不満があるという意味ではございません。両家にとって必要な婚姻だということも理解しておりますし、妻として果たすべき役目を疎かにするつもりも――」
「少し待ってくれ」
低い声に遮られ、セシリアは口を閉じた。
怒らせた。
当然だ。初夜に妻から、別に好きな男がいるなどと聞かされて、気分のいい夫などいない。
しかし、レオナルトは眉間を揉んだあと、ひどく困った顔をした。
「確認したいのだが」
「はい」
「君は、その男と関係を持っているのか」
「まさか!」
思わず声が大きくなった。
「一度もございません。それどころか、直接お会いしたことすらありません」
「……会ったことがない?」
「はい」
レオナルトはますます妙な顔になった。
やがて彼は長く息を吐き、寝台ではなく、セシリアから少し離れた長椅子へ腰を下ろした。
「それなら、私からも言っておかなければならないことがある」
今度はセシリアが身構える番だった。
レオナルトはしばらく言いにくそうにしていたが、やがて観念したように口を開いた。
「私にも、好きな女性がいる」
セシリアは瞬きをした。
レオナルトも黙った。
「……はい?」
「だから、私にもいる。好きな相手が」
「まあ」
「驚くところか?」
「驚きますわ」
「私も今、かなり驚いている」
二人はしばらく見つめ合った。
それから、どちらともなく視線を逸らした。
数刻前まで、王都中の貴族から祝福された新婚夫婦である。大聖堂では永遠の愛を誓い、広場では民衆に手を振り、披露宴では仲睦まじい夫婦になるようにと何十回も杯を掲げられた。
その結果がこれだった。
夫にも妻にも、それぞれ別の想い人がいる。
あまりの出来事に、セシリアの口元がふるえた。
笑う場面ではない。
絶対に笑ってはいけない。
そう思うほど、可笑しくなった。
「……ふ」
向かいを見ると、レオナルトも口元を手で隠していた。
「レオナルト様」
「すまない」
「笑っています?」
「君もだろう」
そこでとうとう堪えきれなくなった。
セシリアは声を上げて笑った。
夫も笑った。
人前では滅多に笑わないと聞いていた男が、肩を震わせている。
今日一日、二人は一度もまともに会話をしていなかった。結婚前に顔を合わせたのも数えるほどで、話題といえば領地、天候、互いの家族、結婚式の日取り。どれも当たり障りのないものばかりだった。
それなのに初夜になって、互いに好きな人がいると告白した途端、初めて一緒に笑っている。
何とも情けない夫婦の始まりだった。
「では、少なくとも互いに貞節を疑う必要はなさそうだな」
笑いを収めたレオナルトが言った。
「ええ。わたくしの方は、疑おうにも相手の本名すら存じませんもの」
「……本名を?」
今度は彼の表情が変わった。
「ええ」
「会ったこともなく、本名も知らない。それで、どうやって好きになった?」
「手紙です」
レオナルトが黙った。
セシリアは少し恥ずかしくなったものの、ここまで話したのだから隠す必要もないと思った。
「王立図書館の匿名書簡制度をご存じですか?」
「知っている」
「十四歳の頃から利用しているんです。もともとは本について意見を交換するだけの制度でしたけれど、気の合う相手とは卒業後も書簡を続けることが許されておりますでしょう?」
「ああ」
「六年ほど、同じ方と手紙を交わしています」
レオナルトは何も言わなかった。
ただ、なぜか額を押さえた。
「どうかなさいました?」
「いや。世間は狭いと思っただけだ」
「まあ。まさか」
「私もだ」
セシリアは目を見開いた。
「王立図書館の?」
「ああ。十七の頃からだから、こちらも六年になる」
「偶然ってあるものですのね」
「本当にな」
レオナルトは妙に遠い目をしていた。
王立図書館の匿名書簡制度では、互いの身元を知ることはできない。
