第三抄:泰山の砂塵と、劉光の祈り
西暦紀元二十年、中華高原。 流れる雲がせわしく、まるで風雲の時代を後押ししているかのようだ。泰山の山麓に陣取った自警団の中に、劉光の姿があった。彼は最愛の妻子を黄河支流の穏やかな農村に残し、唯一の戦友である家畜用の牛「牛光丸」――その正体は天界のエンキドゥである――とともに、野盗と化した官軍崩れ軍との、人馬一体ならぬ人牛一体の激戦を日々続けていた。
だが、近頃の戦いには、物理的な苦戦以上の奇妙な違和感が付きまとっていた。 「おかしい……。進軍しているはずが、なぜか何度も元の位置に戻されているような気がする」 劉光は額の汗を拭いながら、愛牛の首を撫でた。牛光丸は、鼻から激しく煙のような息を吐き出し、主の戸惑いを察するように低く鳴いた。 「モォォ……」 官軍崩れの中には、強力な呪術使いが潜んでいるらしく、戦場全体を歪めるような異変が生じている。さらには、何者かが自分と牛光丸を嘲笑うような、不気味な声が脳の奥底に直接響いてくるのだ。 「魔教やもしれぬ。深く用心せねば……」
劉光は、戦いの合間に身を寄せているあばら家の、粗末な神棚に置いた一枚の御神札を見上げた。それは、天界と人間界を統べる水神天君の霊験あらたかな札であり、天君は慈愛と恩寵に満ち溢れていると伝えられている。彼は膝をつき、必死に祈りを捧げた。
「水神天君様……。今、魔境の下級霊が私の進路を妨害しております。『足足まといの呪術』とか。耳元にも怪しげな笑い声が聞こえるような気がします。もっとも、掛詞や洒落の才覚さえ持ち合わせぬ、最低級の下級霊による稚拙な悪戯。これほど才のない洒落を弄するからには、霊力の劣る下賤な輩であることは間違いいないでしょう……。どうかこの魔教を打ち払い、我らに勝利の導きを! 悪霊退散!!」
劉光の先祖は、漢の武帝にまで遡る。かつて栄華を極めた一族も、巫蠱の禍で没落し、江南に左遷されてからは泥にまみれた農作業に甘んじてきた。彼が劉邦の血を引く正統な皇族であることを知る者は少ない。今は「劉」ではなく「琉」と名乗り、新王朝の「劉氏狩り」から身を隠している。 まさか、馬も買えず牛に跨り、足足まといと嘲笑されるこの農民の中に、未来の光武帝が潜んでいようとは、新の役人たちも、そして本人でさえも夢にも思わなかった。宿命という名の歯車は、本人の預かり知らぬ場所で、確実に回転を始めていた。




