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猛犬注意 -世界フェザー級の番狂わせ男- シゲ 福山(1950~)

作者: 滝 城太郎
掲載日:2026/07/11

現役時代のシゲ福山は、自分も小学生だったし、日本でほとんど試合をしたことがないこともあって、全く印象がなかったが、最近、シゲ福山から若い頃ロスでお世話になったという元ボクサーの方から話を伺い、その人間性とボクシングスタイルに興味を持った。当時の雑誌などにも目を通してみたが、資料があまりにも少ないうえ、試合の動画もあまり残存していないため、正確な人物像は捉えづらかったが、文章に書けば、思い出してくれる人もいるのではないかという思いから、駄文を覚悟で投稿させていただくことにした。

 鹿児島県川内市出身のシゲ福山こと福山茂文は、若い頃から海外志向が強かった。

 四十三年二月に協栄ジムからプロデビューした頃、ジムのリーダーは元世界フライ級チャンピオンの海老原博幸で、選手としての実績こそ現役世界バンタム級チャンピオン、ファイティング原田には及ばないとはいえ、ボクシングの本場アメリカでの知名度となると全くひけを取らなかった。

 日系人の多いロサンジェルスで、メキシコのKOキング、アラクラン・トーレスと二度の死闘を演じ、二戦目はナックアウト勝利を収めているのだから、人気が出ないはずはない。

 そもそも戦前の日本のボクサーの間では、アメリカ武者修行がブームになっていたこともあり、西海岸のロサンジェルスとサンフランシスコは日本選手の人気が高かった。

 太平洋戦争以来、アジア圏以外での対外試合はほとんど行われなくなっていたが、三十九年に共に世界ランカーである海老原対トーレス戦のメインエベントが評判になって以来、協栄ジムでは西城正三をロスでの武者修行に送り込むなど、海外でのマーケット開拓に力を入れ始めていた。

 普通のサラリーマンには海外旅行の敷居が高かった時代だけに、現代とは違って、アメリカンドリームに夢を馳せるハングリー精神旺盛な若者は日本中にいた。鹿児島の田舎から出てきた福山もまたそんな思いを抱いた一人だったのだ。

 最初の二年間の戦績は九勝二敗(五KO)二分とまずまずの出来だったとはいえ、西城ほど華があるわけでもなければ、海老原や岡野耕司(独協大学一年で日本J・ウエルター級王座に就く)のような天賦の強打者というわけでもない福山は、個性に乏しく人気も今一つだったせいか、ずっと四回戦ボーイに甘んじていた。

 初めてメインエベントの舞台に上がった四十五年五月二十八日のダイナミック橋本(日本J・フェザー級五位)戦は、没個性的な彼にとって大きな転機となった。

 ダイナミック橋本こと橋本久三はアマチュア上がりの基本に忠実なボクサーファイターで、デビューから十九連勝して世界バンタム級五位まで駆け上がったこともある。今をときめく西城正三や高木永伍、高山勝義にも勝利したテクニックは本物だったが、メキシコ遠征でKO負けし、打たれ弱さを露呈してからしばらくはリングに上がれず、再起後はあまり話題になることはなかった。

 リングネームを“ダイナミック”としたのは、自身に活を入れるつもりもあったようだ。

 連勝が途切れてからは地味な存在になってしまったとはいえ、橋本がプロで負けたのは一度だけで、再起後も世界ランカー牛若丸原田と引き分けた星を含めて二十一勝一敗(二KO)七分という堂々たるもので、過去に六回戦までした経験のない福山は橋本の踏み台のようなものだった。

 ところが、福山は初回からぐいぐいとアグレッシブに橋本を攻め、計三度のダウンを奪っての一方的なナックアウト勝利(五ラウンドKO)。これは後年”番狂わせ男“と呼ばれて西海岸のボクシングファンを熱狂させた男のまだ序章に過ぎなかった。


 橋本戦の勝利で日本J・フェザー級七位にランクインした福山は、豪快な倒しっぷりが金平会長の目に留まったのか、待望のロス行きの切符を手に入れることができた。

 一年間の武者修行の成績は、渡米していきなりの三連続KO勝利を含む四勝二敗(三KO)で、その間の活躍も日本に伝えられた。おかげで帰国した時には、日本ランキングもJ・フェザー級一位までランクアップし、立派なメインエベンターとなっていた。