本来は若い貴族や学者の卵たちが、家柄や派閥に左右されず意見を交わすために作られた制度だ。利用者が書いた手紙は一度図書館へ送られ、書記官が専用の便箋に内容だけを書き写す。そこから筆名を付けて相手へ届けられる。
だから筆跡も分からない。家の封蝋も使われない。
セシリアが知っているのは、相手が《北の梟》と名乗っていることだけだった。
六年前、まだ十四歳だったセシリアが、課題図書について半ば八つ当たりのような手紙を書いたところから始まった。
以来、何百通と手紙を交わした。
本の話。
季節の話。
家族に腹が立った日の話。
眠れない夜の話。
大失敗をして、消えてしまいたいと思った日の話。
何を書いても、《北の梟》は返事をくれた。
セシリアが、社交界では決して見せられない顔を知っている唯一の人だった。
「お相手の筆名を聞いても?」
何気なく尋ねかけ、セシリアは首を振った。
「いえ。やめておきます」
「なぜ?」
「聞いてどうするのです。せっかく匿名で続けているものを、わたくしたちの都合で探り合う必要はないでしょう」
レオナルトは少し考えたあと、頷いた。
「そうだな」
「お互い、相手について詮索しない。それでよろしいですか?」
「ああ」
話は思った以上に簡単にまとまった。
二人は人前では円満な夫婦として振る舞う。互いの想い人には干渉しない。夫婦として相手に望まないことを無理強いしない。
そして一年。
セシリアの父であるアーデルハイト公爵家と、レオナルトのグランフェルト侯爵家が協力関係を築くまで、この結婚を続ける。
もともと今回の婚姻は両家の仲裁を目的としたものだった。
王都の物流を握る公爵家と、北部の穀倉地帯を治める侯爵家。水路の利用と関税を巡る争いが長引き、ついには国王が「では子供同士を結婚させろ」と言い出した。
ひどく乱暴な解決策だが、二つの家が親戚になった途端、数年間揉め続けた案件の半分が驚くほど簡単に片付いた。
一年もすれば、もはや結婚を維持する必要はなくなるだろう。
「その頃に、改めて離縁について話し合う。それでどうだ?」
「異存ございません」
「決まりだな」
レオナルトが差し出した手を、セシリアは握った。
初夜の寝室で交わしたのは口づけではなく、離縁を前提とした握手だった。
けれど妙な話だが、セシリアは結婚が決まってから初めて、肩の力が抜けた気がした。
翌朝、セシリアは少し遅く目を覚ました。
昨夜は夫が客間へ移ったので、一人で寝台を使わせてもらった。慣れない婚礼衣装と長時間の披露宴で、思っていた以上に疲れていたらしい。
身支度を整えて食堂へ行くと、すでにレオナルトがいた。
「おはようございます」
「おはよう。眠れたか」
「ええ、おかげさまで」
席に着いてから、セシリアは食卓を見て少し首を傾げた。
いつも実家で出されていた朝食より、ずいぶん軽い。焼いたパンと卵、温かなスープ、薄く切った果物。それにミルクが多めに入った紅茶。
「お口に合わなかったか?」
「いいえ。むしろ、ちょうどよくて」
「ならよかった」
「ただ、昨夜の晩餐が豪華でしたから、今朝ももっと色々並ぶものかと」
「あれだけ疲れた翌朝に肉料理を並べても食べられないだろう」
レオナルトは新聞を開きながら平然と言った。
「それに君は昨夜、ほとんど食べていなかった」
セシリアは目を瞬いた。
「見ていらしたのですか?」
「向かいに座っていたからな」
「そうですけれど……」
夫はそれ以上何も言わなかった。
妻が倒れられては困る。その程度の理由だろう。
そう思ったのに、少しだけ嬉しかった。
結婚生活は、想像していたより穏やかに始まった。
レオナルトは口数こそ少ないものの、妻の行動へ細かく口を出すことはなかった。セシリアも、夫の仕事を邪魔しないようにした。
朝食と夕食はできるだけ一緒に取った。客を招く日は夫婦で迎えた。夜会では腕を組み、舞踏会では一曲だけ踊った。
