第九抄:神の物理技術と、エル・シャダイの真実
「ミカエル様。それでは、天君が時折見せる、あの扇を仰ぎながらのぼやきも……それさえも、多様性を守るための、あるいはシステムを円滑にするための演技なのですか? あの不機嫌な様子も、すべて計算の上だと?」
アダパーの問いに、ミカエルは初めて、慈愛に満ちた深い笑みを見せた。それは、老いた教師が愛弟子に向けるような温かさだった。
「演技でもあり、真実でもある。神というものは、あまりにも完璧すぎて、時として自らの完璧さに耐えきれず、不完全さに憧れるものだ。蘭奢樹の杖を持って下界を彷徨い、胡散臭い導師を演じるガブリエルも、牛になって泥にまみれ、己を家畜だと思い込むドゥも、彼らは皆、神としての超越的な孤独に耐えきれず、不完全な生命という名の冒険に没頭しているのだよ。彼らは、あえて忘れることを選んでいる。それが、このシミュレーションを成功させる唯一の方法だからだ。真剣な遊びこそが、宇宙を駆動する。天君もまた、あえてお前をいびることで、神であることの重圧から逃げているのかもしれんな。侍従長との下らないやり取りが、彼の唯一の救いなのだよ」
ミカエルは、さらに驚くべき真理を口にした。 「アダパー、お前が仕えている水神天君エンキ……. 彼がエル・シャダイ(全能の神)として知られるとき、それは単なる力の強さを意味するのではない。天界の物理学においてシャダイとは、供給と抑制のフィードバックを象徴するシステム用語なのだ。情報の流れを調整する弁のようなものだ」
「供給と、抑制……?」 「そうだ。ユグドラシルから無限のエネルギーを、生命という名のアバターに流し込む供給。そして、生命が肥大化しすぎてシステムを破壊しないように、あるいは一つの種が独占しないように冷徹にコントロールする抑制。この二つの機能が、天君というプロセッサの中で常に拮抗している。天君が時として慈悲深く、時として無関心に見えるのは、彼が宇宙の熱力学的な秩序を、その魂の全域で支えているからだ。彼は神である前に、この宇宙の最高性能のバランサーなのだよ。その負担は、お前の想像を絶する」
ミカエルは、アダパーの肩を軽く叩いた。 「お前は、天君の侍従長として、そのシステム上の揺らぎを最も近くで支えている。天君が人間臭いぼやきを漏らし、お前をいびるとき、彼はその瞬間だけ、宇宙を維持する無限の重圧から解放され、一個の生命としての息抜きをしているのだ。だから、これからも彼の皮肉を寛大に受け止めてやるがいい。それが、侍従長としての真の職務……つまり、主のメンタルケアなのだからな。神には神の、言葉にできない孤独と苦労があるということだ」
そのとき、高天原の空に巨大な光の柱が立ち昇った。 下界での実験……光武帝となるべき劉光の周辺で、大きな歴史の転換点が訪れようとしていた。ドゥを天界へ呼び戻し、代わりに神狐大将軍を降ろすという天君の命令が、次元の壁を突き破って発動したのである。空一面が白青銀色の稲妻に覆われ、ユグドラシルが共鳴の音を立てる。
「さあ、アダパー。仕事の時間だ」 ミカエルは、青く輝く空を見上げた。 「ドゥが帰ってくるぞ。角を生やし、自分を牛だと思い込んだまま、大声で鳴きながらな。彼に『お前は龍だ』と納得させるのは、宇宙を一から創るよりも難しい仕事になるだろう。だが、それこそが、この高天原の、賑やかで不完全な日常という名の幸せなのだよ。完璧な物語よりも、少し歪んだ喜劇の方が、ユグドラシルは好むのだからな。混沌こそが、次の進化の種なのだ」