 帰国後三戦三勝二KOの余勢をかって挑んだ東洋J・フェザー級タイトルマッチでは、韓国の金炫にキャリア初のKO負け(十ラウンド)を喫したが、やはりロスでの生活が忘れ難かったのか、四十七年夏にはロスに移住し、強豪相手のハードな試合の中で、自己流の闘い方を会得していった。

 二度目のロスでは相手を選ばず戦ったこともあって、一年間で〇勝四敗一分(三KO負け)と散々な目に遭っているが、四十七年八月十八日のエデル・ジョフレ戦は大きな自信となった。

 “史上最強のバンタム”と言われるジョフレは、福山だけでなく日本の数多くのボクサーが敬愛するレジェンドであり、すでに三十四歳になっているとはいえ、とても福山クラスでは歯が立つ相手ではなかった。

 原田とのリターンマッチに敗れて以来、ほとんど引退状態だったジョフレが、三年のブランクを経てリングに戻ってきてからすでに三年経つが、相手は二線級ばかりでまだ誰も往年の“黄金のバンタム”が本気で世界フェザー級タイトルを狙っているなどとは知る由も無かった。

 ところが福山戦以降は世界ランカーをバタバタとなぎ倒し、一年二ヶ月後にはあのビセンテ・サルディバルを軽くKOして二階級制覇してしまうのだから、ジョフレはやはり規格外の男だった。

 福山は勝敗など鼻から頭になく、憧れのジョフレの胸を借りることが出来るというだけで喜び勇んでサンパウロまで出かけていったが、おそらく最後の調整試合のつもりだったジョフレは、この無名の日本人ボクサーを甘く見すぎていたようだ。

 前半五ラウンドまではジョフレのジャブとストレートがよく当たり、調整が順調であることを伺わせたが、六ラウンドにあの橋本を悶絶させた福山の左ボディアッパーをリバーに叩き込まれると、さすがのジョフレも身体が硬直し、足が止まってしまった。

 福山はここがチャンスとばかり距離を詰め、ワイルドな左右のパンチでジョフレを追うが、思い切り身体を寄せて叩きつけるように打つため、顎を引いて両腕でアームブロックするタイプのジョフレとは頭が交錯しやすい。結果、ジャッジから再三ヘディングの注意を受けてしまい、ジョフレは貴重な休憩時間を稼ぐことができた。

 ジョフレは防戦一方になった時はあえて打ち返そうとはせず、ガードを亀のように固めてガードの隙間からじっと様子を伺っていることが多く、いかにもグロッギーに陥っているかのように見える。

 ところが防御モードのジョフレは、防御一辺倒になることで、急所に連続してクリーンヒットを浴びる危険を回避しているため、回復力が驚くほど早く、ラウンドが変わると猛然と逆襲に転じてくることも珍しくない。チャンピオン時代にも、一方的にジョー・メデルから十数連打を浴びながら、打ち疲れたメデルのパンチが途切れる瞬間を見計らったような逆転KOで仕留めたことがあるように、この試合も七ラウンド以降は、先ほどまでダウン寸前だったのがフェイクだったかのように平然とした顔で攻撃に転じている。

 やはりフェザー級では身体が重いのか、動きがややぎこちないジョフレに福山も果敢にパンチを振るい続けたが、一発、一発の重さが違っていた。福山が執拗にボディを狙ってくるのに対して、ジョフレが「ボディブローは俺の専売特許だ」と言わんばかりに、次第に攻撃の的をボディに絞りはじめたのが何とも不気味だった。

 そして九ラウンド、ジョフレの左ボディアッパーが福山のわき腹にめり込むと、福山は腹を抱えてのたうちまわり、そのままカウントアウト。かつて日本のリングで青木勝利をKOした左ボディアッパーは全く衰えていなかった。当たった瞬間に「もう試合は終わった」と思わせるほどの背筋が凍るような一撃だった。

 ジョフレの地元での試合ということで、ジャッジもジョフレ寄りであろうことは覚悟していたはずだが、六ラウンドの攻撃は相当手ごたえがあったと見え、福山は終生この試合はジャッジに勝利を阻止されたと悔しがっていたが、仮にジャッジがブレイクではなくスタンディングダウンをとっていたとしても、結果は同じだったように思う。不利な状況に追い込まれても、常に冷静な試合運びで最後には勝利を手繰り寄せてしまうジョフレに勝つには、原田のように最終ラウンドまで休みなく攻撃できるタフネスを有しているか、回復不能なダメージを与えるほどのラッキーパンチしかないだろう。