必要なことを必要なだけする。
最初はそれだけだった。
ところが、一緒に暮らしていると、どうでもいいことまで知るようになる。
レオナルトは考え事をすると右の人差し指で机を二度叩く。
濃い珈琲を好むくせに、焦げた料理が嫌い。
犬には無関心なのに、猫を見かけると妙に目で追う。
書斎へ本を持ち込むのに、読み終えると元の場所へきっちり戻す。
セシリアがそういうことを覚えてしまうのと同じように、レオナルトも妻について覚えていった。
「セシリア」
「はい?」
「紅茶が濃すぎないか」
ある朝、唐突に言われた。
「……そうでしょうか」
「さっきから一口しか飲んでいない」
「少しだけ」
給仕を呼ぼうとしたレオナルトを、セシリアは慌てて止めた。
「結構です。飲めますから」
「苦手なら変えればいい」
「せっかく淹れてくださったものですし」
「なぜそこで紅茶に気を遣う」
「紅茶にというより、淹れてくれた方にです」
レオナルトは呆れたようだった。
「毎朝我慢される方が迷惑だろう」
その日からセシリアの紅茶は少し薄くなった。
《北の梟》も、似たようなことを書いていたな、と彼女はふと思った。
十四歳のセシリアは、与えられた課題も、習い事も、社交の練習も、嫌だと言えなかった。
ある夜、それに疲れてしまって手紙に書いたことがある。
『良い令嬢とは、何でも笑顔で受け入れられる女性なのでしょうか。わたくしには、とても難しいことに思えます』
翌週届いた返事には、こうあった。
『それで倒れたら、周囲が困るだけでしょう。我慢することと礼儀正しいことは、同じではないと思います』
当時は随分乱暴な人だと思った。
けれど、それから少しずつ、セシリアは嫌なものを嫌だと言えるようになった。
結局、今でも紅茶一杯には気を遣ってしまうのだけれど。
窓の外で雨が降り出した。
セシリアが顔をしかめたことに、レオナルトは気づいたらしい。
「雨が嫌いか?」
「はい。子供の頃から」
「なぜ」
「理由なんてございません。ただ、雨の日は世界が少し狭くなる気がして」
言ってから、セシリアは妙な気持ちになった。
同じことを、昔手紙にも書いた。
雨の日は世界が狭くなるようで嫌いだ、と。
《北の梟》は、『ならば雨の日だけの楽しみを一つ決めればいい』と返してきた。
以来、セシリアは雨の日には焼いた林檎の菓子を食べることにしている。
午後、侍女が茶の支度を運んできた。
皿の上には、焼き林檎のタルトがあった。
「まあ」
「奥様がお好きだと旦那様から伺いましたので」
セシリアは書斎の方を見た。
偶然だ。
きっと侍女の誰かから聞いただけ。
それなのに、その日の夜、《北の梟》へ出す手紙には、夫の話を書いてしまった。
『今日、雨が降りました。以前お話ししたでしょう。わたくしは雨の日が苦手だと。でも夫が、焼いた林檎のお菓子を用意してくれたんです。偶然だと思います。それでも、少し嬉しくなってしまいました』
書き終えてから、セシリアは首を傾げた。
夫の話をする必要などあっただろうか。
まあいい。
《北の梟》は昔から、彼女のどうでもいい話を読むのが好きだと言っていた。
数日後、返事が来た。
『それは良い夫ですね。少々面白くありませんが』
思わず笑ってしまった。
『嫉妬してくださるの?』
そう返すと、次の手紙には、
『もちろん。六年も手紙を書いてきた相手を、昨日今日現れた男に取られてはたまりません』
とあった。
セシリアはしばらくその一文を眺めた。
冗談だと分かっている。
それでも胸が温かくなった。
ところが、その夜の夕食でレオナルトが不機嫌そうに肉を切っているのを見て、なぜか罪悪感まで覚えた。
夫には夫の好きな人がいる。
自分にもいる。
だから何も後ろめたいことはない。
そう決めたはずなのに。
「何だ」
見すぎていたらしい。
レオナルトが顔を上げた。
「いえ」
「なら食べろ」
「はい」
セシリアはスープを口に運んだ。
少ししてから、今度は彼が口を開いた。
「セシリア」
「はい?」
「……最近、手紙は来たか」
スプーンが止まった。
「どなたからのことでしょう」
「好きな男だ」
「来ましたけれど」
「そうか」
それで会話が終わった。
何だったのだろう。
尋ね返すと、今度はこちらが夫の想い人へ関心を持っているようで嫌だった。
それから二月が経った。
二人は相変わらず別々の寝室を使い、必要以上に夫婦らしいことはしなかった。
けれど、結婚当初とは明らかに何かが変わっていた。
レオナルトの帰りが遅い日は、セシリアは食事を待った。
セシリアが夜会へ出る日は、レオナルトが迎えに来た。
書斎ではそれぞれ別の本を読んだ。同じ机を挟んで、たまに感想を言い合った。
ある日、セシリアが猫を見つけて庭まで追いかけ、そのまま三十分帰ってこなかった時は、レオナルトに呆れられた。
「君は猫を見ると人の話を聞かなくなるのか」
「そんなことは」
「ある。さっき私は三回呼んだ」
「……猫がおりましたので」
「知っている」
「とても可愛い猫でした」
「それも見れば分かる」
妙に可笑しくなって、セシリアは笑った。
レオナルトも、少しだけ笑った。
その日の夜、《北の梟》へ出した手紙の半分は、また夫の話だった。
結婚から四月が過ぎた頃、とうとう《北の梟》から指摘された。
『最近、あなたの手紙は旦那様の話ばかりですね』
セシリアは便箋を見つめた。
言われてみればそうだった。
その次の手紙には、夫が仕事をしすぎている話を書いた。
その次には、夫が珍しく昼まで寝ていた話。
さらに次には、夫が焦がした林檎の端ばかり食べるので驚いた話。
どれも《北の梟》に知らせる必要のない出来事だ。
困ってしまって、返事を書けないまま数日が過ぎた。
夜、図書室で便箋を前に唸っていると、向かいで書類を読んでいたレオナルトが顔を上げた。
「どうした」
「何でもございません」
「十分ほど同じところを見ているが」
「……少し、困っているだけです」
レオナルトは書類を置いた。
「例の男か」
「まあ」
「違うのか」
「違いませんけれど、もう少し言い方がございますでしょう」
「好きな相手でいいか」
「それなら」
妙な会話だった。
数月前なら、互いの想い人の話など避けていた。それがいつの間にか、天気と同じくらい気軽な話題になっている。
セシリアは便箋を折り畳んだ。
「何を書けばいいのか、分からなくなってしまって」
「喧嘩でもしたのか」
「いいえ。むしろ、今までと何も変わりません」
「なら、なぜ」
セシリアは迷った。
けれど、レオナルトなら笑わない気がした。
「最近、その方への手紙に……あなたのことばかり書いてしまうんです」
レオナルトが固まった。
「私?」
「ええ」
「なぜ」
「わたくしが聞きたいですわ」
「困ったな」
「何がです?」
「いや」
レオナルトは視線を落とした。
耳が少し赤いように見えるのは、暖炉のせいだろう。
「あなたは、その方へどんなことを書いていらっしゃるのですか」
セシリアは尋ねた。
「私?」
「ええ。恋愛相談をするのは公平ではありませんもの」
「別に相談された覚えはないが」
「今からそういうことにいたします」
レオナルトは呆れた顔をしたあと、やがて諦めたように息を吐いた。
「最近は、妻の話が多い」
今度はセシリアが固まった。
「奥様の?」
「妻は君しかいない」
「それはそうですけれど」
顔が熱くなる。
「なぜ、わたくしの話を?」
「面白いからだろう」
「面白い」
まったく色気のない答えだった。
セシリアがむっとすると、レオナルトは少し考えた。
「君は世間で言われているほど完璧ではない」
「失礼な方ですね」
「朝が弱い」
「普通です」
「菓子が一つ残ると、食べるかどうか五分は悩む」
「皆様の分を考えておりますの」