 大金星こそ逃したものの、調整中とはいえ、程なく世界フェザー級チャンピオンの座に就くことになるジョフレの足を完全に止めた左の威力には大いに自信を深めたはずだ。

 四十九年九月十九日には、“リトル・レッド”と呼ばれる若き強打者ダニー・ロペスを九ラウンドでストップする番狂わせを演じ、よもやの世界ランキング入りを果たしたのも、ジョフレを追い詰めた自信の表れだろう。世界広しといえども、一発のパンチであそこまでジョフレに深刻なダメージを与えることができたのは、ファイティング原田と福山くらいのものだからだ。


 デビューからの二十一連続KO勝ちを含む二十四勝一敗(二十三KO)のロペスは、近い将来世界チャンピオン間違いなしのホープである。そんなスター候補生の相手に選ばれたということは、福山に期待された役割は只一つ、“咬ませ犬”だった。

 なぜか試合予想が一方的に不利になると燃える福山は、KO負け必至の予想に反して八ラウンドまで稀代の強打者と一進一退の派手な打ち合いを演じ、ロサンジェルス・オーディトリアムの観客の熱量はオーバーヒート寸前となった。

 八ラウンド終盤に福山のパンチで右の瞼が切れたロペスは、防戦一方になったところでゴングに救われたが、ほとんど視界が閉ざされていたため、九ラウンド開始のゴングに応じられず、レフェリーストップが入った。福山の左目もリングドクターのチェックを受けるほど腫れ上がっていたが、この我慢比べはロペスの方が最初に音を上げた格好になり、内定していた世界戦が延期されるほどのダメージを負っていた。

 番狂わせのKO勝ちで株を上げた福山は、西海岸で“シグ福山”の愛称で呼ばれ、そのスリリングな試合ぶりからファイトマネーもぐんぐん上がっていった。(日本でのリングネームはシゲだったが、アメリカ

ではなぜかシグ(Shig)と呼ばれていたそうだ)

 いい試合をすれば観客がリングにコインを投げ入れるのが西海岸の習慣で、コインの量が人気のバロメータだったが、福山の試合というと、常に雨あられとコインがリングに飛び交ったものである。

 ジムの先輩西城の影響を受けたのか、福山もまた、粋でおしゃれで金離れがいいせいか、女性にはモテまくり、宵越しの金は持たないノリで遊びにもボクシングにも青春を燃やした。

 世界ランキングを手土産に、翌年凱旋帰国を果たした福山は、国内でも二戦二勝二KOと好調を維持し、世界ランキングも六位まで上昇したところで、ついに世界挑戦の機会が訪れた。ターゲットはWBC世界フェザー級チャンピオン、デビッド・コティ(ガーナ)である。

 福山とは同い年でライバルと目されていたロイヤル小林をいとも簡単にKOしたWBAチャンピオンのアルゲリョは強すぎて論外としても、落ち目のオリバレスに僅差の判定勝ちで王座に就いたコティのウリは敏捷性で、ロペスのようなパンチがあるわけではない。

 金平会長は、まずは小手調べにとジムの後輩で同じくロスで武者修行した日本フェザー級チャンピオンのフリッパー上原をコティにぶつけてみたところ、敵地ということもあり経験不足を露呈し、十二ラウンド負傷TKO負けに退いたが、福山のタフネスとパンチ力ならコティを倒せると踏み、五十一年七月十六日、後楽園ホールでの世界タイトルマッチが実現した。

 倒すか、倒されるかの派手な試合で名を売った福山だけに、壮絶な打撃戦を期待して押しかけた観客たちはあまりにもふがいない終わり方に、試合後も憤懣やるかたないという様子だった。

 序盤からコティが足で掻き回すことは福山陣営にも想定内だったが、二ラウンドに、パンチがないとたかをくくっていたコティの右を不用意に喰らった福山は足をくねらせるようにダウン。

 その後もロペス戦のような反撃の期待もむなしく、一方的に打たれ続けた福山は三ラウンドでギブアップ。番狂わせで名を売ったタフガイが、まるで試合放棄のような形でストップ負けしようとは、別の意味での番狂わせだった。

 金平会長は今日でいうところの“炎上中”の福山をロサンジェルスに帰して、ほとぼりが覚めるのを待つことにしたが、福山は居心地がよく日本よりも馴染んでしまったアメリカにそのまま居座る腹積もりだった。