「猫を見ると人の話を聞かない」
「それは……猫がおりますので」
「知っている」
レオナルトが笑った。
「そういうところを、よく書く」
不意打ちだった。
何と返していいか分からず、セシリアは手元の便箋に目を落とした。
胸の奥が妙に騒がしい。
困った時に話を聞いてほしいと思う。
面白いことがあれば教えたいと思う。
嬉しい時には一緒に笑ってほしいと思う。
それはずっと《北の梟》に対して感じてきたことだった。
なのに最近は、その役目を目の前の夫が奪いつつある。
「……あなたも、同じなのですね」
「何が」
「好きな方への手紙に、配偶者の話ばかり書いてしまうところが」
レオナルトは答えなかった。
その夜、セシリアは《北の梟》へ短い手紙だけを出した。
『どうやらわたくしたちは、お互い困ったことになっているようです』
返事はいつもより遅かった。
五日後に届いた手紙には、一行だけ書いてあった。
『本当に、困ったものです』
それを読んだ時、なぜか泣きそうになった。
半年が過ぎる頃には、両家の関係はすっかり落ち着いていた。
父親同士は相変わらず顔を合わせれば嫌味を言うものの、水路を巡る協定は結ばれ、交易税についても合意した。二家合同で進めていた新街道の工事まで順調に始まっている。
つまり、この結婚の役目はほとんど終わった。
ある日、アーデルハイト公爵から夫婦宛てに手紙が届いた。
『当初の話より早いが、両家の関係は十分に安定した。二人が望むなら、半年後を待たず離縁の準備に入って構わない』
セシリアは書斎でその手紙を読み終えた。
隣にはレオナルトがいる。
本来なら喜ぶところだった。
結婚した夜、二人で望んだ結末だ。
自由になれる。
レオナルトは好きな女性のもとへ行ける。
自分も、いつか《北の梟》に会えるかもしれない。
なのに。
「……どうなさいます?」
セシリアは尋ねた。
レオナルトは答えるまで少し時間がかかった。
「君はどうしたい」
「わたくしが先に聞いたのです」
「では、保留にしたい」
胸が跳ねた。
「なぜです?」
「急ぐ理由もないからだ」
それだけだった。
セシリアは、馬鹿みたいに期待した自分が恥ずかしくなった。
「そうですね」
手紙を畳み、机の引き出しへしまった。
それから一週間、レオナルトは普段どおりだった。
朝食を一緒に食べた。
雨が降ればタルトが出た。
夜になれば同じ図書室で本を読んだ。
何も変わらない。
だから余計に苦しかった。
離縁すれば、もう一緒には暮らせない。
朝食を待つ必要もない。
彼が帰ってくる音を聞くこともなくなる。
くだらない話をして、呆れられることもない。
そう考えて初めて、セシリアは認めざるを得なかった。
自分は夫を好きになっている。
六年間想い続けた人がいるのに。
その事実に気づいた夜、セシリアは眠れなかった。
翌朝も気分が晴れず、結局その日の夜、レオナルトに尋ねた。
「一つ、相談してもよろしいですか」
「珍しいな」
「失礼な」
「聞こう」
二人は暖炉の前に座っていた。
セシリアは火を見ながら言った。
「もし、ずっと好きだった方への気持ちが変わってしまったら、あなたならどうなさいます?」
レオナルトの表情が硬くなった。
「変わるとは?」
「その方を嫌いになったわけではありません。今でも大切です。きっと、これからもずっと大切です」
そこまで言うと、胸が痛んだ。
《北の梟》にもらった手紙を全部覚えている。
十四歳の自分を慰めてくれた人。
失敗して泣いた夜、笑わせてくれた人。
結婚が決まった時には、『あなたがどこへ行っても、あなたはあなたです』と書いてくれた。
その人への気持ちが嘘になるわけではない。
「でも、別の方を好きになってしまったとしたら」
レオナルトは黙っていた。
暖炉の薪が弾けた。
長い沈黙のあと、彼が言った。
「私なら、正直に伝える」
「その方に?」
「ああ」
「傷つけても?」
「何も言わずに気持ちが変わったふりを続ける方が、私は嫌だ」
そういう人だった。
言葉は少ないのに、大事なところでは逃げない。
その日の深夜、セシリアは《北の梟》へ手紙を書いた。
何度も書き直した。
紙を二枚無駄にした。
三枚目で、ようやく最後まで書けた。
『親愛なる北の梟へ。
長い間、あなたを好きでした。
今でも好きなのだと思います。あなたから届いた手紙を読み返せば、きっと明日も好きだと思うでしょう。
けれど、夫を好きになってしまいました。
最初は、ただ一緒に暮らす相手でした。好きにならない方が都合がよかったのです。彼にも好きな女性がいて、わたくしにもあなたがいましたから。
それでも今、朝起きた時に顔を見たいと思うのは彼です。
面白いことがあった時に、一番に話したいと思うのも彼です。
あなたへ手紙を書こうとすると、彼の話ばかりになってしまいます。
それが、わたくしには答えのように思えました。
あなたとの六年間を、後悔したことは一度もありません。
十四歳のわたくしに返事をくださって、本当にありがとう。
あなたが「完璧にならなくてもいい」と言ってくれたから、わたくしは今、嫌なことを嫌だと言えます。
だから最後も、正直に書きます。
わたくしは夫を好きになりました。
どうか、お元気で。
あなたの明日に、一つでも良いことがありますように。
春告げ鳥』
最後の署名を書いたところで、涙が一滴落ちた。
六年分の初恋を、一枚の手紙で終わらせた。
翌朝、王立図書館へ送った。
不思議と後悔はなかった。
ただ、少し寂しかった。
それから四日後。
返事が来た。
封を開くのが怖くて、しばらく机に置いたまま眺めた。
それでも逃げるわけにはいかない。
セシリアは便箋を開いた。
『親愛なる春告げ鳥へ。
奇遇ですね。
私も妻を好きになりました』
最初の二行で、涙が出た。
そこから先は、少し笑いながら読んだ。
『あなたの手紙を読んで、安心したというのは酷いでしょうか。
実を言えば、私はしばらく前からあなたへ何と書けばいいのか分からなくなっていました。
妻について書くことしか思いつかなかったからです。
私はあなたを長く好きでした。
今でも大切に思っています。
ただ、気づけば、帰宅した時に会いたい相手も、くだらない話を聞いてほしい相手も、私が少しでも幸せであってほしいと思う相手も、妻になっていました。
だから、私からもお別れを言おうと思います。
六年間ありがとう。
あなたが十四歳の頃、「完璧な令嬢になるにはどうしたらいいか」と尋ねてきた日のことを、今でも覚えています。
あの時はずいぶん面倒な少女だと思いました。
今でも少し思っています。
怒らないでください。
あなたと手紙を交わせたことは、私の人生で幸運だった出来事の一つです。
どうか旦那様と幸せに。
北の梟』
失恋した。
なのに、嬉しかった。
彼にも好きな女性ができた。
夫人を好きになったのだという。
それならよかった。
自分と結ばれなくても、《北の梟》が幸せなら、それでいい。
そう思えるくらいには、彼を好きだった。
その日の夕食。
レオナルトは妙に静かだった。
いつも静かな男だが、今日は輪をかけて口数が少ない。
セシリアは何度か顔を見た。
目元が疲れている。
食後、二人で図書室へ行ってから、ようやく声をかけた。
「レオナルト様」
「何だ」
「もしかして」
言うべきか迷った。
でも、顔を見れば分かった。
「……振られました?」
レオナルトが顔を上げた。
数秒、沈黙した。
「君もか」
セシリアは吹き出した。
笑ってはいけないと思った。
けれど無理だった。
「ご、ごめんなさい。でも」
「いや。笑っていい」
レオナルトも額を押さえた。
「私も今、同じことを思った」
どうしてこの夫婦は、人生の大事なところほど間が抜けるのだろう。