 実は福山はダウンした際に右足首を骨折しており、とても戦える状態ではなかったが、三年ほど前に世界フライ級チャンピオンの大場政夫が、試合開始早々チャチャイ・チオノイの右でダウンした時に捻挫した右足を引きずりながら戦い続け、十二ラウンドに逆転KOする姿を見ている日本人にとって、敵前逃亡は恥以外の何物でもなかった。

 ツキがなかったという他はないが、福山は言い訳することなく足早に日本を後にした。

 日本での世界戦で一度評判を落とした形になったが、やがて事情もわかってきたのだろう。一年間のブランクを経て、五十三年になると、続々と試合のオファーがかかってきた。世界ランキングからは漏れたとはいえ、ネームバリュー抜群の福山は相変わらずゼニになるボクサーだった。

 ちなみに五十三年度の福山の戦績は四戦四敗四KO負けである。数字だけ見れば、もう終わった選手である。ところがビッグネームとの対戦が相次いだのはその試合内容が素晴らしかったことに尽きる。

 五十三年六月十二日にオクラホマシティで行われ全米にテレビ中継されたショーン・オグレディとの一戦は、リングを屠殺場に変えたほどの凄まじい流血戦だった。

 長身イケ面の白人強打者オグレディはプロモーターを務める父親の下、チャンピオンになるための英才教育を施されてきたエリートである。WBAフェザー級世界一位の肩書きはダテではなく、五十六勝一敗(五十一KO)と戦績も申し分ない。ただし対戦相手の質は低く、福山がストップ勝ちしたロペスにはこてんぱんにやられている(四ラウンドKO負け)ように、決して打たれ強いわけではない。

 オグレディ陣営からすれば、ロペスに勝利した福山に勝つことで、すでに世界フェザー級の頂点にいるロペスとの再戦の足掛かりにしたいところであったはずだ。ところが反骨精神旺盛な福山はこういう試合には滅法強い。

 藤猛の8の字ローリングさながらに、低いダッキングから身体ごと伸び上がって叩きつける福山のラフファイトに巻き込まれたオグレディは、初回から偶然のバッティングで瞼を切り、早くも視界がおぼつかなくなってきた。ラウンドを重ねてゆくにつれ、傷口を狙って連打を浴びせる福山も返り血を浴び続け、まるで屠殺人のような形相である。オグレディは血が目に入ってまともに前が見えていないにもかかわらず、レフェリーストップはかからない。

 ところが五ラウンドに右ストレートを顎に喰らって軽いダウンを喫した福山が守勢に回るや、この機会を待ってましたとばかりにレフェリーからTKO負けを宣せられ、試合は唐突に終わった。

 ほとんどダメージがなくラッキーパンチ気味の一発をもらっただけの福山はピンピンしている一方で、顔面とトランクスを血まみれにした勝者が披露困憊の体で表彰を受けているという何とも奇妙な風景がお茶の間に中継された。この試合はオグレディを勝たせるためにジャッジまで加担して仕組まれた茶番だったことは明白である。そもそもこの試合をプロモートしたのがオグレディの父親なのだから、息子には勝ってもらわなければ意味のない試合だったというわけだ。

 歯切れの悪い幕引きで評判を落としたオグレディとは対照的に、実質的にWBA世界一位を追い詰め、再評価の機運高まる福山の次なる相手に名乗りを挙げたのが、WBC世界一位のマイク・アヤラだった。

 八月十二日のアヤラ戦も序盤から福山の攻勢が続き、会場は番狂わせの予感に包まれていた。

 四ラウンドにアヤラからロープダウンを奪った時は、このまま押し切るかと思われたが、六ラウンドにお返しのダウンを奪われてからは左目の古傷からの出血がひどくなり、七ラウンドには無念の棄権に追い込まれた。

 WBAとWBCの世界一位と実力的に遜色がないことを見せ付けた福山に、次なるビッグマッチとしてお膳立てされたのが、“怪物”ルーベン・オリバレス戦である。

 確かにオリバレスはすでに“過去の人”かも知れないが、まだアメリカでは絶大な知名度を誇っており、好戦的な試合スタイルを考えても、福山との打撃戦は相当な盛り上がりを予想されていた。

 しかし福山という男はことごとく人々の予想を裏切ることが好きであった。

 十月十七日のオリバレス戦は、二ラウンドにオリバレスの頭と右フックを同時に顔面で受け止めてしまった際に、また古傷が悪化し、試合続行が不可能になってしまったのだ(記録上は二ラウンドTKO

負け)。


 五十四年二月二十六日のボビー・チャコン戦が福山にとって最後の試合となった。

 元世界フェザー級チャンピオンのチャコンは、アルフレッド・マルカノとダニー・ロペスにKO勝ちしている他、オリバレスとも一勝二敗という実績を持つ強打者で、今もなおJ・ライト級制覇への道のりを着実に歩んでいる強敵だった(後に二階級制覇)。

 試合前の賭け率が十対一だったのは、二十九歳の福山ではチャコンのスピードについてゆけず、得意の乱打戦に持ち込んだとしても、打ち負けるのがオチと見られていたからである。

 チャコンは試合がもつれるとしぶとい福山を一気に片付けようと、初回から積極的に攻めてきた。スピードについてゆけない福山は、早くも目尻から出血し苦しい展開となった。

 ところが二ラウンドに福山の弾道ロケット弾の右ストレートが炸裂すると、この一発でグロッギーに追い込まれたチャコンはカウント9のロープダウンを取られ、あわやKO負けの大ピンチに陥るが、視界が悪い福山の追撃弾は届かず、命拾いしている。

 選手生活晩年の福山は、一発だけ実弾の入ったリボルバーを片手に戦いを挑むガンマンのようだった。

 ロシアンルーレットと同じく実弾は弾巣のどこに入っているかわからないので、引き金を引いているうちに唐突に飛び出してくるのだ。そのせいか、福山の試合は劣勢を覆すような場面で一発が飛び出してくることが多く、見ている観客からはたまらない展開になる。ただいかんせん、そこで仕留めきれなければ、ジリ貧になってゆくのもお約束で、年齢を重ねてゆくごとに後半のねばりがなくなってきた。

 遊び好きのプレイボーイで鳴らした彼のこと、自制しなければスタミナが枯渇してゆくのは自明の理だが、親分肌で面倒見も良く、ロスで修行中の若い日本人ボクサーたちには兄貴のように慕われている男にとっては、それが一番自分らしい生き方と納得していたのだろう。

 チャコン戦は、五ラウンド途中から古傷からの出血がひどくなり、コーナーからタオルが入ってTKO負け。長らくテンカウントは聴いていないが、日ごろから「パンチドランカーになって惨めな姿を晒すのは御免だ」とうそぶいていたこともあり、ここいらで潔くグローブを壁に吊るす決心をした。

 まだ世界ランカー相手でも十分戦える余力を残しながらの引退だった。

 格好良くリングを後にしたものの、ボクシングという生きがいを失った福山の生活はすさんでゆき、長らく所在も不明のままだった。実家にもたまに一方的な電話があるくらいで、ボクシングから一切足を洗った生活をしていたため、業界関係者の中でもどこで何をやっているかは謎だったが、六十二年に姉さん女房をもらってからは気持ちを切り替えたらしく、日本人街の名店「銀座・白八』で寿司を握る板前として第二の人生を歩み始めた。

 無冠に終わったことについては、「全然気にしたこともなかったね、元々楽観的な性格だから。でも世界のあちこちを回って強いやつとばかり対戦して、たくさんのお客を沸かす試合ができたのが自慢というか誇れることです」と全く後悔はなかったようだ。

 記録や報酬ではなく、観客を喜ばせてナンボという福山のボクシング人生は、日本人的というよりメキシコ人的かもしれない。太く短いが、忘れられない輝きを残すメキシカンファイターのような福山のボクシングは、日本というせせこましい土壌では決して育まれることはない、純度100%の舶来品だったのだ。

   通算戦績27勝16敗(20KO)3分

ジョフレ戦の終盤のラウンド、福山は積極的に手を出してはいたが、心なしか腰が入ってないというか、少し気持ちが引けているように見えたのは私の錯覚ではないと思いたい。おそらくリングでジョフレと正対した者だけにしかわからないオーラに身震いしていたのではないかと想像する。防戦一方でも、ガードの隙間からUボートの潜望鏡のように相手の動きを見つめているジョフレの眼。手が止まった瞬間に魚雷一撃で相手を木っ端微塵にしてしまえる自信に満ちた眼差しだったのではないだろうか。ジョフレは油断から自身の専売特許でもあるアッパーでグロッギーに陥ったことを屈辱に感じ、フィニッシュブローはアッパーで倍返しと決め、計算づくで福山を追い詰めていったような気がしてならない。そして福山は、少なからずジョフレの意図に気づき、追われる者の恐怖を味わっていたからこそ、腰が引けてしまった・・・考えすぎだろうか。

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