結婚した初日に互いの片想いを告白し、半年後には揃って失恋している。
侍女に酒と菓子を頼んだ。
失恋慰労会でもしようということになった。
「それで、お相手は?」
セシリアは葡萄酒を少し飲んだ。
「奥様を好きになったそうです」
レオナルトの手が止まった。
「……何?」
「あなたのお相手は?」
「夫を好きになったらしい」
今度はセシリアが止まった。
二人は顔を見合わせた。
「お互い、よかったですね」
「ああ」
「好きな方が幸せになるなら」
「そうだな」
声が妙に暗い。
それがおかしくて、また少し笑った。
セシリアは焼き林檎を一口食べた。
「思えば、あの方には随分長くお世話になりました」
「六年だったな」
「ええ。最初は『星読みの旅人』という本について書いたのがきっかけで――」
レオナルトの杯が止まった。
「今、何と言った?」
「『星読みの旅人』です」
「……誰に勧められた」
「北の梟に」
レオナルトが完全に動かなくなった。
セシリアは首を傾げた。
「どうなさいました?」
「第三章」
「はい?」
「君は第三章の主人公について、何と書いた」
嫌な予感がした。
心臓が一度、大きく鳴った。
「どうして、それを」
「何と書いた」
「……あまりに無計画で、馬鹿ではないかと」
レオナルトが両手で顔を覆った。
「レオナルト様?」
「待て」
「何を」
「少し待ってくれ」
耳まで赤い。
セシリアは立ち上がった。
「あなた、どうしてそれをご存じなのです」
返事がない。
「その感想は、わたくしと北の梟しか知りません」
「……そうだな」
レオナルトが顔を上げた。
見たことのない顔をしていた。
驚いて、困って、恥ずかしそうで、そのくせ今にも笑いそうだった。
「セシリア」
「はい」
「君の筆名を聞いてもいいか」
もう答えは分かっている気がした。
それでもセシリアは言った。
「春告げ鳥です」
レオナルトが目を閉じた。
セシリアの喉が震えた。
「あなたは」
「北の梟だ」
静寂。
暖炉の薪が一度、ぱちんと鳴った。
セシリアは夫を見た。
夫もこちらを見ていた。
六年間好きだった人。
顔も名前も知らず、会えるかどうかさえ分からなかった人。
その人と半年前に結婚していた。
初夜には互いに「別に好きな人がいる」と告白した。
その後、本人を前にしながら恋愛相談を続けた。
好きな相手への手紙で、好きな相手の話をしていた。
挙げ句の果てには、お互いがお互いを好きになったから、お互いに別れの手紙を出した。
「……馬鹿ですわ」
セシリアの口からこぼれた。
「否定できない」
「何をしていたんですの、わたくしたち」
「半年ほど、盛大な遠回りを」
そこでセシリアは笑った。
涙が出るほど笑った。
レオナルトも笑った。
結婚した夜と同じだった。
大事なことが全部台無しになるくらい笑って、それでも可笑しくて止められなかった。
「だって、あなた、わたくしに恋愛相談まで」
「君もしただろう」
「あなたの好きな女性がわたくしだなんて、どうやって分かりますの!」
「その言葉はそのまま返す」
「気づいてくださいませ!」
「『星読みの旅人』の話を今日まで一度もしなかった君が言うのか」
「あなたは雨の日の焼き林檎で気づくべきです!」
「あれは侍女から聞いた」
「まあ!」
「だから余計に分からなかった」
笑い疲れて、二人とも黙った。
セシリアは目尻を拭った。
胸の中が、ひどく温かい。
嬉しい。
嬉しいに決まっている。
六年間好きだった人が、夫だった。
好きな人と結婚していた。
その人も、自分を好きだと言ってくれた。
これほど都合のいい奇跡などない。
「では」
レオナルトが口を開いた。
「離縁の話は撤回ということでいいか」
セシリアは返事をしかけて、止まった。
そして首を横に振った。
「いいえ」
レオナルトの表情から、笑みが消えた。
「……セシリア」
「そこは、きちんとしておきたいのです」
「何を」
セシリアは息を吸った。
少し恥ずかしい。
手紙ならもっと上手に言える。
それでも今は、目の前の彼に言わなければ意味がなかった。
「わたくしは、あなたが北の梟だったから離縁したくないのではありません」
レオナルトは黙って聞いている。
「六年前からあなたを好きだった。それは本当です。けれど、北の梟があなたではなかったとしても、わたくしは今、きっと同じことで悩んでいました」
初めてこの屋敷で朝を迎えた日。
食べやすい朝食を用意してくれた。
濃い紅茶を我慢しなくていいと言ってくれた。
猫を追いかける自分を呆れながら待っていてくれた。
雨の日には、焼き林檎の菓子があった。
手紙の向こうにいた人とは別に、セシリアはその一つ一つを知っている。
「わたくしが今好きなのは、レオナルト・グランフェルトです」
彼の目がわずかに見開かれた。
「北の梟がどなたでも、わたくしはあなたを選んでいました」
少し間があった。
レオナルトが立ち上がった。
ゆっくりセシリアの前まで来る。
「……それは、私が言うつもりだった」
「先に言った者勝ちですわ」
「初夜も君が先だったな」
「そうでした?」
「『好きな人がいる』と、いきなり言われた」
「あれは……申し訳ありませんでした」
「私も同じことを言ったから謝る資格はない」
また笑った。
それからレオナルトは、今まで見たことがないほど真剣な顔をした。
「私も同じだ」
「はい」
「春告げ鳥が君でなかったとしても、私はセシリアを選んでいた」
涙が出そうになった。
今度の涙は、笑いすぎたせいではない。
「帰ったら顔を見たい。何かあれば君に話したい。雨が降れば、君が嫌な顔をしていないか気になる。猫を見れば、君がまたいなくなると思う」
「そこは忘れてくださいませ」
「無理だ」
「ではせめて、もう少し美しい思い出を」
「全部好きだからいい」
ずるい人だと思った。
手紙では昔から、こういうことを平然と書く人だった。
目の前では口下手なくせに、肝心な時だけずるい。
「では、改めて」
レオナルトが言った。
その言葉に、セシリアは首を傾げた。
「何をです?」
彼は少しだけ緊張した顔をした。
「私には、好きな人がいる」
半年前と同じ言葉だった。
セシリアは笑った。
「奇遇ですね。わたくしにもおります」
「名前を聞いても?」
今度は迷わなかった。
「レオナルト・グランフェルト様です」
彼の口元が緩んだ。
「私も、セシリア・グランフェルトだ」
結婚して半年。
夫婦はようやく、初めて互いの想い人の名前を知った。
一年後。
本来なら、二人が離縁について話し合うはずだった日に、王立図書館から一通の封書が届いた。
『匿名書簡制度、継続利用確認のお知らせ』
セシリアは朝食の席でそれを読み、向かいにいる夫を見た。
「どうなさいます?」
「何が」
「文通です。もう必要ございませんでしょう?」
レオナルトは珈琲を飲みながら考えた。
「続けてもいい」
「まだ書くおつもりですの?」
「君は手紙の方が素直だからな」
「まあ」
セシリアはむっとした。
「あなたこそです。普段はろくに言葉にしてくださらないくせに」
「努力している」
「昨日、わたくしが新しいドレスを着た時、何とおっしゃいました?」
「似合う、と」
「『悪くない』でした」
「同じようなものだ」
「全然違います」
レオナルトは黙った。
反省している顔ではない。
その夜。
寝室へ戻ったセシリアは、枕の上に一通の手紙を見つけた。
見慣れた王立図書館の便箋だった。
呆れながら封を開く。
そして、最初の一文で笑ってしまった。
『親愛なる春告げ鳥へ。
今日は、妻をますます好きになった話を聞いてほしい。』
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